第170回 永守恭子『夏の沼』

天降あもりくる光の無量か載りてゐむ天秤かたむくガラス戸の内
                         永守恭子『夏の沼』
 もう廃業した何かの店舗だろうか。ガラス戸というのも昭和の香りがする。その中にうち捨てられた天秤が残されている。左右に受け皿があり、分銅を乗せて重さを計る秤である。その天秤が平行ではなく、どちらかに傾いでいるという光景である。シャッター商店街かどこかのうら寂しい景色なのだが、作者はそこに降り注ぐ光の重量を見ている。その作者の視線と想像力によって、うら寂しい光景がまるで祝福されたかのようだ。わずか31文字の短歌が世界の一隅を切り取り照らす様は、まことにかくのごとくである。どんなにありふれた世界の一角であろうとも、それをしっかりと把握し適切な言葉の中を通過させると、聖別されたもののような存在感を持つ。ちなみに「天降りくる」は「あもりくる」と読む。蛇足ながら、現代の量子力学の教えによれば、光にも重さがあるという。
 作者の永守恭子は和歌山市在住の歌人で「水甕」同人。「水甕」は大正3年に尾上最柴舟らによって創刊された伝統ある歌誌である。『夏の沼』は第一歌集『象の鼻』に続く第二歌集。本書は水甕叢書の一巻としてKADOKAWA (旧角川書店)から刊行されている。
 あとがきに自分の視線は自然や植物に向くことが多く、身辺のささやかなことばかりを材料にしているとあるように、夫と二人の子供を家族に持つ作者の歌のほとんどは身めぐりの歌である。作風は端正な文語定型で、これに有季と付け加えたくなるほど季節感に溢れている。たとえば次のようである。
油照る真昼にポストは立ち尽くす駆け出したからむいななきをあげて
筍の皮剥くときの感触に日差しを受くる腕が毳立つ
熟れてゐるところより皮を剥きてゆく水蜜桃の夕焼けの窓
柘榴裂け呵々とわらへるその下に菊は白猫のやうにかたまる
 ランダムに挙げたが、一首目は油照りの盛夏で、このポストも昭和の懐かしい円柱形の赤いポストにちがいない。あまりの暑さに走り出しそうだという。二首目は比喩とはいえタケノコだから春先である。タケノコの皮に生えている和毛にこげからの連想か。早春の弱い日差しである。三首目は桃で、実るのは夏なのだが秋の季語だという。そういえば朝顔も秋の季語である。この歌は「あるある」で、確かに熟していると桃の皮はつるりと剥けるので、熟れているところから剥きがちだ。何かに押されていたのだろう。その場所だけが夕焼け色をしている。関西人に馴染みの白桃である。四首目は柘榴と菊だからもちろん秋。赤いザクロの実と白い菊の取り合わせが絵画的で日本画を思わせる。
 なぜ季節にこだわるのか。四季がはっきりした日本の詩歌の伝統だというだけではない。四季の巡りとはすなわち時間の経過と同義である。作者は自分が時間という河を行く旅人であることを自覚しているのだろう。いずれは過ぎ去り消えるものと思えば、どんなものも愛しく感じられる。身めぐりの些事を掬い上げる作者の手は細やかで優しい。
もう駄目とあきらめかけしボールペンなかなか残り時間しぶとく
車前草おほばこの道に凹凸あるところ梳きたる犬の毛がただよへり
美術室のカーテン揺れて陽がさせばトルソの胸に傷が浮き出づ
冷えて反る橋 あかときにはみでたる右の腕より目覚めて思ふ
照りとほる夜の道のうへたれか眼をうつすら開けてゐる水溜まり
 一首目のようにうっすらユーモアの漂う歌も作者の手の内にある。インクが切れかけていてもうだめかと思ってもまだ書けるボールペンは、もちろん喩として読んでもよいのだが、そのままでもおもしろい。二首目、「車前草」は植物のオオバコのこと。踏みつけに強い雑草なので、道ばたによく生えている。凹凸のある道なので、舗装されていない道路だろう。漂う犬の毛に気づくのも細かい観察である。三首目は子供の通う学校を訪れた折の一連にある歌。外から美術室の中を窓越しに眺めているので、ほんとうにトルソの傷が見えたのかという疑問が湧かないでもないが、これも細かい所に着目した歌である。四首目は布団からはみ出た腕が寒くて目が覚めたというだけの歌なのだが、初句の「冷えて反る橋」が出色の修辞である。五首目は月の夜道に水溜まりがあったという歌だが、他の歌に較べて言葉と修辞が勝っている。私の好きな歌に大辻隆弘の「まづ水がたそがれてゆきまだそこでためらつてゐる夜を呼ぶそつと」という歌があるが、この歌を思い出した。
 家庭婦人ならではの歌に厨歌があるが、本歌集にも厨歌は多く、いずれもおもしろい。生活に密着した場面であり、登場する食材も多様で、工夫のしがいがあるのだろう。
玉葱のスライスさらす水の面にかたちにならぬ淡きひかりよ
肩寄するエリンギ一家をばらばらにして手を払ふゆうづつのころ
ずつしりと重き大根さげもてば生きゆく力は腕より来たる
漲れるトマトのどこへ刃を入れむそのつくらゐの悩みなれども
ためらはず斬るとふ胸のすくことを大根のみが許しくれたり
 二首目にあるように、確かに市販されているエリンギは、大きなものと小さいものが同じ株にくっついている。「エリンギ一家」というのが「清水次郎長一家」のように聞こえて愉快である。また五首目で「切る」ではなく「斬る」という字を使っているのは、もちろん時代劇で武士が相手を刀で斬るのを連想しているからである。
 注目した歌をいくつか挙げておこう。
夕ぐれの町を行きつつ家家の引き出しにしまふハンカチ思ふ
仁王像のあはひ桜がはすかひに流るるかなた二上山あり
シャッター街にかすか潮の香流れをりその先に海ある確かさに
自動ドア鏡となりてけふ懈き全身かがやきたるのち裂かる
ジャコメッティの細い彫像日の暮れを影濃くゆけり自転車として
自が存在つよく感じをり今しがた煮てゐし魚が身より臭へば
日に一度かぎろふ刻ある唐辛子乾ける束に夕光が差す
 特におもしろいのは四首目で、自動ドアに映った自分の身体が、ドアが開くことによってふたつに裂かれたように見えたという歌である。着眼点もさることながら、表現が確かである。五首目のジャコメッティは私には思い入れのある美術家で、極限まで細く伸びた人物彫像で知られる。夕暮れの自転車がジャコメッティの彫像のように見えたのだが、その関係性を逆転して表現している。ちなみにジャコメッティはよく歌に詠まれる芸術家で、「照りかげる砂浜いそぐジャコメッティ針金の背すこしかがめて」(加藤克巳)や、「削ぐことが美の極限とは思はねどジャコメッティはやはり美し」(外塚喬)などの例がある。七首目も厨歌だが、私はこの歌を読んでとっさに世界遺産に登録されているアッシジの聖フランチェスコ教会の下の階層にある、ピエトロ・ロレンゼッティの「たそがれの聖母」という絵を思い出した。美しいルネサンス期の絵画だが、聖堂の東の壁面に描かれているので、夕暮れになって陽が傾くと夕日が差し込んで金色に輝くのでこの名で呼ばれている。ひょっとしたら作者はこの絵のことを知っていたのかもしれない。いずれにせよ一日に一度だけ輝く唐辛子の束に注ぐ作者の目は一期一会を見ているのである。読んで心が豊かになる充実の歌集と言えよう。