第253回 熊谷純『真夏のシアン』

太陽へあなたの傘を広げれば昨日の午後の雨がにほへり

熊谷純『真夏のシアン』

 雨の日の翌日に傘を干すというのは、布製の傘を使っていた時代の習慣である。今は使い捨てのビニール傘を使う人が多いので、傘を干すことはないかもしれない。「あなたの傘」とあるので、同居人か恋人の傘だ。自分はビニール傘なのかもしれない。傘を開くと雨の匂いがする。それは昨日の午後に降った雨である。「昨日の午後」という具体性が歌を立ち上げる。傘を干すという何気ない行為の中に、時間の流れが封じ込められている。

 熊谷純は1974年生まれ。35歳の頃から短歌を作り始めており、所属結社はなし。主に新聞や雑誌への投稿をしてきたらしい。2014年にNHK短歌の近藤芳美賞受賞。2018年に刊行された『真夏のシアン』が第一歌集である。歌集題名は、「あざやかな思ひ出そつとひもとけば渡れる風は真夏のシアン」という収録歌から採られている。シアンはプリンタにも使われている原色の青のこと。

 熊谷は結社に所属せず師も歌友もなく、独力で短歌を学びあちこちに投稿してきたようなので、歌集を出版するというのはなかなかに決心の要ることだろう。素っ気ないほどかんたんなプロフィールにもあとがきにも、独学で短歌を作るに到った経緯などは書かれていない。しかし読む進むうちに熊谷の辿って来た人生が浮かび上がる。歌の背後に「たった一人だけの人の顔が見える」短歌ならではのことである。

 熊谷は広島で大学を卒業した後、職を転々としている。そして現在は主にコンビニのアルバイト店員として生計を立てているようだ。

いくつものバイトと四つの会社辞し街には元の職場があふる

わが家から最寄りのコンビニにてレジを打ちては帰るもうすぐ七年

 非正規雇用の労働者で、中年フリーターという言い方もあるらしい。当然ながら生活は不安定で、未来を描くことができない。歌集を一読してまず感じるのは、非正規労働者が置かれている厳しい現実だ。特に職場のコンビニを詠んだ歌が多い。

ほほ笑みを仕舞つた若き蝶たちが光を求める夜のコンビニ

努力して夢をかなへた人たちの「夢はかなふ」がのしかかる夜

春風に時をり抗はうとするむすび百円セールののぼり

潔く命の期限を前面に押し出して待つ棚の弁当

窓外の景色を白く阻むのは指名手配のポスターの裏

真夜中にいつもと同じパンを買ふ人の名前も憂ひも知らず

あたたかきものの居場所はせばめられ夏に向かひて走るコンビニ

絶え間なく代謝のつづくコンビニで老廃物のやうに働く

平等に流るる時の真ん中で平等でない命を削る

 一首目、夜のコンビニに買い物に来る人はたいてい仏頂面である。ニコニコして買い物する人はいない。二首目、世の中には夢は叶うというメッセージが氾濫しているが、コンビニのアルバイト店員にはそれは重圧でしかない。三首目、時々春風に抗おうとする幟は作者の分身である。四首目、コンビニでは消費期限の管理が大切で、期限が切れた商品はゴミ箱に行く。それを「命の期限」と表現したところに軽いショックを覚える。五首目は店内で働く人にしか作れない歌だろう。コンビニに指名手配犯の写真を掲載した貼り紙があるのだが、外から見えるように貼られている。だから店の内側から眺める人には白紙である。六首目、いつも立ち寄る常連客との間でも、「暖めますか」とか「500円です」のような定型化した会話しか交わされない。七首目、村上春樹は『ランゲルハンス島の午後』で、現代の都市で季節感を感じられるのはデパートの売り場だと書いたが、時代は移りそれはコンビニの中となった。冬になるとおでんや肉まんの売り場が幅をきかせ、暖かくなると消えてゆく。八首目、代謝されるのは売り場に並ぶ商品だけではない。店員もまた新しい人が入ってくる。しかし自分だけは代謝されない老廃物のようだという歌である。九首目、時間は万人に平等に流れる。しかし個々人の命と生活のあり方は平等ではない。

 夢を持つことができない非正規労働者の現実である。近年、現代社会の生きづらさを詠んだ歌が増えている。角川『短歌』の2019年版短歌年鑑でも、「生きづらさと短歌」という座談会が企画されたほどだ。『塔』2019年3月号の時評で濱松哲朗が苛立っているように方向性のよくわからない座談会だったが、「生きづらさ」が現代のキーワードのひとつであることはまちがいない。

 しかし見方を少し変えれば、上に引いたような熊谷の短歌は、戦後の日本が貧しく人々の暮らしが厳しかった時代に多く作られた労働歌・生活歌の系譜に連なると考えることもできる。

吾帰る四畳半の家あることがいつしかあはれになりて歩める  出崎哲郎

夜は吾の寝台となる陳列台今日は干物を仕入れて並べる  富永正太郎

雪道の街灯の下にかぞへたるこまかき銭に鰯買ひたり  野本郁太郎

卑屈にまでこびて働きなりはひの無組織かなし大工われらは  高橋駆橘

 戦後のこの時代にはこのような労働詠がたくさん作られた。現代のコンビニのアルバイト店員はまさに無組織労働者であり、大いに通じるところがある。現代短歌シーンでは労働詠は少ないが、熊谷の短歌はこのような視点から評価することも可能だろう。

 このような環境で日々働く作者は、必然的にそのような境涯にいる自分を見つめることになる。

明確な使命を抱いて生きてゐるサラブレッドが我をみつめる

とりあへずあさつてまでは生きてみてその日に決めるそのあとのこと

めとりたることなき我の手が握る雨傘の柄はやや熱を帯ぶ

何もかも捨て去る時の喜びを知るゆゑ捨つるために拾へり

今日でバイトを辞めると言ふ君をもう羽ばたけぬ我はうらやむ

 走るという明確な使命を持って生きるサラブレッドと、何の使命もなく毎日を生きるだけの自分との対比、結婚することなく家族を持たない自分、会社を辞める時の開放感を知ってしまった自分。短歌は熊谷にとって、表現の手段であるに留まらず、自己を見つめる手段ともなっているのだろう。

 そのような日々を生きる熊谷とて、日々の暮らしの中で自分をとりまくものに何かを感じないわけではない。

ゆく道のあちらこちらで落ちてゐる小さなもののただ一度の死

平日の雑踏のなか目を閉ぢる助けを求める声が聞こえる

日めくりのまだまだ尽きぬ今日の日も誰かが誰かを生み落とした日

靴ひもを固くむすびてあざやかな苔のむしたる遊歩道ゆく

 一首目はおそらく晩夏にそこここに見られる蝉の死骸だろう。自分が置かれた境遇ゆえか、世界の中で助けを求める小さな声にも鋭く反応する。今日という平凡な日も、世界の片隅で誰かが生を受けた記念すべき日かもしれない。非正規という労働環境は厳しくとも、世界は私とは関わりなく美しい。集中に「うつし世の荒き波間をこぎ渡る三十一文字はたましひの舟」という歌がある。確かに熊谷にとって短歌は「たましひの舟」なのだろう。

 その他に心に残った歌を挙げておこう。

映画館の真下の本屋で君を待つポップコーンの香に包まれて

両肩に別別の鳥憩はせて今日も真顔の銅像は立つ

降る雨をまづ手のひらに確かめて四月の街を急ぐ人びと

道のべにはりつく軍手に近づきて後出しなれど挑む左手

真夜中にひつそり開くごみ箱に春には春のごみがあふるる

あなたのために流しし涙の道すぢをこよひ静かにたどる目薬

とりどりのサラダの並ぶコンビニに蝶が舞ひこみさうな夕ぐれ

 特におもしろいのは四首目である。歩いていると道端に手袋が、それも決まって片方だけ落ちていることがある。世に「片手袋」といって、写真に撮って集めているサイトもあるくらいだ。落ちていたの手袋とじゃんけんをするという歌で、ユーモアが感じられる。六首目もおもしろい。コンビニから出るゴミにも季節感があるという歌で、言われてみればそうだろうが、ふつうは気がつかないことである。七首目もなかなか美しい。陳列棚に並んだ色とりどりのサラダがお花畑となって、その上を蝶がひらひらと飛ぶという想像は新鮮だ。

 ただし気になるのはかなり口語を取り入れているのに、旧仮名遣いを用いていることである。会話的な口語を旧仮名で書くのは違和感がある。新仮名のほうがふさわしいのではないか。

【註記】
 熊谷以外の引用短歌は、篠弘『現代短歌史 I  戦後短歌の運動』(短歌研究社)による。