第89回 田中槐『サンボリ酢ム』

白みゆく空と消えゆく夏の声 記憶にありきこの傾きは
               田中槐『サンボリ酢ム』
 奇妙な題名のこの歌集は、『ギャザー』(1998年)、『退屈な器』(2003年) に続く田中の第3歌集である。『退屈な器』以降2009年までに作られた歌が収録されている。あとがきによれば、田中は石井辰彦が講師を務める明治学院大学の短歌公開講座に長年出席し、石井の出すハードルの高い作歌課題に挑戦し続けたという。すでに2冊も歌集を持つ歌人としては珍しいことだ。心のどこかに自分を更新したいという願望があったかと推察される。
 いつもながら鋭い斉藤斎藤が帯文に「連作ごとに『私』が起動する、短編集のような歌集だ」と書いている。言うまでもなく「起動」はコンピュータ用語で、コンピュータ本体かアプリケーション・ソフトを立ち上げることを意味する。〈私〉が起動するということは、起動される以前には〈私〉は存在しなかったということだ。〈私〉は実在論的概念ではなく、コトバの中から立ち上がる関係的概念だと言いたいのだろう。確かに本歌集は改めて短歌における〈私〉の位相を考えさせてくれる歌集なのである。ひと筋縄ではいかないこの歌集に少しく分け入ってみよう。
 歌集巻頭の「未完了過去、あるいはモノガタルわれ」という連作に、ギュツラフ訳『約翰福音之書』が引用されていてまず驚いた。
ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。コノカシコイモノワゴクラク。
 ヨハネ伝のこの日本語訳は、プロセインの宣教師カルル・ギュツラフが漂流民の音吉を助手として1837年に完成させたもので、シンガポールで刊行されている。ギュツラフは伝道のためイギリス船モリソン号に乗って来日しようとしたが、薩摩藩の砲撃事件に遭い来日を果たせなかった。ちなみに国語学者の藤井貞和は最近刊行された『日本語と時間 – 時の文法をたどる』(岩波新書)でこのギュツラフ訳聖書を引用して、「カシコイモノ」ではなく「カシコイコト」とすべきだったと論じている。
 田中がこの引用を連作の冒頭に配したのは、一種の態度表明であり宣言ではないかと思われる。
モノガタルわれの時制は未完了過去すべからくモノガタリユク
もの思ふもの言ふそして産み落とすモノガタリゆゑとほざかるヒカリ
ぐづぐづと文語口語をまぜながら燃えないゴミを出しにゆく朝
 つまりは田中が生み出す短歌はすべて物語であり、新共同訳では「初めにことばがあった」と訳されるヨハネ伝の冒頭の語句が示すように、物語はコトバでできていて、〈私〉はコトバから立ち上がるということなのではないか。そのように読むことができる。この歌集が極めて主題性の強い連作を中心に構成されていることは、このことと無関係ではない。
 たとえば「佐世保に雨が降る」という連作は、2004年に佐世保市立大久保小学校で起きた12歳の女子児童が11歳の女子児童にカッターナイフで斬りつけられて死亡するという事件を踏まえている。
ぺきぱきとカッターナイフの刃を折りて細切れにくる殺意の角度
ふうわりと車を降りるスニーカーが映し出されて「女児」と呼ばれる
 また「町田少年殺人事件」は、2005年に町田市在住の高校一年の女子生徒が、同じ団地に住む16歳の少年に刺殺された事件を背景としている。
心ない言葉にあなたは殺される 言葉が先にわたしを殺す
刺し傷は喉に深く、深く、深く あなたは言葉を失ひなさい
 また「渋谷から遠く、離れて」は渋谷繁華街が突然戦場と化するという荒唐無稽な想定で作られている。
この街が戦場である理由なら109マルキューで聴く175Rイナゴライダー
ゲーセンで待ち合はせして最終のプリクラ撮つて戦争に行く
 これらの歌には日常身辺詠が浮かび上がらせるような普通の意味でリアルな〈私〉は完璧に不在である。かといって事件の渦中の特定の人物、たとえば殺人を犯した少年の視点に仮想的に身を置いて世界を眺めるという態度、例えば福島泰樹のように過去の死者になりかわってその慚愧を詠うという視点が取られているわけでもない。もし近代短歌の伝統的な不動の〈私〉に基づく短歌しか認めない人が見たならば、田中の歌では〈私〉の位置取りがわからないと述懐するにちがいない。短歌の〈私〉は現実の〈私〉ではなく、虚構の〈私〉でありうるということは、言うまでもなく前衛短歌が達成したパラダイム・シフトであるが、ここにあるのは虚構の〈私〉と言えるほど一貫した〈私〉でもまたないのである。連作ごとに生成され、連作が終了すると消去される〈私〉の影のごときものはいったい何なのだろうか。
 あとがきにもあるように、三部構成からなる本書の第二部には、石井辰彦の講座に通っていたときに、課題に応えて作られた実験的作品が収められている。その課題には、「鳥渡るこきこきこきと罐切れば」という秋元不死男の俳句や、「ながく永く待ちにし春に会はむとしするどくとがる花の芽われは」という岡井隆の短歌で折句を作るとか、「春宵一刻直千金」で始まる漢詩の文句を織り込んで歌を作るなどという、修辞の技巧を極めたようなものもある。しかし修辞ではなく主題による課題もあったらしく、「朝日ジャーナル」「連合赤軍」「飯島愛」や上に引いた殺人事件は、おそらく課題ではないだろうか。つまり「町田少年殺人事件を主題とする連作を作りなさい」という課題である。それならば連作ごとに〈私〉が生成され、連作とともに〈私〉も終了するのは理解できる。作者としての私は、与えられた主題の内部に何とか入り込もうとする過程で〈私〉の変容を経験せざるを得ないからである。
 しかし、ことは単にそのように単純に理解して終わることができるようなものではない気がする。なぜなら第二部に収録されたもの以外の歌についても、ほぼ同じ印象を得るからである。本歌集全体を通読して感じるのは、一首に宿る〈私〉への信頼感の低さと、それに代わるようにして前景化する連作から析出される〈私〉の影のようなものである。
 このことは荻原裕幸が1995年以降の短歌シーンを特徴づける表現のひとつとして「題詠の時代」を選んでいることと無関係ではなかろう。荻原はブログで「必然的なテーマではなく任意の題材のレベルで何かを共有するのがスタンダードになったこと」をこの時代の顕著な特徴としている。2003年に始まったネット上の「題詠マラソン」が多くの人を集めていることもこれと関係しているだろう。題詠においては当然ながら主題が〈私〉に先行する。また、ここ十数年「短歌における『リアル』とは何か」という問題が繰り返し論じられていることからもわかるように、どうも現代の歌人にはリアルな〈私〉というものがあまり信じられなくなっているようだ。
 確かに斉藤斎藤の言うように、本歌集には「連作ごとに起動する〈私〉」がまるで短編集のように立ち現れている。しかしこれがほんとうに短歌を支える〈私〉でありうるのかというのは改めて考えなくてはならない問題である。また題詠・連作重視という作歌態度は、一首の屹立性の低さと愛唱歌の不在につながることもまた自明だろう。

032:2003年12月 第5週 田中 槐
または、観察点の公共性

気づかないふりしてただけ回転を
       終えた景色は遅れて止まる

        田中槐『退屈な器』(鳥影社)
 田中槐(えんじゅ)は1960年生まれ、「未来」の同人で、処女歌集として『ギャザー』(短歌研究社)がある。プロフィールによれば、浜松の高校に通っていたとき、教師に村木道彦がいて、それが短歌との出会いだったそうだ。何という幸福な出会いだろう。槐(えんじゅ)という名前はぺンネームで、今まで男性が女性かわからなかったのだが、今回歌集を読んで女性であることがわかった。

 掲載歌はメリーゴーラウンドに乗っている情景を詠んだものである。メリーゴーラウンドの回転は本当はすでに止まっているのだが、周りの景色はまだ回転しているように感じており、客観的現実と主観的意識のタイムラグがこの歌の趣旨である。しかし、この歌の前後には次のような歌が並んでおり、メリーゴーラウンドはひとつの比喩に過ぎず、本当のテーマは家族の崩壊であることがわかる。

 Merry-Go-Round が回る一周を「家族」のまま演じておりぬ

 つるつるで冷たい馬だわたしから逃げゆく父の乗れる白馬は

 いつまでも同じ速度で逃げてゆく父よ電池が切れてしまった

 空白の多いアルバム ぼろぼろの家族を螺旋の金具が綴じる

 雑踏にまぎれゆく母右の手に見ず知らずなる少年をひき

 母親が家族を捨てて別の男と結婚し、父親もまた新たな女性と再婚し、まるで「岸辺のアルバム」さながらに家族が崩壊する。残されたのは自分と弟のふたりとなる。田中はこの家族崩壊の苦しみを執拗に短歌にしている。

 家族崩壊という経験の深刻さはよくわかる。しかし、ご本人には悪いが、そのテーマが短歌として詠まれたときに、読者としての私に伝わって来るものは、田中の個人的経験にすぎず、あくまで個人的経験の域を出ていないと感じてしまうのである。これはなぜだろうか。

 ギブソンの創始した生態心理学には、「観察点の公共性」という概念がある。生態心理学では、主体としての自己は「環境に埋め込まれた」エコロジカル・セルフと規定され、自己の知覚と環境世界の知覚とは相補的であるとされている。つまり、「世界を知覚すること」は「私を知覚すること」であり、その逆もまた成り立つのである。環境世界のなかで知覚者としての自己が位置する場所を「観察点」と呼ぶ。観察点は言語においては、次のように働く。

 1) 八百屋は向かいにある

 2) 嵐が近づいている

この文には表現されない観察点がある。八百屋は知覚者である「私」から見て向かいの方向にあり、嵐は「私」がいる場所に近づいているのである。だから、「八百屋は向かいにある」は、実は「八百屋は(私の/私から見て)向かいにある」の省略形なのだ。このとき、知覚者である「私」は潜在的に含意されているが、文で表現された「見え」のなかには含まれない。このことは、次のような文についても成り立つ。

 3) 夜景がきれいだ

 4) 工事の音がうるさい

「きれいだ」「うるさい」と言うからには、そのように知覚している人がいなくてはならないが、それは表現されていない。これが知覚者としての自己、エコロジカル・セルフである。

 観察点は本来、知覚している自己に固有のものである。他の誰も私になりかわることはできないからである。しかし、観察点は「公共化」することができる。私が見ているものを、他の人も見ることができるようにするのである。

 5) 八百屋は交番の向かいにある

 6) 嵐が東京に近づいている

 このようにすれば観察点を「公共化」できる。公共化された観察点には、「私」の入る余地がもうない。だから、「八百屋は交番の向かいにある」には、1)の文と異なり、「私の/私から見て」を挿入することができない。ところが、なかには容易に公共化しがたいものがある。その代表は「うれしい」「悲しい」などの主観的感情、「痛い」「かゆい」などの感覚である。

 7) 父の死が悲しい

 8) 右膝が痛い

 表現されていなくても、「悲しい」「痛い」と感じている主体は、知覚者としての自己以外ではありえない。知覚主体を三人称にして、「山田君は父の死が悲しい」とするとおかしいことは、日本語の世界ではよく知られたことだ。「山田君は父の死が悲しいのだ」とか「悲しがっている」などとしなくてはならない。こうすると客観的報告になり、第三者でも表現可能になる。

 さて、長々と生態心理学におけるエコロジカル・セルフについて述べてきたのは、短歌はことのほか「うれしい」「悲しい」などの主観的感情をその主要なモチーフとしてきたからである。個人の心の内に湧き上がる感情は、本来他人が共有できるものではない。観察点を公共化することができない個的なものである。しかし、短歌に詠み込むためには、それを公共化しなくてはならない。このできないはずのことを可能にするのが短歌の力であると言えないだろうか。

 倒れ咲く向日葵をわれは跨ぎ越ゆとことはに父、敗れゐたれ 
                  小池光『パルサの翼』

 おもかげに顕(た)ちくる君ら硝煙の中に死にけり夜のダリア黒し
                  宮柊二『晩夏』

 亡き人のショールをかけて街行くにかなしみはふと背にやはらかし
                  大西民子『雲の地図』

 小池の歌は不遇の小説家であった父の死を詠ったものである。父の死を悼みつつも、小池には家族に貧乏を強いた父に対して複雑な感情がある。その感情が、父の形象化である倒れたヒマワリを跨ぎ越すという仕草によって表現されている。宮の歌は戦死した友人を悼む歌であり、行き場のない追悼の気持ちはかたわらに咲く黒いダリアに深くこめられている。大西の歌は、家庭的に不遇であった歌人がたった一人の肉親である妹を失ったあとのもので、遺品のショールをかけて街を歩けば、悲しみの量が減ることはないが、ショールの暖かみに妹が感じられて悲しみが和らぐ気がすると詠っている。いずれも本来は他人と共有できないはずの深刻な個的感情を詠った歌だが、それを読む私にはその感情が十分に公共化されていると感じられる。私にもその感情の一端が伝わり、短歌として成功している例である。本当ならば本人にしかわからないはずの感情が、倒れた向日葵や黒いダリアや遺品のショールに形象化され詠われることで、「観察点の公共性」に到達しているのである。

 ひるがえって田中の短歌を見直してみると、表現がいかにも直截であり、短歌として昇華することなく、感じたことをそのままに投げつけている感じがする。ここには作者である〈私〉の視点だけが充満している。そのような作り方をされた歌には、読者はなかなか共感を持って入っていくことができないのである。

 それに引き替え、同じ歌集にある次のような歌は共感できる。

 ふかみどり色の服来た郵便夫鮟鱇のごとき鞄をさげて

 手袋の左右の差ほどの違和感でくちづけに知る心変わりを

 渡るべき橋の長さを思いつつ水鳥の美しさを言おうか

 待つときにやわき腋窩をさらすこと諾しより恋は始まりぬ

 郵便配達夫のはちきれそうな鞄を鮟鱇に見立て、恋人の心変わりを手袋に喩えたとき、〈私〉(=田中)と読み手である私のあいだに、鮟鱇や手袋という第三の項が象徴的に介在することで、「観察点の公共性」の実現する継起が生まれている。

 最近の歌を読んでいると、田中のようなタイプの短歌の作り方をする人が増えて来たように感じられる。これは佐佐木幸綱が「短歌のカラオケ化」と呼んだ現象と関係しているのだろうか。ちなみに「短歌のカラオケ化」とは、誰もがマイクを持って歌いたがり、誰も人の歌を聴いていないというカラオケボックス的状況をさすのであるが。


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