184:2007年1月 第2週 由季 調
または、私と他者との間に浮かび上がる歌

あはあはとあはいあはひをあはせつつ
      うたひあひゐるしやぼん玉はも
              由季調『互に』(ながらみ書房)

 京都は寺町二条に三月書房という本屋がある。京都では歌集を多く置いている唯一の本屋で、短歌好きのあいだではよく知られている。いつぞやも短歌の書棚を見ていたら、「こないだテレビで(文部大臣賞の)授賞式のお父さん見たわ。疲れたはるみたいやったな」と店主が店に入ってきた男性に親しげに話しかけている。その男性は青磁社社主の永田淳さん(永田和宏氏のご長男)だった。そんな雰囲気の本屋である。歌集だけではなく他の点でもユニークな本屋で、2000年に解散したペヨトル工房の本を今でも販売していると言えば、本好きの人ならばその意味する所はただちにわかるだろう。私は数ヶ月に一度の割合で三月書房に行き、手提げの紙バッグ一杯の歌書・歌集を買う。店主はきっと奇特な客だと思っているにちがいない。今週取り上げる由季調『互に』も、そんな折りに偶然手に取った歌集である。

 著者は「ゆき・しらべ」、歌集の題名は「かたみに」と読む。2006年にながらみ書房から熾叢書の一巻として出版されている。装幀も著者の自装で白地に漢字の「互」という文字を図案化した模様が配されている。直線が支配的な昭和モダン調で、昔の資生堂のポスターを思わせるアールデコ調である。由季調は「詞法」改め「熾」に所属しており、沖ななもが序文を書いている。私はまったく知らない歌人で、インターネットで検索してみても、『短歌往来』2006年6月号に黒瀬珂瀾氏が書いた書評が氏のホームページに掲載されているくらいで他に情報はない。おそらくは第一歌集を上梓したばかりの新人歌人だと思われる。このように情報がないのは、歌集を繙くとき予断を持たずに歌に入り込むことができるので、むしろ歓迎すべき事態である。歌集を開いてたちまち私は由季調の歌の世界に引きずり込まれ、短い至福の時間を味わった。

 由季の短歌の世界は上に挙げた巻頭歌によって余す所なく言い尽くされている。これほどまでに自分に世界を言い尽くした歌も珍しい。それは由季の歌人としての膂力を示している。由季の短歌の基本は平仮名書きにごく僅かの漢字を混ぜるという書法で、まず視覚的印象としてやわらかくたおやかな感じを受ける。次に平仮名書きの故に、文節の切れ目が自明でなく、読む私たちの視線は庭に置かれた踏み石をたどるように、平仮名のひとつひとつを追わなくてはならない。そのため一読して短歌のリズムに収めることは難しく、再読・三読してようやく定型のリズムが脳裏に生まれる。その過程に若干の時間を要するのだが、このタイムラグが実は重要で、それは日常の言語から詩の言語へと跳躍するための助走時間として働いている。ここに歌の浮上に不可欠の「修辞」がある。

 次に掲出歌の上句「あはあはとあはいあはひをあはせつつ」を見ると、ア音で頭韻を踏んでおり、本来の文語ならばク活用の「あはき」となるべきところを敢て口語の「あはい」にしたのは、「あはい」と「あはひ」の音を揃えるためである。このように著者は歌の韻律に対して並々ならぬ注意を払っていることがわかる。では「あはいあはひ」とは何かというと、漢字に直せば「淡い間」で「わずかの間の空間」ということである。つまり、ふたつのしゃぼん玉が浮遊していて、その間にわずかの隙間があり、そのふたつのしゃぼん玉は互いに歌を歌い合っているという美しい情景が詠まれているのだ。平仮名書きのたおやかさがしゃぼん玉のはかなさと見事に共振している点にも注意しよう。互いに歌を歌い合うしゃぼん玉は、相聞を交わし合う男女の喩と解釈することもできる。しかしそのことは重要ではない。重要なのはしゃぼん玉がふたつ存在し、またふたつのしゃぼん玉の間が「あはい」ことである。意味と形式が美しく融合した歌の世界を、意味の過剰な分析的言語を用いて語ると、ふたつのしゃぼん玉は「相互性」を、その間の空間は「関係性」を象徴するのであり、由季の短歌の世界は「相互性」と「関係性」の世界なのである。やさしく言い換えると、「相互性」とは〈私〉と〈あなた〉がいるということ、または〈私〉と〈世界〉があるということであり、「関係性」とは〈私〉と〈あなた〉もしくは〈私〉と〈世界〉の間に繋がりがあるということである。しかもその繋がりは「あはい」、つまり僅かしか離れていないと同時に、すぐに切れてしまいそうなほどに弱い。このように規定された「関係性」が由季の短歌が抒情を汲み上げる源泉である。

 収録された歌を見て行こう。

 かげさへもすきゐるやうなはるあさきひかりのなかにさくらがひあはれ

 ゆびさきにすこしべとつくぱすてるの白ぐわやうしに白をうかべぬ

 あゐいろのわづかにのこるいんくびんかたむけながら未明にをりぬ

 きまぐれなときをながして砂時計わたしのいまを傍流にせり

 いうりしてゐるかのやうにむきあふはかがみにうつるわれとわがこゑ 

 うすあをくたゆたひながら〈一瞬〉はひかりのなかにかへりてゆけり

 べうしんを目でおひゐればさゐさゐのなかから刻めるおときこえきて

 一読してわかるように由季の短歌世界には光と白色が過剰なほどに溢れており、その中に僅かに色彩が配されているが、そのほとんどは「うすべに」か「うすあを」である。それは一首目の「さくらがひ」の色であり、三首目のインクの青、六首目の〈一瞬〉の青である。「相互性」と「関係性」はしばしば光と影として形象化されていて、一首目や六首目がそのことを示している。光と影はときには「実体」と「虚像」という形を取ることもあり、五首目に登場する鏡もまた「何かを映すもの」で「相互性」と「関係性」を象徴するアイテムであることは言を待たない。歌に詠まれている情景はさまざまでありながら、これらの歌はすべて「間(あはひ)」を詠っているのであり、日常に潜む微細な「間(あはひ)」に視線を注いで歌に掬い上げる力はなかなかのものである。なかでも興味深いのは四首目と七首目の時間を詠んだ歌である。ここには時間の複数性が見られる。砂時計が刻む時間とは別に私の存在する時間があるという認識、秒針が刻む時間とは別のもうひとつの時間があるという意識がテーマである。そういえば「間(あはひ)」には時間的意味もあるのだった。これらの歌から浮かび上がる〈私〉は、美しく張られた蜘蛛の巣の糸のような関係性の網の目の中で、世界に向かって静かに手を差し出す姿をして、私たちの目に迫ってくるのである。

 これにたいして次の歌群は〈私〉と〈あなた〉の関係性に焦点を当てた相聞である。

 やさしさもあまさもひかへてしまつては あなたとのあはひを うたえぬのでは 

 私から光(かげ)をときはなしてくるる あなたとふひと なのか あなたは

 だきしめてもらへるのなら胸のなかのかたくなさにまでおしあてるから

 目のあつてしまはぬうちに この角度で きみをかがみにふうじこめたし

 かりそめにあふも片頬(かたほ)で かりそめにも、われをみようとしてはくれない

 はなびらのながれいるまで間(あひ)といふものをしらずにゐしか ふたりは

 このあひをながるる花片(はなびら)のささやきぬ ひとつあはひをもちあふ ふたり と

 いずれも激しい恋愛というよりは、淡い片思いといった風情の相聞だが、〈私〉と〈世界〉の歌群と比較するとより現代語で口語的であり、新仮名遣いも混じるようになる。相聞という恋愛感情のレベルになると、どうしても古語より現代語の方が感情を言葉に載せやすいという事情があるのかもしれない。短歌の形式と韻律の面ではやや緩んだ造りになっているのも、感情を盛り込もうとしているためなのだろう。しかし形式と韻律の緩みは歌に独り言の呟きといった趣きを与えてしまい、歌の訴求力を減殺することにも注意すべきだろう。しかし相聞も六首目「はなびらの」や七首目「このあひを」のように強い修辞意識に支えられて生まれ出ると、とたんに歌としての輝きを増すのである。

 なないろをせしくりすたるまひるとふ壺のなかにてしろくこほれり

 まだあをいうちにもがれた水蜜桃がにほひはじめるゆびのあとから

 かうすいの瓶たふるればかくれぬのそこへかをりのしづもりてゆく

 かぎばりをとがらせてあむあらべすく空(くう)にひろごる虚(くう)をはらみて

 ひとしづくの力ためつつふくらむる雫の端(さき)に完結はあり

 こゆるぎのせくかぜいなすふうりんのひきゆくなみのねいろをしをり

 あまたへにあをきかけらをあつめつつあめねく咲(ひら)くあさのひかりは

 一首目のクリスタルの花瓶が白く凍るという見立ても美しいが、真昼を壺と形容するのも見事な捉え方である。二首目には水蜜桃の熟して行く時間の推移が感じられる。三首目の「かくれぬ」は隠れ沼の意。香水の瓶が倒れて中身が漏れだしたところを隠れ沼と形容したのだろう。四首目は特に好きな歌。アラベスク模様のレース編みの情景だと思われる。レースは細い糸を編んで織り上げるものだが、糸という物質が占める部分よりも、透けた虚の空間の占める部分の方が多い。つまりはレースは虚を編み上げたものだということで、これは短歌にも通じることである。

 巻末には他の歌とは別立てにして次の一首が掲げてある。

 ふたひらのしろいてふてふのあやなせるこのあかるさをまひるとおもふ

この歌は巻頭のふたつのしゃぼん玉の歌と対をなして見事に呼応している。最初にふたつのしゃぼん玉、最後に二頭の蝶々を配することで、『互に』一巻は円環をなして完結する。あたかも最初に登場したふたつのしゃぼん玉が二頭の蝶々に姿を変えて虚の空間へと飛び去るかのごとくである。そこに聞こえるはずのない蝶の羽ばたきを聴くのが詩人の役割なのである。