生者死者いづれとも遠くへだたりてひとりの酒に動悸してをり
真中朋久『エフライムの岸』
真中朋久『エフライムの岸』
私が好きなマンガに『孤独のグルメ』(原作久住昌之、作画谷口ジロー)というのがある。TV東京で実写ドラマ化されていることを知り驚いたが、中年サラリーマンの主人公が仕事で他出した先で、一人で食事をするというだけのマンガである。食べるのは贅を尽くしたグルメではなく、山谷のぶた肉いためライス、デパート屋上の讃岐うどん、神宮球場のウィンナ・カレーなど、庶民的なものばかりだが、それが実に旨そうに描かれているのである。「食」は人間の根源的営みであり、B級グルメにも旨さを求めるのだ。
掲出歌を読んだときこのマンガを思い出した。歌の〈私〉はどこかの酒場で一人で酒を飲んでいる。「をばちやんビールもらふよと言ひ正の字のいつぽんをまた書き加えたり」という歌があるので、そんな庶民的な酒場だろう。〈私〉は生者とも死者とも遠く隔たっていると感じる。死者はあの世に去った人たちだから、〈私〉から遠いのは当たり前だ。だから〈私〉が生者から遠いと感じていることがポイントである。なぜそう感じるか。心に鬱屈する思いがあり、〈私〉を周囲と同調させることができないからだ。この思いが真中の短歌を貫く通奏低音と考えてよかろう。
真中は1964年生まれで、すでに『雨裂』(現代短歌協会賞)、『エウラキロン』 『重力』(寺山修司短歌賞)の三冊の歌集があり、「塔」の選者を務める幹部会員である。京都大学理学部修士修了の理系歌人で、気象予報士でもあるという。『エフライムの岸』は第四歌集。歌集題名のエフライムは旧約聖書に登場する地名である。あとがきに最初は「シイボレト」と付けようと考えたが、あれこれ考えてエフライムを選んだとある。旧訳聖書の「士師記」(ししき)によれば、ギレアドの人がエフライムの人を打ち破り、逃走する者を殲滅せんとして、エフライムの人がどうか見分けるために、「シイボレト」と言わせ、正しく発音できない者を殺したという。過去の物語と片付けることができないことに気づき戦くエピソードである。この一節から歌集題名を採ったところにも、真中のこの世にたいする姿勢が現れていると言えよう。
一読しておもしろいと思ったのは、理系出身であるためか、技術職に就いているためか、ふつう短歌には登場しない硬質の用語が用いられていて、それが短歌の重量感を増していることである。
かと思えば静かで細やかな写実の歌も味わいがある。
最後に私が読んでいちばんよいと感じた歌をあげておく。
掲出歌を読んだときこのマンガを思い出した。歌の〈私〉はどこかの酒場で一人で酒を飲んでいる。「をばちやんビールもらふよと言ひ正の字のいつぽんをまた書き加えたり」という歌があるので、そんな庶民的な酒場だろう。〈私〉は生者とも死者とも遠く隔たっていると感じる。死者はあの世に去った人たちだから、〈私〉から遠いのは当たり前だ。だから〈私〉が生者から遠いと感じていることがポイントである。なぜそう感じるか。心に鬱屈する思いがあり、〈私〉を周囲と同調させることができないからだ。この思いが真中の短歌を貫く通奏低音と考えてよかろう。
真中は1964年生まれで、すでに『雨裂』(現代短歌協会賞)、『エウラキロン』 『重力』(寺山修司短歌賞)の三冊の歌集があり、「塔」の選者を務める幹部会員である。京都大学理学部修士修了の理系歌人で、気象予報士でもあるという。『エフライムの岸』は第四歌集。歌集題名のエフライムは旧約聖書に登場する地名である。あとがきに最初は「シイボレト」と付けようと考えたが、あれこれ考えてエフライムを選んだとある。旧訳聖書の「士師記」(ししき)によれば、ギレアドの人がエフライムの人を打ち破り、逃走する者を殲滅せんとして、エフライムの人がどうか見分けるために、「シイボレト」と言わせ、正しく発音できない者を殺したという。過去の物語と片付けることができないことに気づき戦くエピソードである。この一節から歌集題名を採ったところにも、真中のこの世にたいする姿勢が現れていると言えよう。
一読しておもしろいと思ったのは、理系出身であるためか、技術職に就いているためか、ふつう短歌には登場しない硬質の用語が用いられていて、それが短歌の重量感を増していることである。
復旧費見ればおほかたは読み取れる鋼柱を深く打ちし地すべり「鋼柱」は軟弱地盤の強化のために打ち込む鉄の柱で、「誘導雷」は近くに落ちた雷のせいで電磁界が変化し電圧・電流が生じる現象、「導波管」はマイクロ波通信などで電磁波の伝送に用いる管で、「誤差伝播」とは計算上の誤差が雪だるま式に大きくなることをいう。抒情詩である短歌ではあまり用いないし、用いにくい硬質の漢語である。作者がどのような仕事をしているのか詳らかにしないが、次のような歌があるところを見ると、治水や護岸工事などの土木関係の仕事かと思う。二首目のエレベーターは、地上から上に上がるためではなく、地下の工事現場に行くためのものである。
誘導雷防ぐ工夫を説きはじめし老技師の手のペンよく動く
導波管這ひのぼりゆく鉄塔はあまた茸(くさびら)のごときをつけて
筆算に誤差伝播を解いてゆくいくたびか桁をまるめて
蜂が群れてゐるごときかな今週は圧送ポンプが生コンを揚げる真中の作風はずばり骨太の男歌である。女性歌人が多く、男性でも繊細な写実歌を作る人の多い「塔」では珍しい。詠み方に特徴的なのは、蛇行して流れる川のような重いリズムを作り出す字余りの多い文体である。
エレベーター満員なれば階段を駆けおりてゆく安治川の底へ
二十年後におまへはここにゐるだらうと福部さんが言ひきわれはここにゐる一首目はまあ定型に納まっているほうだが、七・七・六・九・八の三十七音で、特に下句の九・八のあたりが、土俵を割るかと思えば粘る力士のように、終わるかと思えば終わらず、まだ言い残したことがあるとつぶやくような重量感を生んでいる。五首目を意味で区切ると、七・七・六・五・十二となり、大きく破調である。第二歌集『エウラキロン』ではあまり目立たなかったこのような文体が、『エフライムの岸』では顕著に見られることから、作者の中で何かが醸成され生み出された文体であるらしい。壮年の男の日々の鬱屈を表現する文体としてこれよりふさわしいものは考えられない。日々の鬱屈は次のような歌に読み取れる。
父母の戸籍に三つある抹消のそのひとつわれは新戸籍作りしゆゑに
壁に並べ貼られたるマッチのラベルなど見あげなにとなく夏の日過ぎし
ところどころ層序を乱し堀りかえす積みたるなかにあるとおもへば
冬のグラスに色うつくしき酒をそそぎふるき死者あたらしき死者をとぶらふ
こゑたかく言ひあふを聞きそののちをナショナリズムの谷をゆくわれはこの世に生きて仕事をしていればいろいろな問題を抱え込む。作者はなかなか見過ごしたり軽く流したりできぬ性格のようで、いちいち突っかかるのである。角川『短歌』の1月号増刊で「今年の秀歌集十冊」を選ぶ座談会が企画されていて、『エフライムの岸』もその中に選ばれているのだが、永田和宏が真中を評して「不器用な男で、自分の中にある正義観がうまく世の中と調和しない」と述べている。上に引いた歌を読めばさもありなむと思えるのである。
資本主義の世に生きるゆゑ避けられぬとひとを諭しつつたかぶりゆきぬ
民業を圧迫しつつ生き残らんとするか 俺に相談するな
解雇告げるこゑ隣室にしづかなりしづかなればなほ響きくるなり
元請の社名にさんをつけて呼ばれわが知らぬ不手際を責めらるる
自重せよと言ひて言ふのみにありたるは見殺しにせしことと変はらず
かと思えば静かで細やかな写実の歌も味わいがある。
すこし前に過ぎたる船の波がとどき大きくひとつ浮橋をゆらすおもしろいもので、心中を吐露するような歌の間にこのような静かな写実の歌が混じると、それだけ静謐さが増すようで効果的に感じられる。これらの歌に共通するのは、はつかな「ゆらぎ」とそれに気づく〈私〉である。通り過ぎた船から届く波、磨硝子の向こう側の鳥影、対岸の窓ガラスの燦めき、もつれあいながら飛ぶ蝶、煙突から出るガス、これらは微細な空気のゆらぎのようなもので、それに気づいて定型に定着する繊細さも作者は持ち合わせているのである。
赤き実をついばんでゐる鳥かげのしばらくは磨硝子のむかうに
あけがたのひかりに窓の反映の見ゆ対岸にひとのくらしあり
もつれあひながら日なたをゆく蝶の朱いろは枝にふれずひらめく
朝から煙突のさきゆらめいて見えねども熱きガスを吐きをり
築地活版のながれをくみしいくつかの明朝のなかの石井茂吉版雑誌の編集作業から思いを馳せる活字についての一首目、震災前に東海村の原子炉を見学した折りの二首目、また三首目のような飲食の歌、四首目の家族を詠む歌も集中には混じっており、歌の素材に変化を与えている。
排気筒出でし物質の拡散はおほかたは海のうへのことなる
両手ゆびにちからをこめてしたたらすみどりのしづく火のごときみどり
わたしではなくてお腹をかばつたといまも言ふあれは冬のあけがた
最後に私が読んでいちばんよいと感じた歌をあげておく。
夕陽照る河口にみづのながれありなかばはさかのぼるごとき動きに写実と深い思いとが見事に結合した歌と見る。とはいえ「なにげなく残しし歌が選歌欄評に引かれて起ち上がりたり」という歌を作る作者のことだから、私が引いた歌にも憤激して起ち上がるかもしれない。そうならないことを祈るのみである。
雨のあとの螺鈿のやうなみづたまりたましひに少し遅れ跳び越す