第358回 蝦名泰洋『ニューヨークの唇』

秋深し桔梗の色の海を渡る移動サーカスの象の姉妹に

蝦名泰洋『ニューヨークの唇』 

 初句の「秋深し」は、「秋深し隣は何をする人ぞ」という芭蕉の句にも使われている季語の常套句なので、この季語で歌を始めるには相当な勇気が必要だろう。季節は晩秋である。さて、次はどのように展開するのかと思っていると、「桔梗の色の海を渡る」と続く。桔梗の色は濃い紫なので、渡っている海は深い大洋だろう。ちなみに桔梗は初秋の季語。この歌のポイントは次の「移動サーカス」である。この語句で一気に意味の広がりが生まれる。トラックに乗って町から町へと移動するサーカス団は、昔は曲馬団とも呼ばれていた。次のような歌がある。

風の夜のサーカス小屋に獣らが眠れば夢にてるアフリカ

                 渡辺幸一『霧降る国』

サーカスはすでに隣の町におり閑散とせし空き地に遊ぶ

                  小塩卓哉『風カノン』

 サーカスを主に特徴づけるのは、絶えず町から町へと移動する漂泊性と芸を見せる動物だろう。小塩の歌は前者に、渡辺の歌は後者に焦点を当てている。両者はあいまってサーカスを非日常的な異界とする。超人的な空中ブランコや綱渡りも耳目を引くが、子供たちが夢中になるのは何といっても動物で、中でもライオンや虎や象はスター級だ。蝦名の歌ではサーカス団の象の姉妹が海を渡っている。大洋を行くのだから大きな貨客船だろう。結句の「象の姉妹に」まで来て、倒置法により初句の「秋深し」へと帰還する。象の大きな耳に秋風が吹いているのだ。映像のくきやかな歌だが、それ以上に私が感じるのは「物語性」である。その物語はブラッドベリのSFファンタジーとどこかで繋がっているようにも感じられる。

 『ニューヨークの唇』は今年 (2023年) 6月に書肆侃侃房から出版された歌集だが、出版に至るいささか特異な経緯に触れておかねばならない。作者の蝦名は1956年生まれ。1985年頃から作歌を始め、1991年には短歌研究新人賞候補になっている。1993年に第一歌集『イーハトーブ喪失』、1994年に詩集『カール ハインツ ベルナルト』を刊行するが、病を得て2021年に泉下の人となる。本歌集の編者の野樹かずみは蝦名と長らく親交があり、折々に蝦名から送られて来る短歌の預かり役になっていたという。蝦名の死後、残された歌稿の出版を決意し、クラウドファンディングで資金を集めて刊行に至ったという。巻末のあとがきに野樹が蝦名に寄せる熱い想いが綴られている。本歌集には野樹が編集した『ニューヨークの唇』と第一歌集の『イーハトーブ喪失』、それに二人で詠んだ両吟集から蝦名の歌を拾い挙げた「カムパネルラ」が収録されている。なお、二人の共著に『クアドラプル プレイ』(書肆侃侃房、2021年)がある。この刊行も蝦名の死後である。

 田島邦彦他編『現代短歌の新しい風』(ながらみ書房、1995年)に蝦名の『イーハトーブ喪失』から50首が収録されており、編者の一人の藤原龍一郎が短評を寄せていている。藤原は、「どの一首をとっても、この歌人が短歌型式の機能と生理を知りつくし、オリジナリティーあふれる修辞と韻律を駆使する力の持ち主であることは、すぐわかるだろう。実際、ここにあげた歌は、ニューウェーヴの代表としてしばしばとりあげられる何人かの若手歌人の作よりも、技術的にも表現意識的にも、格段にすぐれているように私には思える」と賛辞を贈っている。ちなみに『イーハトーブ喪失』と同時期に刊行された歌集には、西田政史『ストロベリー・カレンダー』、早川志織『種の起源』、大滝和子『銀河を生んだように』、尾崎まゆみ『微熱海域』、中津昌子『風を残せり』などがある。1991年は荻原裕幸が新聞紙上に「現代短歌のニューウェーヴ」という論考を発表した年で、その後、短歌シーンはライトヴァースとニューウェーヴの波に洗われることになる。そういう時代である。

 さて、『ニューヨークの唇』から何首か引いてみよう。

捨てられたヴィオラのf字孔からも白詰草の芽は出でにけり

はね橋の近くの画家は待っている見えないものが渡りきるのを

失った無人探査機を捜せ無人探査機その2で

地図屋への地図を並べる地図屋への地図を並べる地図屋はどこだ

ザムザこそ詩人の鑑胴乱に蝶入れたまま行くピクニック

海を見るたびに涙が出るようにセットされてる未成年ロイド

 いくつかのキーワードで蝦名の短歌を読んで行きたいのだが、まず強く感じられるのはすでに指摘した「物語性」である。結婚を祝うようにヴィオラのf字孔からクローバーの花が咲いたり、跳ね橋を目に見えないものが渡っていたり、人造人間が海を見ると涙が出るように設定されていたりするのは、まるで何かの物語の一部のようだ(ちみなみ「未成年ロイド」の「ロイド」は、アンドロイドの「ロイド」で、「似たもの」の意味で使われている。したがって「未成年ロイド」は未成年を模した人造人間ということになる)。

 物語性は次のような歌にも強く感じられる。

音叉庫にギリシア銅貨の墜ちる音わが鎖骨さえ共鳴りのする

いっせいに孔雀の群れが羽根ひろげる贋の銀貨が積もる広場に

貨物船に虹積む積み荷職人の太き声する朝の波止場に

 どれもまるでショート・ショートのような味わいがある。大事なのは、ここに置かれた言葉たちが、ふつう短歌で担わされる役割から解放されているように感じられることである。それはどういうことだろうか。次の歌と較べてみよう。

螢田てふ駅に降りたち一分のかんにみたざる虹とあひたり

                      小中英之『翼鏡』

無花果のしづまりふかく蜜ありてダージリンまでゆきたき日ぐれ

 小中の高名な一首目で字面が語っているのは、螢田という珍しい名前の駅ですぐに消えた虹を見たという事実だけである。しかし夏の夜に冷たく明滅する蛍火のイメージと、淡く空に消える夏の虹とが相まって、世界の美しさを前にした人の世のはかなさが水字のように浮かび出る。二首目も同じ構造で、イチジクに満ちる蜜は世界の豊かさの喩であり、遠くインドのダージリンまで行きたいと思っても、行く時間は残されていないのが〈私〉の現実である。作者は虹やイチジクを描きたいと望んでいるのではなく、それらを通して「人の世のはかなさ」「生の一回性」を詠んでいるのである。「叙景を通して叙情に至る」のが和歌以来の歌の王道であり、歌に置かれた「虹」や「無花果」という言葉は、短歌という蒸留装置を経由することで、最終的には「生の一回性」を指示するという高階の意味作用を果たしている。この高階の意味作用こそが通常の短歌において言葉が担っている役割に他ならない。読者の立場から言うと、「短歌を読む」ということはこの高階の意味を感受することだということになる。

 翻って蝦名の短歌を見ると、ほとんどの歌でこの高階の意味作用を見ることができない。たとえば上に引いた二首目の「はね橋の」の歌で、「はね橋」や「画家」や「見えないもの」といった言葉が共鳴しあって指示する高階の意味は考えるのが難しい。

 では蝦名の短歌の言葉たちはいかなる役割を与えられているのだろうか。それは言葉の組み合わせと単語が持つ豊かな共示作用によって、〈私〉の生きる現実とは異なる世界を作り出すことにある。なぜ現実と異なる世界を作り出そうとするかというと、蝦名がまちがえてこの世に生まれて来たと感じているからである。そのことを思わせる歌はたくさんあるが、二首だけ引いておこう。

影青く君の右頬照らすのはあれは地球という名の異邦

ああ天に翼忘れて来し日より踊り初めにき歌い初めにき

 一首目では〈私〉も〈君〉も地球ではない星から地球を眺めており、地球は故郷ではなく異邦である。それは作者がこの世に対して持つ違和感に由来する。二首目は堕天使の歌で、文学では貴種流離譚という形を取ることが多い。このように蝦名の短歌において、言葉は「現実の異化」という機能を果たしている。蝦名の短歌が磁力のように発する物語性はそこに由来する。言葉が高階の意味作用を持たず、現実の異化に奉仕しているということは、蝦名の本質が歌人ではなくむしろ詩人であったことを意味するように思われる。

 現実の異化から派生するキーワードがいくつかある。まず上に引いた四首目「地図屋への」に見られる迷宮への嗜好を挙げておこう。この歌では「地図屋への地図」が無限に入れ子になっており、最終的に目的の地図屋へは辿り着けない。三首目「失った無人探査機」にもその傾向があり、探査機その1を探査機その2が探し、その2をその3が探すというように無限に連鎖は続く。

 また蝦名の歌には地図や地理に関する語彙と、何かを探している人がよく登場する。

いつまでも欠けたピースを探してる空の方途を明日も真似そ

あの子は黄色い飛行機を探しているわたしもおなじことをしている

十字架が十字架を背負う言葉とはあの足跡が消える砂浜

音叉庫の一律の闇をさまよえり父がなくした母音さがして

サーカスを追って迷子になったままわれに帰路あるごとき夕焼け

地図になき市の東に生かされて身を一枚の日輪が焼く

 地図・地理への嗜好は「ここではないどこか」への憧憬と結びつき、何かを探すのは大きな物を失ったか、あるいは最初から持たない状態でこの世に生まれ落ちたからに他ならない。蝦名の〈私〉はこの世に送り込まれた流刑者なのだ。

 このような蝦名の短歌世界をよく表す歌をいくつか引いておこう。

桟橋は廃墟となりて数本の杭がかたむき僕を待っている

                 『ニューヨークの唇』

かなしみにほほえむべけれいちい樹をチェスの駒へと彫りあげる秋

病む人のゴブラン織りの膝掛けに読みさしのまま夜明けのカフカ

古い詩がふとよみがえる紫の唇の麻酔が醒める夕暮れ

信号の青に流れる曲ながら雨の中にてシュトラウス冷ゆ

渡らんとして倒れたる黒馬のあばら骨から透ける海峡

                『イーハトーブ喪失』

緑色の受話器は海に沈みつつ呼べどとこしなえの通話中

そして視野を花びら覆いめくるめく通過儀礼のごとき季節は

安住の枇杷の梢に星の実は光れりわれにかくまで遠く

街角をノアの方舟通過するごとし日蝕の午の翳りは

 野樹も挙げている次の歌は蝦名が理想とする境地をよく表している

そこにはだれもいないのにそこには詩人もいないのにそこにも白い

花が咲きそこには読者もいないのにそこにも探した跡がある

 この二首は続けて読むと一連の文章になる。歌人は一首の完結性を重んじるので、ふつうこういうことはしない。蝦名の詩人の資質がなせる業である。蝦名の夢想する天上世界には、詩人も読者もいないのに詩の白い花が咲き、しかもそれを誰かが探した痕跡が残されているという。無名の詠み人と言葉を求める人とが密やかに交錯する白い世界が、蝦名の歌の言葉たちが最終的に指し示すものである。