バス停がバスを迎えているような春の水辺に次、止まります
𠮷田恭大『光と私語』
𠮷田恭大は1989年つまり平成元年生まれで、塔短歌会に所属。早稲田短歌会にいた頃は、同い年の𠮷田隼人と二人「白い𠮷田」と「黒い𠮷田」として知られていたという。『光と私語』は今年(2019年)の3月に刊行された第一歌集。高校生の頃から地元の鳥取で塔短歌会に所属して作歌を始めていた人としては、29歳の第一歌集刊行は遅いくらいだ。満を持してという言葉がぴったりの歌集である。
ふつう第一歌集を出すときには所属結社の主宰や先輩歌人に跋文や帯文を依頼するものだが、『光と私語』にはそういうものは一切ない。代わりに𠮷田がコラボレーションを依頼したのはデザイン集団「いぬのせなか座」である。何と言う綴じ方なのかわからないが、本の背の綴じ代が丸見えでそこに固い表紙が付いている。本全体に透明プラスチックのカバーがかかっていて、そこに題名と著者名が印刷されているので、カバーを外すと背表紙の文字も消えてしまう。おまけにどこにも歌集と書かれていない大胆な装幀である。ちなみに「いぬのせなか座」は加藤治郎の最新歌集『Confusion』でもコラボしている。
本歌集を繙くと、レイアウトも通常の歌集と異なっていることに戸惑う人もいるかもしれない。ほぼ1頁に一首で、歌と共に大小の矩形や円が配されており、歌に寄り添ったり歌を横切ったりしている。単に歌を並べた歌集ではなく、レイアウトによる視覚的効果を狙っているのは明らかだ。頁を繰ると視覚的なリズムが生まれるように感じる。
さてでは中身の歌はというと、大方の人はどこから取り付いたらよいのかわからずに戸惑うのではないだろうか。中から一首取り上げて批評するということがとてもしにくい。栞文を寄せた堂園昌彦は、この歌集は都市そのものであるといい、𠮷田がわざと描写の解像度を落としていると指摘している。一方、荻原裕幸は𠮷田の歌を読みあぐねているような印象を受ける。世代的に堂園は𠮷田より6歳年上の早稲田短歌会の先輩で、同じ空気を吸って育っている分だけ共感がある。荻原はずっと年上の世代であるだけにギャップが大きいのではないだろうか。
たとえば冒頭に挙げた歌を見てみよう。「バス停がバスを迎えているような」までが比喩で、実景は春の水辺である。ところが比喩だとばかり思っていた上句が、「次、止まります」というバスの車内表示を思わせる結句によって、突然反転して現実になる。するとその反動で実景だと思っていた「春の水辺」が虚の空間にはじき飛ばされる。つまりここにはメビウスの帯のように、比喩と実景、虚と実とが反転しあう構成がある。読者はどちらに焦点を当てて読めばよいのかわからずに戸惑うことになる。荻原は栞文で、「実が虚であり、虚が実であるようなこの感じ」と言い、「𠮷田の文体マジック」「マジカルな文体」と呼んでいるが、言い得て妙と言えよう。
集中にこのような反転マジックが見られる歌が散見される。
高級なティッシュの箱のしっとりした動物の寝ている写真
お時間を指定したのは母なれど私に待たれるクロネコヤマト
路地、猫を追う君を追わない僕を、気にしなくてもいいから、猫を
一首目は措辞の掛かり方が組み替えられており、「しっとりした」は本来高級ティッシュを修飾するものだろう。箱に印刷されている写真の動物がしっとりしているわけではない。しかし文中の修飾関係を組み替えることによって、それまで見ていたのとはちがう風景が立ち上がる。二首目にはまず発話者の入れ替えがある。「お時間」は「配達のお時間にご指定はありますか」という宅配業者の言葉で、発話主体は業者である。それを「指定したのは母なれど」という作中主体の言葉に接ぎ木している。この歌にはもうひとつ逆転があって、それは主体と客体の反転である。〈私〉がクロネコヤマトの宅配荷物を待つという能動態が本来のものだが、それを逆転してクロネコヤマトの宅配荷物が〈私〉に待たれているという受動態に変えている。これにより歌には二重の捻れが生じているのである。三首目には二重の埋め込みがあり、「猫を追う君を」とくればふつう「追う僕」と続くはずが、「追わない僕」と肩すかしをくらう。最後は「猫を」という言いさしで終わっているが、これまたメビウスの帯のように歌の最初に戻って永遠にループする感じが残る。そのループの間に猫は虚の空間に笑いながら消えてゆくようでもある。
時間に関わる存在と非在のマジックが感じられる歌もある。
とっておきのアネクドートをこれからも使うことなく覚えてゆこう
今後とも乗ることはないだろうけどしばらく視界にある飛行船
飼いもしない犬に名前をつけて呼び、名前も犬の一瞬のこと
その角のつぶれる前のコンビニの広々として闇ではないな
一首目、「とっておきのアネクドート」というのだから、「君に聞かせてあげよう」と続くのかと思えば、これからも使うことはないという。二首目も似ていて、視界を漂う飛行船は今では広告用とはいえ、元は人の乗り物である。しかしその飛行船に乗ることはないという。三首目では飼っていない犬に名前を付けて呼ぶという。四首目の「つぶれる前のコンビニ」にはくらくらする時間感覚を感じる。「つぶれる前」というのだから、まだつぶれておらずちゃんと営業しているのである。「闇ではない」のだから煌々と灯りが灯っているのだ。しかし不思議なことに文体のマジックによって、営業しているコンビニの背後につぶれて真っ暗になった店舗の影がちらちら見える。ここには存在と非在とが反転しあうような不思議な空間がある。
なぜ𠮷田はこのような歌を作るのか。それはおそらく𠮷田が新しい文体の創造は新しい世界の創造に等しいと考えているからではないだろうか。𠮷田にとって短歌とは抒情詩というよりも認識の歌と見なされているのかもしれない。確かに上に引いたような歌では文体のマジックによって、従来私たちが慣れ親しんできたものとは異なる認識の型が示されていると言える。
しかしこれで本歌集のすべてが言い尽くせたかというと、そんなことはない。
ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋 夜、度々通う
お互いの生まれた海をたたえつつ温めてあたたかい夕食
脚の長い鳥はだいたい鷺だから、これからもそうして暮らすから
坂道で缶のスープを散らかして笑う時代の犬になりたい
真夜中のランドリーまで出でし間に黄色い不在通知が届く
こうした歌に描かれているのは極めて体温の低いフラットな日常である。どこにでもある牛丼屋、ささやかな二人の食卓、坂道を転がる缶スープ、コインランドリーと宅配便の不在配達通知などは、都会で暮らす若者のどこにも派手な所のない暮らしである。取り立てて言うほどのことでもないこのような日常、敢えて言うならサエない日々の暮らしをなぜ詠うのだろうか。
2007年刊行の『短歌ヴァーサス』終刊号特集「わかものうたの行方」で、斉藤斎藤は次のように書いていた。引用中の「私」は私を外から見た客体用法、〈私〉は私を内部から感じる主体用法ということである。
「異常であるとか天才であるっていうのとか」のほうの「特別さ」を特殊さと呼び、「ふつうに存在してるっていうことの特別さ」のほうをかけがえのなさと呼ぶことにする。「特殊さ」は「私」に、かえがえのなさは〈私〉に対応する。「私」の特殊さではなく、〈私〉のかけがえのなさをたいせつにするということが、ポストニューウェーヴのわかものうたをつらぬく特徴である。(…)ニューウェーヴでは、前衛短歌にあった大きな物語が否定/無化され、「私」の特殊さが〈私〉の特別さに接続され、「わがまま」な歌となった。そしてポストニューウェーヴ世代において、「私」の特殊さは歌から排除され、あるいは「私」まるごと歌から排除され、そして〈私〉の生きるが残った。
また2010年6月号の『現代詩手帖』の「短詩型新時代」特集の中で黒瀬珂瀾は次のように発言している。「私性」をめぐる議論の中で黒瀬は「短歌は私性を表面張力のように極度に強くしている」という見解を示して、次のように続けている。
その私性とは、単純な自己のドラマ化ではなく、「私」がいまここに存在して、この世界を見ているという視線の一瞬性を取り上げるという意味での私性です。(…)自分だけにしか見えない強烈なカメラアイで撮った歌、逆に言えば他人の視線を排除している歌です。かつての短歌は共感というものを重んじていたわけです。もしくは読者による作中光景の再現可能性を重んじていた。そういう詠風からは大きく変わっています。2000年代後半に出てきた若手歌人は、ある程度この視点を共有しているのではないかという気がします。
斉藤の文章と黒瀬の発言を掛け合わせると、おぼろげながらポストニューウェーヴ世代の短歌に対する立ち位置が見えてこないだろうか。ニューウェーヴ世代は修辞の復権と「わがまま」とが短歌を駆動する原動力となっていた。しかし斉藤の言うことが正しければ、ニューウェーヴの波が引いた後に登場したゼロ年代の歌人たちには、ささやかな日常を生きる内面用法の〈私〉が歌の拠り所となった。内面用法の〈私〉とは、単に自己劇化を排除したありのままの私ということではなく、内的実感のみを拠り所とする私ということである。そのような意味において本歌集は、ゼロ年代歌人の特徴をよく示していると言えるだろう。
最後に心に残った歌を挙げておこう。
カロリーをジュールに変えてゆく日々の暮らしが骨と骨の隙間に
なくした傘には出会えなくても終電は外回り、遠回り、まみどり
砂像建ちならぶ海際から遠く、あなたの街もわたしも眠る
朝刊が濡れないように包まれて届く世界の明日までが雨
名前から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる
恋人がすごくはためく服を着て海へ 海へと向かう 電車で
旧い海図を封筒にしてまひるまの埃きらきら立ち上がる部屋
ちなみに本歌集には「雷乃発声 /区境を越える」と題された特性ペーパーがある。半透明のプラスチック用紙に短歌が印刷されていて、「ともすると什器になって」という連作のページに重ねると、あらたな連作とレイアウトが現れるという工夫である。詩歌に印刷上のレイアウトを加えることを初めて行ったのはたぶんマラルメだと思うが、短歌でも岡井隆とか石井辰彦の試みや、最近出た加藤治郎の『Confusion』の例もある。これをおもしろいと感じるか、それとも短歌には不要と見なすかは人それぞれだろう。