第245回 十谷あとり『風禽』

アルヘイ棒縞のぐるぐるをやみなく天へ汲み上げらるるたましひ

                    十谷あとり『風禽』

 

 アルヘイ棒とは、赤・白・青の縞模様が回転している理髪店の店先にあるオブジェのこと。正式名称はサインポール (signpole)というらしい。昔の有平糖という菓子に似ていることからこの名が付いた。アルヘイ棒が回転する様を見ていると、無限に上昇しているかのようだ。作者にはそれが魂が天へと汲み上げられる光景のように見えた。そのように見えたのは、作者の心の中にこの世から旅立った人たち、まさに旅立とうとしている人たちが住んでいるからに他ならない。「アルヘイ棒の回転」とせずに「アルヘイ棒のぐるぐる」とオノマトペを使ったところも効果的だ。

 『風禽』(2018年 いりの舎)は『ありふれた空』に続く十谷の第二歌集である。『ありふれた空』が上梓されたのは2003年だから、実に15年振りの歌集ということになる。第一歌集のプロフィールには、「日月」「玲瓏」所属とあったが、『風禽』のプロフィールでは「玲瓏」が削除されているので退会したのだろう。

 『ありふれた空』では現代語と古語を巧みに取り混ぜ、言葉を換骨奪胎したような歌があり、特に次の歌は今でも記憶に残っている。

父はわれを捨て給いきと気付くとき右眼のなかを翔ぶメガニウラ

病葉の二つ流れに過ぎ行きてひとつうぐいとなりて戻れり

罪なき身に六つのかすがい受けてなお自由たり得ぬ馬蝗絆ばこうはん、砕けよ

 ではそれから15年を経た第二歌集にはどのような歌があるか、いくつかランダムに引いてみよう。

皺おほく入り組む貌をもつ犬の歩み来てわれとすれ違ひたり

蓮の根のただむは甘くきしめて冬を眠らす泥はやさしも

あやふくも清しきひかり工具箱に立てかけられて曇りなき鋸

厚らかに透く板硝子砕かれて重なるときに青は生まれる

城址のなだりに咲ける水仙の白と呼ばむにつめたきひかり

 一首目、皺が多い顔の犬といえばさしずめブルドッグか。そのような犬が歩いて来て〈私〉とすれ違ったというだけの歌である。取り立てて何の事件も景もない。本歌集にはこのような趣向の歌が多いのだが、その点については後で述べる。二首目の「ただむき」は腕のこと、「枕く」は枕にするの意の古語である。泥の中の蓮根を詠んだ歌だ。蓮根を腕に見立てて腕枕しているということだろう。三首目は工具箱に立てかけられた鋸を詠んだ歌である。四首目は秀歌だ。この前にビルが解体工事されている歌があるので、板硝子はビルの窓のガラスのこと。窓ガラスは透明で無色である。しかし砕かれて重ねられているのを見ると青く見える。波長の短い青色の光がガラスの中の不純物で散乱するためらしい。発見の歌である。五首目は城跡の斜面に咲く水仙を詠んだ歌。「白と呼ばむに」は「白い水仙と呼ばれているのに」の逆接だろう。

 上に引いた歌に限らず人物はほとんど詠まれていない。叙景歌と呼ぶほど景色が詠まれているわけでもない。登場するのは道を歩く犬や鋸や砕かれたガラスのように、日常の風景の中にある何気ない事物である。またそれらの事物に託して〈私〉の心情を詠んでいるわけでもない。実際、上に引いた歌の中に託された心情を読み取ることはできない。それにもかかわらずこのような歌が歌として成立し、そこにうまく説明できない美しさを感じるのはどうしてだろうか。それはおおよそ次のようなことだと思われる。

 私たちは日常生活において〈今〉を生きていない。「何をおかしなことを言うか。私は今生きているじゃないか」と反論されるかもしれない。しかしたとえば私は今何をしているかというと、今日中にブログにアップしなくてはならない短歌批評の文章を書いているのである。つまり私は「今日中に」という未来に設定されたデッドラインのために、今という時間を消費しているのだ。もっとわかりやすいのは受験勉強をしている受験生だろう。遊びたい、音楽を聴きたい、スポーツがやりたいという欲求を抑えて勉強するのは、大学合格という未来の目標のためである。翌日の講義の準備をする大学の先生も、明日の会議の資料をまとめている会社員も、試合に備えてトレーニングするアスリートも、今晩の夕食の買い物をしている主婦もすべて同じことが言える。私たちは未来の目的のために〈今〉という時間を食いつぶしているのだ。それでなくても全き〈今〉という時間を生きることがいかに難しいかは、古東哲明の『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)に詳しい。

 短歌や俳句のような短詩型文学は、このような「目標志向的時間」から逸脱することを可能にしてくれる。例えば上に引用した「あやふくも清しきひかり工具箱に立てかけられて曇りなき鋸」という歌を見てみよう。工具箱に磨き上げられた鋸が立てかけられているというだけの歌である。しかし歌の中の〈私〉が鋸を見つめている時間は「目標志向的時間」の外にある。これから何かする目的があって鋸を見ているわけではない。鋸を見ている〈今〉は未来の目標に奉仕する〈今〉ではない。それは歌の中に擬似的に創出された全き〈今〉である。歌を読む読者は、歌の中に作り出された擬似的な〈今〉を追体験することによって、この「目標志向的時間」から逸脱した時間に触れることができる。何でもない些細な事物が的確に描写された歌に私たちが魅力を感じるのはこのような理由によるのだと考えられる。

 作者は現在奈良に在住のようだが、生まれ故郷は大阪である。大阪を詠んだ歌におもしろいものがある。

ゴミ袋ゆたかに満たす紙屑の色に暮れゆくおほさかの空

クレヨンが紙をはみ出る勢ひに海へ海へと伸びるおほさか

さかのぼる曳船いくつ運河にも流れはありぬ見えがたきまで

歩行者の渡れぬ橋のまた一つ架かりて向かう岸は遠のく

電器店と法律事務所のあはひより大正琴の聞こえきてやむ

神様またこんなところに肘ついて 桜あんぱん凹んでしもた

 いささかのノスタルジーとともに回想される大阪の風景である。大阪はその昔八百八橋と称されるほどの運河と橋の町だったが、その多くは埋め立てられてしまった。路地の奥から大正琴の聞こえる風景も現在のものではなかろう。

 作者は家族について複雑な感情を抱いていることが、次のような歌からわかる。

まとめて洗ふ四膳の箸からからと家族うからの骨のふれあふ響き

ふりむけばとほざかるのにゆくてにはいつもわたしを待つ母のかほ

父は無言に立ち上がりたりわたくしの見えぬところで母を撲つため

亜土ちやんのタオルを噛みて眠りけり茶碗割れてしのちの無音を

父の妻のふるさとを過ぐ秋雨の飛沫しろじろと散りゐる神戸

 しかしこのような歌は本歌集の主調音をなしているわけではなく、ときどきフラッシュバックのように挟み込まれているだけである。歳月はあらゆる物を変える。

 十谷は近現代短歌の誰の系譜に連なる歌人なのだろうかと考えてみても答が見つからない。「玲瓏」に所属はしていたものの塚本邦雄の歌風からはほど遠い。結局のところ類例のない独自の個性を持つ歌人ということなのだろう。

 最後に特に心に残った歌を挙げておく。

ひとの骨をうつしゑあまた揺らしつつレントゲン車は橋を渡りぬ

車庫前の路面に深き窪みあり日毎にバスの踏むひとところ

水底に夏の日は差す砂色の魚にまつはるうをの影あり

ホッチキスのふとも緩めば針切れて紙に残れる空しき歯形

はなびらの白きいくつを留めつつたたまれて傘夜を傾く

揺るさまのひとつ異なるきんぽうげ小さき蛙茎に飾りて

曇り日のウィルキンソンが卓に曳くかげあり水に昏き翳あり

126:2005年10月 第3週 十谷あとり
または、動物園の淋しさと乾いた眼差し

薄き血の色のマニュキュア愉しまん
     誰にも気付かれないそのことも

          十谷あとり『ありふれた空』
 作者の名前は十谷(じゅうや)あとりと読む。名前からは判断がつかないが女性である。1965年 (昭和40年) 生まれで「日月」「玲瓏」に所属し,ネット短歌「原人の海図」の運営委員を務めている。奈良県に在住し,最近小さな古本屋を開業したと聞く。『ありふれた空』は2003年に上梓された第一歌集である。略歴によれば「2000年6月から短歌を始める」とあるから,始めて3年で第一歌集出版に漕ぎつけるというのは非常に早い。収録された歌を読んで驚いたのだが,とても作歌歴3年とは思えない手練れの歌の数々が並んでいるのである。私は作者について予備知識のまったくない状態で送られてきた歌集を何げなく読み始め,思わず引き込まれてしまった。

 歌集を一貫して流れているのは静かな淋しさの感覚であり,自分を見つめるやや距離のある眼差しである。自己を客観的に眺めるこの眼差しの乾き方が読んでいて心地よい。自分に矢鱈に思い入れのある歌は読んでいるこちらがシラけてしまう。例えば掲出歌だが,女性らしいマニュキュアの化粧は薄い血の色と表現されているがピンク色だろう。マニュキュアの化粧を愉しむ自分がいるその傍らに,周囲の同僚たちがマニュキュアに気付かない事実を冷静に見る自分がいる。この乾いた視線が十谷の歌に,まるで料理にほんの少し加えた五香粉のように独特の味わいを付け加えている。

 掲出歌に見られる雨の日の動物園のような淋しさの感覚は,次のような歌にも紛れなくある。

 両の手で耳を塞いで気が付いた動物園は淋しい匂い

 空っぽなわたしのために毎食後押し破られる錠剤のシート

 ジャケットから脱け出てきたかひとひらの羽毛は空を忘れられずに

 踏切も堰き止められぬ夕陽をばごごんごごんと轢いてゆくのだ

 小さな鳥舞い降りて来てわが髪につぎつぎ止まる独りの朝

 野の鳥は野に戻るべく飛び離(さか)るその瞬間にわが手を蹴って

 身を脱けてあくがれありくわがこころ空におぼれつ鳥にしあらねば

 死ぬ時も生まれる時もひとりだと思えば何とありふれた空

 一首目,「両の手で耳を塞いで」に自分の内を見つめる自閉的感覚がある。気を紛らせる人声や物音を遮断して初めて淋しさに気が付くのである。二首目,何かの錠剤を毎食後飲むのだろうが,薬によって健康を改善すべき〈私〉が空っぽであることに,錠剤に対して申しわけのなさを感じているのだろう。三首目,この歌集には繰り返し空への憧れが詠われているが,この歌はその代表的なもの。ただしその空もまた空っぽのものとして描かれることが多い。四首目は「ごごんごごん」という擬音と,「轢いてゆくのだ」という言い切りの形がおもしろい。ここにも抑えることのできない淋しさと焦燥の感覚が感じられる。五首目・六首目・七首目にも空に憧れながら地上に縛られている自分がいるが,それは結局,歌集題名が取られた八首目に見られる孤独感へと収束するのだろう。

 「現代人はみな孤独」などと言ってしまえば身も蓋もないのだが,十谷の場合はもう少し複雑なようだ。父母に対する屈折した感情がその底に流れているらしいからである。次のような歌が歌集のあちこちに,水からふいに顔を出し航海の危険となる暗礁のように散在している。

 父母の偽りの笑みは罠にかけ明るい川に沈めに行こう

 リサイクルは複雑である父を踏み母を十字にくくらねばならぬ

 まぼろしの父母の立ち居し辺の土にしめころしの樹の種ふたつ播く

 ははそはの母なるものが穴となり地の面に口を開いていたり

 入れ子なるマトリョーシカはそれぞれにその身納むる母をうち割る

 父はわれを捨て給いきと気付くとき右眼のなかを翔ぶメガニウラ

 三首目の「しめころしの樹」は特定の植物種ではなく,他の木に巻き付いて寄生し,遂にはその木を枯らしてしまうような樹木の総称である。「しめころしの樹」の種を播くというのだから,そこには相当な恨みが感じられる。また六首目のメガニウラとは,今から3億年前の石炭紀に棲息していた巨大トンボのこと。「右目のなかをメガニウラが翔ぶ」という表現に,父が自分を捨てたという発見のもたらした衝撃の大きさがよく表われている。本来ならば愛するはずの肉親へのこのように屈折した想いは,この歌集の底を流れる一番昏い流れとなっている。

 十谷の歌のうまさが感じられるのは,次のような歌群においてである。

 つっかけたミュールと踵にはさまってぺたつくものかアカデミズムは

 瑕瑾かきんつつき回され手品なら鳩にとりかえ飛ばしたいレジュメ

 いててててわが弱さゆえ十八歳(じゅうはち)の日に友に告げたる嘘の刃よ

 喰い込んで屠りもできぬ痛みなら飼いならさんかその名虎馬

 〈当たり前〉入れれば〈不可解〉転げ出る厄介なもの両肩の上なり

 やたけにも伸びてもつれて絡まってとほほ顔なる文月のキウイ

 茄子に何の恨みなけれどこのたびもわが焦燥に黒焦げの茄子

 最初の二首は大学に在学中の歌だろう。古語と現代語を巧みに混用し,古歌の言い回しを換骨奪胎したり,日常の些事に大仰な表現を用いたりするその手法は,とても作歌歴3年とは思えない手練れなのである。人を食ったような調子が歌に軽みを与えていて,定型の持つ固有の力をかえって増幅する結果となっている。「マジメな近代文学」としての現代短歌のなかでは,このいう傾向の歌はあまり歓迎されないかもしれない。やり過ぎると狂歌になってしまうという危険性もある。しかし,ややもすれば自足的に自閉しかねない現代短歌において十谷の歌のような軽みは,自己を外部に向かって開く作用を持つこともまた事実だろう。

 集中で特に印象に残った歌を挙げる。

 うち手折り たむ ふさ手折り たむたたむ スネアドラムはたたむ 鼓動す

 病葉の二つ流れに過ぎ行きてひとつ鯏(うぐい)となりて戻れり

 やさしさに似た父の怯懦思うとき斜めに破(や)れるベルマーク2点

 罪なき身に六つの鎹(かすがい)受けてなお自由たり得ぬ馬蝗絆(ばこうはん),砕けよ

 花あかりまっさかさまに池の面へ落として白きまぐのりあかな

 水の上に花片は散る薄紅のフラミンゴ佇つその水の上に

一首目はまるで古代の長歌のようなリフレインだが,「たむ」「たむたたむ」という擬音を効果的に用いた音楽的な歌になっている。二首目も巧みな作りの歌で,「二つ」「ひとつ」の対語,「過ぎ行きて」「戻れり」の反対語をうまく配置して,愛唱性のある歌に仕立て上げている。病葉が魚になって戻って来るというイメージも美しい。三首目は父親を詠った歌だが,〈私〉は子供の小学校のために商品からベルマークを切り取ろうとしている。父の想いがよぎった時に手に力が入り,その拍子にベルマークが破れてしまったという情景である。肉親への屈折した想念とベルマークという形而下のものとの組み合わせが秀逸である。四首目は特に好きな歌で,馬蝗絆とは平安時代に中国から平重盛に寄贈され,その後,室町幕府の八代将軍足利義政の愛蔵品となった青磁の茶碗の銘。底にひびが入ったので中国に送り代わりの茶碗を求めたところ,この名品に代わるものはないということで,底に6つのかすがいを打ち修理されて戻されたという。かすがいの様が馬蝗 (大きなイナゴ) に似ていることから,馬蝗絆と銘打たれた。作者は展示された馬蝗絆を眺めて,かつては権力者の所有となり,現在は博物館に所蔵される有り様を嘆き,砕けて自由の身になれと念じているのである。五首目は花を詠んだ美しい歌。措辞にまったく隙がない。六首目は動物園シリーズの一首で,薄紅色のフラミンゴのいる水辺に薄紅色のサクラの花弁が散る様子が美しくはかない。

 近作からもいくつか挙げておこう。

 いや繁り腕に触れくる野茨の初花淡しおんあいそわか  『玲瓏』 60号 (2005.2)

 愛縛のこころありけん阿修羅像抱き炎を逃るる僧に

 マンゴスチンのすべりやすさよくちびるにあやうく受けとむるはまごころ

 魚の骨取り残されてもう波の寄することなき小皿の渚

 相変わらず言葉を様々に操る術に巧みである。この人はたぶん要請に応じて,異なる文体の歌を同時に作ることができるのだろう。注目すべき歌人である。