『トゥオネラ』には2007年から2016年までに制作された歌が編年体で収録されている。栞文は福島泰樹、伊藤一彦、越沼正、穂村弘、岡部隆志、吉野裕之、田中綾、黒岩康、跋文は加藤英彦。福島泰樹は『水村』を世に出した人で、長いあとがきまで書いている。伊藤一彦は合同作品集『現代短歌’74』で、松平の「水村」とともに「明滅」が収録された縁だろう。また田中綾は松平と同じく北海道出身だからか。まだ無名の歌人ならば栞文や跋文はよくあるが、松平ほどのベテラン歌人には珍しい。今回病床の松平に代わって刊行の労を取った加藤の心遣いかと思われる。
「トゥオネラ」はフィンランド神話の黄泉の国で、シベリウス作曲の「トゥオネラの白鳥」で知られている。フィン族の神話では、人は死ぬと善人悪人を問わずみなトゥオネラに行く。この世とトゥオネラの境には三途の川が流れていて、その川に白鳥がいるのだという。またフィン族が最も神聖視する動物は熊であり、アイヌ民族と共通する。死は松平にとってすでに親しいテーマだが、北海道北見の出身である作者は故郷の大地とフィンランドの神話を重ねて見ているものと思われる。
アーティストなどで独特な世界観を作り上げている様を指して「○○ワールド」などと言うことがある。例えば音楽グルーブ「SEKAI NO OWARI」のまるでRPGのような世界観を「セカオワ・ワールド」と言ったりする。その言い方を借りると、松平ほど独自の「松平ワールド」を作り上げている歌人は少ない。そのキーワードを拾い出してみると、「ゆふぐれの沼」「湖底美術館」「夜行性少女」「死者の森」「貯水池」「黒いダリア」などで、こう並べただけですでにひとつの世界が立ち上がる。
みづうみのほとりの駅に電車待つひとたちは魚のかほをしてをり 『水村』
その森の家につくのはいつもかなかのこゑがしてゐるゆふまぐれ
湖底寺院の僧侶たち月夜の網にかかり朝の競り市に運ばれてゆく 『夢死』
湖底の森からの土産、と乾魚を置きて帰りき 再びは来ず 『蓬』
水番の老婆星なき夜に目覚め、憑かれしごと泥の林檎をつくる
我が家の便所からはやく出てゆけ いつまでゐるつもりか、おまへ(隣家の鰐)は
ゆふぐれの沼べりを行くのは彼か 形見の『評伝ギュスターヴ・モロー』開くに
夜の電車の窓から見える〈ホテル砂漠〉では浴槽に紫の烟を充たす
何処かから蝉声がして、くれなゐ少女むらさき少女暁の街をただよふ
しかし『トゥオネラ』にはこのような松平ワールドの歌とは肌合いの異なる歌も多くみられる。たとえば次のような歌がそうだ。
地吹雪に吹かれ吹かれし野の墓地のエゾオニシバリ、黄のちさき花付け
早春の疎林の花ぞ 糠雨に濡れ、あをむらさきのエゾエンゴサク
母のかよひし学舎を訪へば、白樺にかこまれしテニス・コートに励む
もういちど行きたい、母のふるさとへ もういちど見たい、エゾシロテフを
高原の蝉声荒く、植物採集の父と子のゆくてに花期の柳蘭群
第四歌集『蓬』は父の死を悼む父恋の歌集でもあった。
父が逝きし日のゆふぐれの屋上に黒き犬ゐて吾を見おろす
行きどまりにヲトコヘシの花咲き残り、荒草は亡父とわれを隔つ
捨てがたきもののひとつぞ 枯草がつまりゐる父の古き胴乱
母と野の駅に降り木苺の実を摘みしとほきとほき晩春の一日よ
過ぎ去りし時間の闇の奥に立ち花林糖揚げてゐる母が見ゆ
帰らうと老母が言ふ 何処に、昔にですか、遠く過ぎ去つた昔に
曲り角にて見かへれば、藻琴嶺は母びとの亡きのちの夕映え
老母が先づ忘れしは亡夫のこと、そして四人の子を下より順に忘れき
しかし何といっても集中で異色なのは、破調を通り越してこれははたして短歌かと思われるような〈長い歌〉ではないだろうか。
収斂すべきときぞ 混交と言ひ越境と言ひ、文明の譬喩にあらざる塵芥山を生む
コンテナに収納されて運ばれてゆくものは、象牙でも珊瑚でもなく僕の高く売れない古本ですよ
形見としてあなたにぼろぼろの燕尾服を、あなたに底の抜けた水甕を、あなたに褪色したドライ・フラワーの緋薔薇を
不味いコーヒーも不味いチョコレート・ケーキも忘れがたく、憎まれ口をたたく女主人も
歌の質がまったく異なるのであまり適切な比較ではないかもしれないが、〈長い歌〉と言えば思い出されるのがフラワーしげるである。
小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく
わたしが世を去るとき町に現れる男がいまベルホヤンスク駅の改札を抜ける
ここが森ならば浮浪者たちはみな妖精なのになぜいとわしげに避けてゆく美しい母子よ
最後に心に残った歌をいくつか挙げておこう。
風のにほひ水のにほひに酔ふごとく夜の卓上に湿原に俯す
都市の彼方の風吹きすさぶ崖巓に在りて凍てつきし魂の竪琴
空港への路は昏れむとするになほ立つ女あり 陽炎といふ名の
鉛筆で描かれたやうなゆふぐれの亡母のふるさとの街にたたずむ
霧を固めて作つた菓子のひと切れをすすめられてをり 深更の茶房に
あははと笑ひつつ傾斜の街のゆふぐれの路下りてくる銀色少女