第155回 大松達知『ゆりかごのうた』

風のなき夜の十字架のもとにしてわがみどりごは生まれたりけり
                大松達知『ゆりかごのうた』
 初めて授かった子供の誕生を詠んだ歌である。分娩室に十字架があるのはキリスト教系の病院だからなのだが、「わがみどりご」という語彙からどうしてもベツレヘムの馬小屋でのキリストの誕生を連想せずにはおかない。「風のなき夜」なので、きっと空には星も輝いていることだろう。礼拝する博士はおらずとも、作者は新しい生命が誕生する神秘に打たれているのである。それが茂吉由来の「たりけり」という詠み収めとあいまって、静かに喜びを噛みしめるような力強い歌となっている。
 『ゆりかごのうた』は大松の第四歌集。作者の不惑前後の歌を収録しており、第19回若山牧水賞の受賞が決定している。『ゆりかごのうた』という歌集題名からわかるように、子供の誕生をめぐる歌が中核をなす歌集である。
 かつて『短歌ヴァーサス』5号(2004年)の新鋭歌人特集で大松を担当した小池光は「ざぶとん在庫なし」と書いた。誰かがうまいことを言ったときに「ざぶとん一枚」とやるあれのことだが、大松の短歌が一首で勝負を賭けていて、ぴたりと決まったときには思わず「ざぶとん一枚」と言いたくなり、歌集の終わり頃にはもうざぶとんの在庫がなくなるほどだという意味である。一見邪道とも見えるこのような短歌の読み方は、案外正統的な読み方なのだと小池は続けている。一首で決まるということは、一首で意味が完結し、かつ読者が「そうそう」と得心する内容を含んでいるということで、決してたやすいことではない。また一首で決まるということは、意味の支えとしての外部を必要としないということであり、基本的に連作には向かないということでもある。
〈終〉の字がせり出して来る小津映画〈冬〉の最後の点が上向き
われに入りて酒でなくなる酒たちの今際のこゑをつつしみて受ける
左手にはおん、右手にはじきありて拍手は顔の筋肉でする
クリーニング師免許証見ゆこの人の本籍地佐賀、おれより若い
〈短歌の人〉といへる括りがわが家にはありてもろもろがすんなり通る
 一首で決まる歌を挙げてみた。一首目、映画のエンドマークの「終」の文字の旁の「冬」の下の点が上向きにはねているという、どうでもよいような観察を歌にしたものだが、確かになるほどと思う。短歌はこのような小さなことを掬い上げるのに適した形式で、この歌も「ただごと歌」の系譜に連なるものだろう。二首目、作者がこよなく愛するのは仕事から帰宅しての晩酌で、この意味でも若山牧水賞はぴったりかもしれない。この歌のポイントは「われに入りて酒でなくなる酒たち」で、確かにアルコールは体内で分解されて、アセトアルデヒドを経て排出される。酒による私の変化ではなく、私に入ってからの酒の変化に着目したところがおもしろい。三首目は野球観戦の歌。左手にビールのコップを持ち、右手にはホットドッグか何かを掴んでいるのだろう。両手がふさがって拍手ができないというのもよくある状況である。私はこの歌を読んで、アヌイの戯曲『オンディーヌ』の「右手めてに忘却、左手ゆんでに虚無」という名台詞を思い出したが、これは考えすぎか。四首目、洗濯物を出しているクリーニング店の店主が自分よりも若いことに驚いている。本籍地佐賀はおまけだ。伊丹十三だったか、街で出会う警官が自分より若いことに気づいたときに自分の老化を意識すると言っていたが、不惑を迎えた作者ももう若くないと自覚しているのである。五首目は読んで思わず笑ってしまった。実はわが家も同じで、知らない人から葉書や手紙が来て家人が「この人誰?」とたずねたとき、「短歌の人」と答えるとそれで得心するのである。
 もうひとつ他に得がたい大松の歌の特色は何と言ってもユーモアだろう。
死んでのち鮮度うんぬんされてをり食はれちまった鰺は聞かずも
なにゆゑに妻の引きたる〈夕化粧〉ぬばたまの辞書の履歴に残る
あるときに一喝されてそれ以来大きい肉を妻に与へる
空砲なのか実弾なのか匂ひすればムツキを開ける斥候われは
 いずれも説明不要で意味明快、かつにやりとしたくなる歌である。電子辞書の履歴に「夕化粧」が残っていたら、確かにコワい。ユーモアは単なるおどけとは違って、冷静な自己観察と自己の相対化を必要とする。私が大松の歌を読んで最も強く感じるのは、自分を突き放して冷静に観察するこの自己相対化である。それがよく発揮されているのは、この歌集の中核をなす子供の誕生の歌だろう。誰でも待望の子が生まれれば嬉しい。大松も天にも昇るがごとく喜んでいるのだが、同時にそのような自分を観察していて、それが歌をほほえましいものにしている。
〈ホルモンの乗り物〉として在るのみの今宵の妻に雁擬をひとつ
くらぐらとああぐらぐらとわが子なりトゥエンティー・ミニッツ・オールドのわが子を抱く
五年目のカメの甲より大き顔もちて生れたるわが娘はも
太陽ソレイユと名前を付けるバカ親のバカのこころをいまはうべなう
お父さんのくつした臭い、なんてまだ言わない口をミルクで塞ぐ
孕めよと祈り生まれよとも祈り育てよともまた祈るなりけり
「ざぶとん一枚」系とユーモアのただごと歌系が多い歌集だが、短歌本来の叙情歌もあり、それらもまたよい。
はつなつの栞のやうにそつと来てわれを照らせり夜のカマスは
ゆふやみが濃闇となりてゆくころをあやめの立てり左打席に
みづいろの付箋を貼つてさざなみのやうに明日へとわたしを送る
ひとつひとつの卵に日付けシールあり孵るべき日にあらぬ日付なり
春の日のトンネル過ぎて振り返る吾子にもすでにすぎゆきのあり
 二首目は野球観戦の歌で、「あやめ」とは女優の剛力彩芽に似ていると評判の日本ハムファイータズ所属の谷口雄也選手のこと。最後の歌はとりわけ心に響く。子供の誕生から一年が経過した頃の歌である。トンネルが時間の喩であることは言うまでもない。