第200回 小津夜景『フラワーズ・カンフー』

ゆふぐれをさぐりさゆらぐシガレエテ
小津夜景『フラワーズ・カンフー』
 今回取り上げるのは歌集ではなく小津夜景の句集である。小津は1973年北海道生まれの俳人で無所属。突然ネット上で俳句と評論を発表し始め、句誌「豈」に掲載された「出アバラヤ記」で攝津幸彦記念賞の準賞を受賞している。現在フランスのニースに住んでおり、在仏17年になるという。『フラワーズ・カンフー』は今年 (2016年)ふらんす堂より上梓された第一句集である。
 一読した感想は「俳句は自由だなあ」というものだ。有季定型俳句には切れ字や季重なりの禁止など、短歌に較べていろいろ決まりがあるが、最低限さえクリアしていれば句の作り方は短歌よりはるかに自由である。『フラワーズ・カンフー』はその俳句の自由さを存分に発揮している。句集のタイトルからしてぶっ飛んでいるではないか。アルファベットでFlowers’ Kung-Fuとあるので「花々たちのカンフー」なのだが、どうして花とカンフーが結びつくのか考えても無駄である。
 句風をひと言で言い表すのは難しいが、あえて特徴を拾うなら「音の導き」と「プレテクスト」か。掲句を見てみよう。平仮名で表記された「ゆふぐれをさぐりさゆらぐ」を導き出しているのは意味ではなく音である。「ゆふぐれ」と「さぐり」の「ぐれ」と「ぐり」の音連想、「さぐり」と「さゆらぐ」の頭韻、三度繰り返される「ぐ」音がたゆたうような動きを作り出している。下五に配されている「シガレエテ」はシガレットつまり紙巻き煙草。煙草の煙がゆったりゆらゆらと登る様を、音と意味との類像性 (iconicity)が表現している。
 一方、「プレテクスト」は「言い訳」ではなく pre-text 、つまり「先行するテクスト」である。どうやら小津は相当な読書家らしく、先行するテクストに寄せて作った作が多いようだ。はっきりわかるのは李賀の漢詩に自作の句を配した「閑吟集」と題された連作である。たとえば「上楼迎春新春帰」を詞書風に配して「楼の人いづれの春を迎えたる」と付ける試みである。また「こころに鳥が」という連作では、八田木枯の句を主題として短歌を作っている。残念ながら俳句に暗い私には、どこに八田木枯の主題があるのか不明なのだが。
 いくつか句を引いて見てみよう。
きぬぎぬのあさつきぬたの柔らかき
黴のパンあるいはパンセ風に寄す
あかんべの舌でひとでを創られし
毒薬の壜のきつねのてぶくろよ
コマ落としめいて遅日の走り書き
まだ踏まぬ切手の国や種をまく
影ばかり地をゆく夏のフラスコは
 一句目、「後朝きぬぎぬ」は一夜を共にした男女の別れの朝だから、ぬたは朝食の卓にあるのだろう。「あさつき」は葱より細く柔らかい。「朝」と「あさつき」が掛詞。この句でも繰り返される「ぬ」音がリズムを作っている。二句目、最初はカビの生えたパンだが、それがパンセへと転調する。パンセはフランス語で「思想、思惟」とパンジーの両方の意味がある。フランス暮らしの長い小津はそれを知っているだろう。三句目、確かにヒトデの脚はあかんべをする舌によく似ている。「創られし」の主語はもちろん神なので、神が天地創造の時にあかんべをしながらヒトデを創ったという愉快な句。季語はヒトデで夏。四句目、キツネノテブクロはジギタリスのこと。有毒植物である。だから毒薬の壜なのだが、まるで狐が手袋をはめて壜を握っているようなイメージが湧くのがおもしろい。五句目、「遅日」は「ちじつ」または「おそひ」と読み、日が長くなった春の日のこと。なかなか日が暮れない様子が「コマ落とし」なのだろう。六句目、まだ訪れたことのない外国の切手は想像をかき立てる。何かを思いながら庭の花壇に種をまいている。季語は「種まき」で春。七句目は夏の情景である。たとえば二階にあるカフェテラスから道路を見ると、上から見下ろす恰好になる。すると地面に伸びた影がよく見える。フラスコには冷たい水が入っているのだろう。
あさがほのかたちで空を支へあふ
はんなりとたそがれ華道部の毒は
つちふるやあなたと肉の香を組み
白骨となりそこねてや夢のハム
怪奇船グラジオラスを素通りす
ゆけむりの人らと少しかにばりぬ
 一句目の朝顔は秋の季語。朝顔の花が上を向いて咲いている。それを何かが朝顔の形をして空を支えていると詠んだ句。虚実の反転がポイント。二句目、「はんなり」は上品で華やかな様を言う関西の言葉。華道部に所属しているのはたいてい女子生徒・女子学生だから、華道部の毒とは女性の毒のことだろう。三句目、「つちふるや」は晩春に黄砂が風で運ばれる様を言う春の季語。「香を組む」は香道の用語で、香木を取り合わせて望みの香を作ること。「肉の香」は男女の交情だろう。そういえば「交合」と「香合」は同音だ。四句目はとりわけおもしろい。白骨になり損ねたのは原料の豚だろう。ボンレスハムの塊となり果てた身を晒しているわけだ。五句目、「怪奇船」とは怪奇な姿をした船のことか。奇怪で巨大な船が浜辺に咲いているグラジオラスの向こうを通過する。この取り合わせが絵になる。どこか「南浦和のダリアを仮のあはれとす」という攝津幸彦の句を連想させる。六句目、「ゆけむりの人」とはいっしょに温泉に浸かっている客のことだろう。「かにばりぬ」は造語で、カニバリスム (cannibalisme)とは「人喰い、人肉嗜食」のこと。これを「かにばる」という動詞になぞらえたものだろう。「ちょっと人肉を食べてみた」という恐ろしい句である。
 なかには一読してまったく句意の取れない句もあるが、俳句の自由さを感じさせてくれる句集である。『俳コレ』の選者が「しまった、小津夜景を入れるのを忘れていた」とつぶやいたという噂もある。一読すれば脳のシワが伸びて、ふだん使っていない筋肉や腱が動き出すのが感じられることだろう。ひとつの価値観にこり固まりがちな日常で、それこそ文芸の持つ力である。
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 平成28年最後の「橄欖追放」は200回を迎えることになりました。前身の「今週の短歌」は200回をもっていったん終了しましたので、同じ回数を数えることとなりました。ご愛読いただいた皆様には心より感謝いたします。
 歌集一冊に平均400首の歌が収録されているとすると、単純計算で今までに16万首読んだことになります。16万首というと気の遠くなるような数字ですが、継続は力なり。コツコツ続けているとそんな数字になったというだけのことです。とはいうものの、これだけ読むと短歌を読むために必要な「短歌筋」がそれなりに鍛えられたような気もします。
 当初は歌集を恵投いただいた方には愛用の笹尾光彦のポストカードでお礼状を出していました。しかしそのうちとてもおっつかなくなり、近頃は頂くばかりでお礼をしていません。実に申し訳ないことで、この場を借りてお詫びいたします。いただいた歌集にはすべて目を通しております。
 平成28年度も残り少なくなりました。みなさまにはよいお歳をお迎えになりますよう、心より祈念いたします。