第212回 阿部久美『ゆき、泥の舟に降る』

人を待ち季節を待ちてわが住むは昼なお寂し駅舎ある町
阿部久美『ゆき、泥の舟にふる』
 阿部久美あべくみは「短歌人会」所属で、北海道の留萌に住む歌人である。所属していた劇団で詩の朗読会をすることになり、書店で詩集を探していて偶然歌集を見つけたのが歌の始まりだという。2000年に第一歌集『弛緩そして緊張』を上梓し、道新短歌賞の候補となる。2002年には短歌人賞を受賞し、翌年に角川短歌賞の佳作に選ばれている。『ゆき、泥の舟にふる』は2016年に出版された第二歌集である。藤原龍一郎が解説を寄せている。
 粒子の粗いモノクロームの裸体写真をあしらった表紙と、中に一枚だけ挿入された後ろ姿の裸体写真が目を引く。歌集を演出するという意図が感じられる。そういえば歌集題名もいささか奇妙で、「ゆき」は「雪」だろうが、わざと仮名書きにして読点を打っている。「泥の舟」は集中の、「泥の舟漕いでいたのは夢をみてたがを外した男だったか」、「泥の舟塗っていたのは算を打つたぶらかされた女だったか」、「諸恋の貸し借り返す泥の舟しずんで春の漣おこる」の3首から取られている。この3首も物語的で演劇的と言えなくもない。
 ここであらためて掲出歌を見てみよう。「人を待ち季節を待ちて」という軽快な対句に始まる歌で、作者の住む町を詠んでいる。作者の住む留萌市は北海道北西部の海に面した町で、人口は2万人くらいである。港がありロシア船が入港する。冬の最低気温はマイナス20度にも達する厳しい気候である。鉄道が通っているので駅舎があるが、昼なお寂しいという。留萌ではないが集中に「朱文別しゅもんべつ」という地名があったので、ネットで検索してみたら海沿いの無人駅の写真があった。確かに寂しい風景である。
 藤原龍一郎は解説で、「ひとはかなしいから詩を書くのだ」という高柳重信の言葉を引用し、阿部の歌の根底に苦しさ、悲しさ、寂しさがあると指摘する。確かに次のような歌では正面から寂しさや悲しさが詠われている。
夕映えてどうしようもない峠ありここからずっと悲しいじかん
ロシア菊ひと群れ咲いている道をさびしさは来る夕立のあと
かくまでも春のたそがれ悲をひろげわたしはうすらに煤ける雪だ
冷淡な号令のあとどの人も横顔になる横顔さびし
写真うつしえに脚をそろえてわが立つをわが見るいよいよ悲しくなりぬ
 歌を作るとき、「悲しい」「寂しい」とあからさまに書いてはいけない、情景を描いて読む人がそこから悲しさ、寂しさを感じるようにするのがよいとよく言われる。「叙景を通じて叙情に至る」というのが古来の和歌以来の歌の王道なのだから、確かにそのとおりである。だから阿部のように「悲しい」「寂しい」とはっきり書くのは邪道だということになるのだが、不思議と読んでいて邪魔にならない。むしろ繰り返される「悲しい」「寂しい」という語が、まるで日常の点景としてのつぶやきか、あるいは低く唱える呪文のように聞こえてくる。
 もちろん中には次のように叙景を主とする歌もある。
夏終わるうずくまりたる砂浜のかもめは群れてみな海をむく
あしたはく靴をそろえて玄関に靴のみじかい影あるを見る
夕川に木の影とけて流るるを橋の上より見て帰りたり
花降れるごとく雪降る今の世を霊柩車発つ警笛鳴らし
エレベーター扉が開き夏野へと僧形のひと降りてゆくなり
 一首目、北国の夏は短いのだろう。砂浜のカモメが整列したようにみんな海の方を向いているというのがおもしろい。あとがきで作者は、「自分の歌は空想・幻想・捏造と感じている」と書いているが、実景を見てもそのまま写実的に詠むのではなく、どうしても景物に自分の心模様を読み込んでしまうのではないか。「うずくまりたる」に擬人化がある。二首目は短歌が得意とする細部を取り上げた歌で、揃えた靴の影を詠んでいる。ブーツなら長い影だろうが、パンプスなら短い影である。三首目、夕暮れの川面に木の影が映るのを見て帰ったというだけの歌だが、「夕」「影」「流るる」「橋」という語の組み合わせによって、寂しさの心情がかもし出されている。四首目は葬儀の風景である。いつの頃からの慣習か知らないが、出棺時に霊柩車は長くクラクションを鳴らす。それは「今の世」との別れである。五首目はなかなかおもしろい歌。エレベーターと夏野が直結しているかのように描かれているが、現実にはエレベーターのドアが開いて墨染めの衣を着た僧侶が降りて、公園か草地の方角に歩み去ったということだろう。「エレベーター」と「夏野」のミスマッチの「僧形」が演劇的である。
 作者は留萌に生まれ今も留萌に暮らしているらしい。おそらくは地元の風土に対しては愛憎半ばする感情を抱いているだろう。北海道の風土を感じさせる歌も多い。
えぞにゅうはただいたずらに高々と伸びて海など見尽くすごとし
ほのくらくうつむきながらひとびとがこぞりて雪を始末する朝
冬に裂け冬に折れたる白樺に芽吹きをさせて四月が去りぬ
毛衣のロシアの男降りてくる錆びて大きな船の腹より
咲き揺るるエゾエンゴサク沢すじに間奏曲のごとし 明るし
 一首目の「エゾニュウ」は海辺に生える植物らしい。その姿は異形である。二首目は雪かきの風景。雪との戦いは北国のならいである。三首目は「芽吹きをさせて」という語法が特徴的。冬の雪と風は白樺の枝を折るほどなのだろう。四首目は寄港したロシア船の風景。五首目の「エゾエンゴサク」というのは青い可憐な花を付ける植物で、沢地に生えるらしい。珍しく明るさを感じさせる歌である。
 しかし読んでいて目を引かれるのは何といっても、次のような「おもしろい歌」ではないだろうか。
選り分けて棄つる夏服セロニアス・モンクの憂鬱もかかるものかや
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長げえよ、なんだよ長々しいよ
十指組み頭をたれて跪きそしてこの後どんだけ待つんだ
われの愚と一国の愚と関わるか担いでやるから褌を貸せ
この冬は来る日も夜も火を守り火には事情があると知りたり
銃弾はeau de Cologneは神託はこの世の身体いちころにする
シャンプーのポンプを押せば手ごたえのそれなりにある夜更けなりけり
 一首目、古くなった夏服を捨てているのだが、なぜ突然セロニアス・モンクが出てくるのかわからない。ちなみにセロニアス・モンクは往年のモダンジャズのピアニストである。二首目、柿本人麿の歌をそのまんま引いておきながら、途中から突然伝法な口調に早変わりしている。腹の虫の居所でも悪かったのか。三首目も同工異曲で、「十指組み頭をたれて跪き」はおそらくキリスト教の礼拝だろう。「この後どんだけ待つんだ」はまるでベケットの「ゴドーを待ちながら」だ。四首目は今の政治に対する憤りの歌と読んだ。五首目、「火にも事情がある」というのが愉快。六首目のeau de Cologneはオーデコロンのこと。原義は「ケルンの水」。「銃弾」と「オーデコロン」と「神託」を並べて「いちころ」というのが痛快だ。七首目のポイントはもちろん「それなりに」。
 最後に写真と向き合うようにこれだけ一首特別な位置に置かれた歌を引かないわけにはいくまい。
わがうなじそびらいさらいひかがみにわが向き合えぬただ一生ひとよなり
 うなじ、そびら (背)、いさらい(尻)、ひかがみ(膝の裏側)と、身体の背面の部位を上から下へと列挙し、私は一生それらと向き合うことはないと詠む。鏡で見ればいいだろうという話ではない。ここにも作者の悲しみがあり、私たちの生のあり様がある。おもしろい歌集である。最後に付言すると、阿部はほぼ同時に第三歌集『叙唱 レチタティーヴォ』を上梓している。