友だちを口説きあぐねてゐる昼の卓上に傾るるひなあられ
石川美南『架空線』
世に取り上げて批評しにくい歌人がいる。独断だがその代表格は斉藤斎藤と石川美南ではないかと思う。その理由はいくつかあるが、箇条書きで述べると、その一、どちらも連作が中心で構成意識が強いために、一首、二首を取り出して批評がしにくい。その二、詞書きを多用するため、短歌の意味解釈に詞書きが影響し、歌を単体で批評しづらい。その三、近代短歌の私性をいともかんたんに振り切っているために、歌から〈私〉をたどりにくい。その四、連作の背後にストーリーが隠れているために、連作丸ごとでないと批評できない。その五、あちこちに仕掛けが施してあって油断できない。とまあ、こんなところになるかと思う。
というわけで『架空線』である。本書は『砂の降る教室』(2003年)、『裏島』『離れ島』(2011年)に続く著者第4歌集。あとがきによると、この歌集はもともと『Land』というタイトルになる予定だったのが、それ以外の部分が膨らんで現在の形になったという。最初にタイトルを見たとき、「架空」とは現実でないフィクションのことかと思ったが、実はそうではない。町の至る所にある電柱に架かっている電線のことを指す実在する言葉である。こんな所にも石川の仕掛けが施してある。
石川が批評しにくい歌人であるさらなる理由は、巻末の初出一覧を見るとわかる。『短歌研究』『短歌』『歌壇』のような短歌総合誌や、『外大短歌』『エフーディ』のような大学短歌会の雑誌や同人誌は言うに及ばず、柴田元幸編集の『MONKEY』とか文芸誌『星座』などにも歌を発表し、さらに短歌朗読イベントにも積極的に参加するなど、歌人としては実に活動が多彩である。これが結社に所属する歌人ならば、自分が師と仰ぐ歌人の選歌欄に毎月出詠し、結社誌に歌が掲載され、それを5年分まとめて歌集を編む。すると選の結果も与って、収録された歌のトーンの振れ幅はある一定量に収まるはずだ。読む人はその幅のトーンに波長を合わせて読めばよいので楽に読める。ところが石川のように歌を発表する媒体が多様だと、その媒体に合わせた構成意識が介在する。たとえば柴田元幸編集の『MONKEY』の○○特集だったら、こんなテーマと構成で歌を作ってやろうという気持ちがきっと起きるはずだ。するとそうしてできた歌は『MONKEY』の○○特集という「場」込みのものとなる。歌をカップに喩え、場をソーサーに喩えると、カップとソーサーが揃って初めて十全な意味作用を発揮する。ところが歌集に収録するときは、カップだけでソーサーはなくなる。意味作用に必要な「場」を失うのである。構成意識の強い「場」込みの短歌は、言い換えれば一首の屹立性が低く、また名歌主義からは遠いということにならざるをえない。
構成意識と物語性が強く感じられるのは、なかんずく集中では「犬の国」「わたしの増殖」「彼女の部分」だろう。「犬の国」は、「犬の国の案内者は土曜の夜もきちんとして黒いスーツに身を包み、市街を案内してくれる」という詞書きから始まる。
ブラックで良いと答へて待つあひだ意識してゐる鼻先の冷え
重ね着をしても寒いね、この国は、平たい柩嗅ぐやうに見る
立ち上がりものを言ふとき犬の神は肉桂色の舌を見せたり
何もかも許されてゐる芝のうへドーベルマンは銅像のふり
歌の中の〈私〉は案内人に導かれて犬の国を見て回るという設定なのだが、「鼻先」「嗅ぐ」などの犬の縁語を見ると、どうやら〈私〉もいささか犬化しているようでもある。初出は『びーぐる』などとあるので、愛犬家向けの雑誌ではないかと思う。ならばこのテーマ設定にもうなずける。
「わたしの増殖」には柴田元幸訳のアラスター・グレイ作『イアン・ニコルの増殖』の一節がエピグラフとして置かれている。石川は柴田と親交が深く、柴田訳の小説に想を得た連作と思われる。
嫉ましき心隠して書き送る〈前略、へそのある方のわたし〉
めりめりとあなたははがれ、刺すやうな胸の痛みも剥がれ落ちたり
へそのある方のわたしとすれ違ふパレードを持つ喧噪の中
〈私〉が真っ二つに分裂し、へそのある私とへそのない私に分かれるという奇想天外なお話である。この連作は仙台で開催された朗読イベントで朗読されたものであり、「楽天」「パレード」「復興」などやはり短歌の「場」の影響が感じられる。「出雲へ」という連作の詞書きに、「散文を書くときは自分の声を想定してゐるが、短歌は〈誰かの声〉を取り込んでゐるという感覚が強い」と書かれており、これは石川の短歌を読み解く鍵の一つになるのではないかと思う。〈誰かの声〉とは短歌の「場」の声であり、また「わたしの増殖」のような作品では想を得た元の小説の声でもある。石川にとって短歌とは〈私〉の表現ではない。近代リアリズムと伝統的な「私性」から自由な石川にとって短歌とは、〈私〉と「場」との化学反応によって生み出される何かであり、石川はそのようにして生まれる〈私〉の変容を楽しんでいるように見える。
「彼女の部分」にもまた多く詞書きが付されている。「姉の右の耳には穴が開いている」という一文から始まる詞書きを読むと、お姉さんの話かと思いきや、実は動物園にいる象の話なのである。
ヒンディー語で「慈悲」を意味する名前なり体揺らして日盛りに立つ
顔の横に耳はあるなり風吹けばすこしうるさし、はためく耳は
やはらかき足裏ぱ感知するといふ午後の豪雨を、遠き戦を
石川のキノコ好きは有名だが、動物も好きらしく、『風通し』創刊号にも「大熊猫夜間歩行」という佳品がある(そう言えば『風通し』の第二号は出たのだろうか)。石川はあまり人間を詠むことはないのだが、動物を詠む歌においては愛情深く観察鋭い。動物歌集など出してはいかがかと思うほどである。
とても実験的なのは、多和田葉子の『容疑者の夜行列車』を読んで書評のような短歌を作ってほしいという依頼を受けて作られた「容疑者の夜行列車に乗車」という連作である。『容疑者の夜行列車』から抜粋した文の一部を素材として作られたコラージュのような作品となっている。$で括った部分が多和田からの引用である。原文ではゴチック体になっているがうまく表示できないのでこのようにする。
男たちはわたしに恋をしないまま$黒胡麻を擂る、白胡麻も擂る。$
$透明な接着剤で貼り付けた偽の傷$から湧く偽の湖
詰め草の野を行くときも$筆跡をただで売り渡して$はならない
まさにこれは「〈誰かの声〉を取り込んでいる」短歌であり、まるでポリフォニーのように多声の作品となっている。改めてバフチンの名を出すまでもなく、文学作品の中に響くのは〈私〉の声ばかりではない。そのことをうすうす知りつつも敢えて見ない人がほとんどだろうが、石川のように多声性を積極的に利用しようという歌人もいるのである。
その他にも、日本橋川の川舟乗船記「川と橋」、爬虫類カフェ訪問記「脱ぐと皮」、単語と短歌を組み合わせた「コレクション」、夜行列車体験記「出雲へ」など、いずれも主題と構成意識の明確な連作が並んでいて、日々の「折々の歌」が一首もない。これも特筆すべきことだろう。
いつものように特に印象に残った歌を挙げておくが、上に述べたような断り書き付きでのことである。構成された連作から一首だけ抜き出すと、その歌は連作と主題という「場」を失う。おのずから歌意は変化せざるをえないことは断っておく。
皮脱ぐとまた皮のある哀しみの関東平野なかほどの夏 「脱ぐと皮」
転ぶやうに走るね君は「光源ハ俺ダ」と叫びつつ昼の浜 「沼津フェスタ」
窓は目を開き続ける 紫に染め上げられて夜といふ夜 「human purple」
春の電車夏の電車と乗り継いで今生きてゐる人と握手を 「運命ではない」
ポケットに咲かせてゐたり 国境を越えたら萎む紙の花々 「容疑者の夜行列車に乗車」
極東は吹き矢のごとく夕暮れてあなたを闇に呼ぶ ガブリエル 「声」
ぬかるみを踏めばはつかに盛り上がる泥土もしくは春の係恋 「リビングデッドの春」
恋知らぬ人と行きたり藤波と呼べば波打つ空の真下を 「朗らか」
暗ぐらと水匂ひゐき(はまゆり、)と呼びかけられて頷く夢に 「千年選手」
一読してわかるように、どんな一首にも小さな物語が秘められている。石川にとっては、短歌を作ることもさることながら、この小さな物語を紡ぎ出すことが無常の楽しみなのではないかと、しきりに思えてならないのである。