第276回 松本実穂『黒い光 2015年パリ同時多発テロ事件・その後』

坂道の続くゆふぐれ死んでゐる魚を提げて女歩めり

松本実穂『黒い光 2015年パリ同時多発テロ事件・その後』 

 夕暮れの坂道の光景から始まる初句において、すでに統辞が詩的にずらされている。「坂道が続く」という連体修飾句は、ふつうは「街」「界隈」という場所名詞にかかる。ところがここでは「ゆふぐれ」という時間名詞にかかっている。ということは、夕暮れという時間を体験している不可視の〈私〉(認知言語学では概念化主体 conceptualizerという)が背後にいて、「坂道が続く」という空間把握と「ゆふぐれ」という時間把握を架橋していることになる。このように短歌では統辞のずれが歌の背後に〈私〉を浮上させることがある。

 問題は三句目の「死んでゐる」だ。夕刻の買物帰りの女性を詠んでいるので、買物籠の中にあるのは市場の魚屋で買った魚だ。だから死んでいるのは当然なのだが、私たちは普段、魚屋で売られている魚を「死んでいる」とは言わない。それは私たちが「食材」としてカテゴライズしており、「生き物」としてカテゴライズしていないからである。このように私たちの認識は、日々無意識に行なっているカテゴライゼーション(範疇化)に依存している。範疇化とは「区別する」ことに他ならない。フランスで異邦人として暮らす作者には、そのことが一層強く感じられるのだろう。

 本歌集は「心の花」所属の歌人松本実穂の第一歌集である。プロフィールによれば、作者はフランス在住17年に及ぶ。もともとはご主人の転勤によってリヨンに暮らすことになったが、持ち前の行動力でセミプロカメラマンとして日本大使館の公式カメラマンを務めたり、ソムリエの資格を取得してワインコンクールの審査員をしたりと実に多彩である。本書にも作者撮影の写真が多数収録されており、歌集というより歌集・写真集となっている。帯文は佐佐木幸綱で、栞文は作者の広い交友関係を反映して、写真家ハービー・山口、心の花の大口玲子、画家の赤木曠児郎。

 2012年に佐佐木幸綱がリヨンを訪れたことがきっかけとなり、リヨン在住の日本人を中心としてリヨン歌会が結成された。最近マルセイユに抜かされたようだが、リヨンは長らくフランス第二の都市で、絹織物で栄えた街である。ポール・ボキューズを始めとする美食の街としても知られている。松本も佐佐木幸綱のリヨン訪問をきっかけに作歌を始めたようだ。

 さて、『黒い光 2015年パリ同時多発テロ事件・その後』という題名を見てもわかるように、本歌集の大きなテーマは2015年にフランスで起きた同時多発テロである。

十三日の金曜日にテロはなされしと新聞にあり煽るごとくに

追悼、愛国、右へ倣へといふごとくトリコロールの顔が増えゆく

劇場惨状伝ふる中継の声に重なるイマジンの歌

戦争が始まつたんだね月曜日の市場に花と水を買ひにゆく

パタクラン劇場前の路地の上に四本の薔薇濡れて横たはる

 イスラム過激派によるテロはパリ市内の劇場と郊外のサッカー場を標的として多くの犠牲者出した。大統領はただちに戒厳令を敷き、警察と犯人グループの間で大規模な銃撃戦も起きた。無差別テロは耳目を集める大きな事件であるが、歌人としての松本は犠牲者を悼みつつも、事件の周辺に目を配っていることに留意しよう。一首目、テロが13日の金曜日に実行されたと報じる新聞は、大衆の怒りを煽っているかのごとくである。13日の金曜日を不吉とする習慣は、キリストが十字架に架けられたのが13日の金曜日であったことに由来するので、キリスト教徒独自のものである。二首目、犠牲者を哀悼する気持ちはたやすく愛国心を鼓舞し、異教徒や移民を排斥する動きへと繋がることに作者は危惧の念を覚えている。三首目、にもかかわらずlove and peaceを歌うジョン・レノンのイマジンは、荒ぶる魂を慰撫するようにラジオから流れる。四首目の「戦争が始まつたんだね」はおそらく子供の言葉だろう。日本では考えられないが、フランスでは普段から小銃や機関銃を携帯した警察官や兵士を町中でよく見かける。ましてや戒厳令ともなれば軍は総動員されて町は兵士だらけとなる。五首目のパタクラン劇場は90人近い犠牲者を出した劇場で、作者の目は追悼のバラの花が雨に濡れそぼる様に向かっている。

命を産む女に生まれ爆弾を体に巻かれ死にてゆきしか

三色の雲を引きゆくミラージュはいづこを爆撃せし戦闘機

それぞれに人うつむきて座りをり〈兵隊募集〉のポスターの下

国籍を再び問はるテロ警戒巡視パトカー戻り来しのち

Mission vigipirateテロ特別警戒〉パトカーのミラーより見られてをらむ三叉路にて

 フランスは報復としてシリアを空爆した。革命記念日にパリ市の上空を飛行するミラージュ戦闘爆撃機ももしかしたらシリア空爆に加わった機体かもしれない。同時多発テロ以来、軍隊を志願する若者が増えたと聞く。テロはまたフランス在住の外国人に注がれる眼差しを変化させる。フランスで暮らしていると、道で警官が寄ってきて「Vos papiers, s’il vous plait」(身分証を見せてください)と言われることがある。職務質問だが、テロが起きるとその頻度は増す。作者も在仏外国人としてその眼差しの変化を体感しているのである。

 短歌は小さな器なので、同時多発テロのような大きな出来事を詠うことは難しい。出来事自体が大きすぎて、短歌という器をはみ出してしまう。松本が取った手法は、出来事自体を詠うのではなく、出来事に接してさざ波のように生じた〈私〉のゆらぎ、もしくは〈私〉と「世界」(あるいは「社会」)の関係のゆらぎを描くというものである。おそらくそれが短歌で大きな出来事を詠う唯一可能なやり方だろう。

 本歌集にはもちろん異なる主題の歌も収録されている。その多くは松本が撮影する写真と同じように、フランスの日常の街角の光景である。

ハーモニカの音かすれをり地下道に投げ銭を待つ小さき子どもの

マカロンのかさこそ箱に鳴るやうに売られてゆきぬ朱き小鳥は

乗り換への人の流れを割く岩のやうに座れりシリアの母子

曇り日の日時計の影ほの蒼く人とわれとの隔たりを告ぐ

言ひつぱなしの約束のやう夕空に残されてある細き梯子は

 一首目は地下鉄の通路で芸をして投げ銭を待つ異邦人の子供。二首目は小鳥市で売られてゆく小鳥。三首目は大勢の人が行き交う地下鉄の乗り換え駅の階段に座るシリア人の親子である。書き写していて気づいたが、どの歌にも対象に注ぐ眼差しに、見る〈私〉と見られる対象とを隔てる距離感が、光に寄り添う影のごとくまとわりついている。この距離感は紛れもなく異国で暮らす異邦人の眼差しである。言うまでもないがこれはいわゆる海外詠とはちがう。海外旅行に行き珍しい光景や事物を詠む海外詠は、ややもすれば観光絵葉書のようになりがちである。それは物珍しさが先に立ち、短時間の滞在では眼差しが対象に食い込むことがなく皮相な印象に終始するからだ。松本は長くフランスに住んでいるので旅行者ではない。従って海外詠に付きものの弊は免れてはいるものの、対象との距離はやはり異邦人のそれである。そのような意味でも興味深い歌と言えるだろう。

汗のにじむはだへのごとく街の灯を浮かべて昏く流れゆく川

絹雨のマルシェの隅の花籠にミモザは淡き光をあつむ

人に名を初めて呼ばるその声の新しきまま夏となりゆく

靴ひもを丁寧に結ぶ指先のきゆつと止まりてわれに夕凪

握りゐる掌をひらきゆくひんやりと魚の化石のやうな夕どき

さつきまでパンだつたはずパン屑がテーブルに落とす十月の影

 印象に残った歌を引いた。同時多発テロのその結果暮らしに生じたさざ波のような変化が本歌集の主な主題なのだが、上にも書いたように出来事の規模が大きいため、その発端から帰結までを頭で理解しようとすると、「○○が起きた、その結果こうなった」という因果関係が主軸となりがちだ。そのこと自体は悪いことではなく、大きな出来事を詠むときには避けがたいことでもある。しかし因果関係を主軸とすると歌が痩せるのもまた事実である。歌意を100%説明できる歌は魅力を減ずる。読む人が想像力で膨らませる余地がないからである。例えば上の五首目を見てみよう。掌を握っていたのはなぜか、またその掌を今度は開くのはなぜか、まったく説明されておらず、ただ事象として差し出されている。「ひんやりと」は魚の化石にかかるのか、それとも夕どきにかかるのかも両義的である。そもそも「ひんやりと」は連用修飾語だから体言にはかからないはずで、ここにも統辞のずれがある。また夕どきの喩として「魚の化石のやうな」は意外でありながら、その冷たさ、不完全さ、脆さ、またすでに絶滅した種という隔絶感を通じてよそよそしい夕どきの喩として成立している。

 作者は17年にわたるフランス滞在を切り上げて日本に帰国したようだ。長年海外で暮らして帰国すると、今度はリップヴァンウィンクルよろしく日本で異邦人となる。それがどのような短歌となって結実するのか楽しみではある。