第278回 芹澤弘子『ハチドリの羽音』

盆踊り同じ高さにそよぐ手のをわたりゆく魂のあるべし

芹澤弘子『ハチドリの羽音』

 盂蘭盆会に各地で行なわれる盆踊りの光景である。盂蘭盆会には家の前で火を焚き、茄子や胡瓜で馬を作って祖先の霊を迎える風習がある。掲出歌に詠まれた魂はそうして現世に戻って来た祖霊だろう。この歌のおもしろさは、盆踊りの輪を作る人ではなく、踊りにつれてそよぐ手に着目したところにある。描かれているのはイソギンチャクの触手のごとくゆらゆらとなびく手のみで、その下にいる人は夜の闇にまぎれて見えない。運動会で行われる「玉送り」という競技がある。一列に並んだ子供が両手を上げて、玉を順番に渡して行く速さを競う競技である。この歌ではまるでこの玉送りのように、なびく踊り手の手の上を祖霊が渡ってゆく。「魂」を「たま」と読ませて「玉」と掛けてのことである。

 芹澤弘子は1946年生まれで、「プチ★モンド」で松平盟子に師事している。プロフィールによると、最初は俳句を作っていて句集もあるという。2010年頃から短歌を始め、『ハチドリの羽音』は第一歌集だというから、俳句の素養があるとはいえ短期間の上達ぶりには驚かされる。跋文は松平盟子で、栞文は小島ゆかりと坂井修一。

 作者は独立した四人の子供がいて孫もいる家庭婦人のようなのだが、一読してまず感じるのは歌の素材の多彩さである。家庭婦人の場合は身辺詠が多くなる傾向があるが、芹澤はその例には当てはまらないようだ。

エジプトの路上にビーズ売りし子よアラブの春に砂嵐吹く

春立てば安達ヶ原の一つ家もおぼろ月夜に毒香るらむ

オキーフが描けば小さな幸せも大きく大きくそれだけを見る

シベリアンハスキーの曳く犬ぞりで白樺林を駆け抜ける快

バザールに乾燥果実買いおればざわめきの中アザーンの声す

雨が好きとウッディ・アレンが言いしゆえ雨を見に行くひとりの午後は

キリンの舌窓よりぬっと入れられて餌をやる手に涎したたる

 一首目は、アラブの春の報道に接して、昔エジプト旅行で見かけたビーズ売りの子供に思いを馳せる歌。春に嵐は付きものという感慨を表す。二首目は歌舞伎を鑑賞した折りの歌で、どこかに本歌がありそうだ。安達ヶ原の一つ家とは、鬼女が旅人を泊めては殺害した家のこと。三首目は展覧会の場面で、オキーフは花弁などを大きく描く絵で知られた画家で、歌の「大きく大きく」はそのことを指す。四首目はアラスカ旅行の折の歌で、五首目はトルコ旅行。バザールの雑踏もさることながら、街に高く響く礼拝を呼びかける声が印象的だったのだろう。六首目は一人居の身を感じさせる歌だが、決して湿っぽくはなく明るい。七首目は人が車の中にいるサファリパークの光景である。ざっと目を通しても驚くばかりの行動力で世界をめぐり、さまざまな物を見聞している。注目すべきは、見たものを記憶しそれを輪郭鮮やかに描く技術と、一貫して見られる明るさだろう。

 しかし明るいばかりではない。次のような歌もある。

一生の長さ一炷のそのあわい ながれる雲の速さ見ており

 「一炷」は「いっちゅう」と読み、線香が一本燃え尽きるまでの時間だという。一回の座禅の長さを時計代わりに線香で計るらしい。ここでは短い時間の喩として置かれている。流れる雲もまた時間を表すことは言を俟たない。ここには遥か昔から俳句や短歌など短詩型文学に脈々と流れて来た思想があることに注目しよう。

 第二次大戦後に桑原武夫が第二芸術論を著したことはよく知られているが、その際に桑原の念頭にあったのは西洋の芸術である。西洋の芸術は、その源流であるギリシア・ローマの彫刻・建築を見てもわかるように、永遠の美を理想とした。その根本は普遍と調和と完全である。バルテノン神殿のように、あるいはミロのビーナス像のように、完璧に調和の取れた永遠の美が理想とされたのだ。大理石像に注ぐ陽光はあくまで明るく、乾燥気候ゆえに光と影が織りなす明暗の境界は鋭く中間はない。矛盾律と排中律はギリシア哲学の基礎である。ひるがえって日本の和歌や俳句など伝統的詩型が重んじたのは移りゆく美であり、風に舞う落花飛花のようにはかなく消える美である。移ろうものや消えゆくものに心を寄せるのが習いで、湿潤気候も与って明暗の境界は曖昧であり、明快な二分法からは遁走する。このように俳句や短歌が掬い上げるものの背後には移ろう時間の影が常に揺曳している。坂井修一が見つめる毬の影もそれと異なるものではない(朝日新聞2020年4月5日付の朝日歌壇俳壇の文章)。芹澤の短歌もこのような大きな流れの中にあることが確認できるのである。

 作者の父上は大学の研究者だったらしく(馬の睫毛おさなき記憶につながりて研究室の父の顕微鏡)、夫君は医者で共にアメリカで暮らしていたこともあるらしい。その夫君が黄泉の旅路についた折りの一連は心を打つ。

これまでに成しとげしことただひとつ夫亡くなりて結婚の完

ひとつずつ生の痕跡消えてゆく眼鏡・免許証・Lサイズのシャツ

ごみ箱にゴルフグラブは捨てられたりクラブ握りし形のままに

墓石には〈夢〉の一字が刻まれて雪ふる中にゆらぎつつ浮く

爪研がぬウルフとなりて果てし人草原わたる風に眠れよ

アスファルトに爪つっかかりつっかかり歩みがたかりけむ現世の道

 三首目の、ゴルフグラブがクラブを握る形のままにゴミ箱に捨てられるという歌はリアルで心に迫る。人が亡くなるとはこういうことだ。最後の二首は、医者としての理想を曲げぬために周囲と衝突することがあったという夫君に思いを馳せての歌だろう。

色水は作れぬ白き朝顔は庭の余白を充たしつつ咲く

帰るなき魂ただようや鈍色の鐘の聞こゆ海見ておれば

灯をともし路地あかあかと立ちあがる海に夕日の沈むを待ちて

草の中ひそやかにある終点の線路の断面ぬらす霧雨

梅雨明けのきざしは窓にさす光白き花さえ濃き影を持つ

死はすぐに取り除かれて水槽のランプ明るし瞼なき魚

 印象に残った歌を引いた。少し驚いたのは四首目の歌で、鉄道の終点駅は確かに線路が終わる場所だが、切断された線路の断面が露出しているということはあるのだろうか。ふつうは車止めなどが置かれているはずだ。しかしもしこれが「断面は霧雨に濡れているにちがいない」という想像によって生まれた歌であるとするならば、それはそれで美しい。

 少し気になることがあるのであえて書いておきたい。

町中に監視カメラの眼が光る神になれぬは死角あるゆえ

歩道橋風に吹かれて渡るとき首を延べたるキリンの心地

みはるかす視界は天と地のふたつ点景なきことかくものびやか

 私にはこのような歌はおもしろいと思えない。それは歌意が一首の中で完結してしまっているからである。一首目は監視社会に対する嫌悪を表した歌だが、いくら監視カメラが設置されても神にはなれない、それは死角があるからだと、理由まで提示している。俳句と同じく短歌もまた「○○だから△△だ」という因果関係を嫌う。二首目は歩道橋の上で風に吹かれる心地よさを詠んだ歌であるが、それは首を延ばしたキリンの心地だと作者が特定している。三首目はモンゴルで草原に立った折の歌だが、「かくものびやか」は作者ではなく、歌を読んだ読者が感じなければならない感覚である。

 歌はどこで成立するか。永田和宏は短歌における読者論を展開している数少ない論者だが、永田は「歌は作者と読者のあいだで生まれる」と述べている。短歌は作られた時ではなく、読まれた時に歌となる。中島みゆきが作詞作曲し、平原綾香が歌っている「アリア」という歌に、「1人では歌は歌えない。受け止められて産まれる」という歌詞の一節があるが、まさにその通りである。

 では読者が受け止めてどうして歌の中に入ることができるのか。それは歌に通路が開かれているからである。通路が開かれていると、読者はそこを通って歌の中に入り、「ああ、そのとおりだなぁ」とか「そのときどんな気持ちになるのだろうか」などと、まるで自分が体験したことであるかのように思いを巡らせることができる。しかし一首の中で歌意が完結していると通路がなく、読者は示された読み方しかできなくなってしまう。

ブラインドの羽根より西日差しこめり壁のピエロにうつる濃き影

 この歌の歌意は完結しておらず、読者にたいして通路が開かれている。ブラインドから差し込む西日が壁に掛かっているピエロの絵に縞模様の影を落としているという光景が描かれているだけで、意味づけがされていないからである。読者は意味の隙間をすり抜けて歌の中に入り、自由に想像を巡らすことができる。そのような短歌の持つ生理をあらためて思わせてくれる歌集である。