第324回 toron*『イマジナシオン』

くちびるに触れるあたりをつと触れて盃ふたつ買う陶器市

toron*『イマジナシオン』

 書肆侃侃房から続々と刊行されている新鋭短歌シリーズの一巻として今年 (2022年) 2月に出たばかりの歌集である。ペンネームが変わっている。はてトロンとは、坂村健が作ったコンピュータOSか、ラドンの放射性同位体か、はたまた1982年に公開されたアメリカのSF映画か。ごていねいに最後にアスタリスクまで付いている。いぶかしみながら読み始めると、ぐいぐい引き込まれて最後まで一気に読んでしまった。素晴らしい第一歌集である。こんな歌集でデビューする歌人は幸福だ。通読して思ったのは、この世には詩心のある人とない人がいるということである。作者はもちろん詩心に溢れている人なのだ。

 短いプロフィールによると、作者はTwitterで短歌と出会い、「うたの日」や『小説 野性時代』の歌壇欄などに投稿するようになる。2021年の第32回歌壇賞で「犬の目線」が候補作品に選ばれている(ただしそのことはプロフィールには書かれていない)。塔短歌会、短歌ユニットたんたん拍子、Orion所属。『小説 野性時代』の歌壇欄を担当していた縁から本歌集の編集をしたのは山田航で、あとがきも書いている。タイトルの「イマジナシオン」はフランス語で想像力のこと。寺山修司から取ったそうだ。

たぶん、もう追いつけないな踊り場で見上げるきみがいつも逆光

周波数くるったラジオ抱えれば合わせるまでの手のなかは海

果てしない夜をきれいに閉じてゆく銀のファスナーとして終電

露店より買う万華鏡たわむれに街を破片にしてみる日暮れ

会うまでの日をていねいに消してゆく手帳のなかに降りやまぬ雨

 歌集冒頭付近から引いた。最初の印象は現代の若い人が作る典型的な口語短歌というものだが、詳しく見てゆくと随所にポエジーを立ち上げる工夫がしてある。一首目、「たぶん、もう追いつけないな」は作中主体の内心の独白で、置かれた読点によって初句が句割れになっており、そのせいで諦念の深度が深まる。詠まれているのは漠然とした恋の終わりの予感だろう。二首目、周波数が合っていないラジオから雑音が鳴り響いている。それを荒れ狂う海に喩えているのだが、その喩の作用で暴風雨の北の海で遭難しかけている船のイメージが重なる。たぶん〈私〉は誰かに助けを求めているのだ。三首目、銀色に輝く車体の終電がまるでファスナーのように夜を閉じてゆくと詠まれている。この終電は市街地を走っているので路面電車だろう。四首目、お祭りの縁日の露店で万華鏡を買う。万華鏡を覗くとあたりの風景がばらばらになって輝く。密やかな破壊衝動が匂わされている。五首目、恋人と会う約束の日が手帳に書かれている。その日までを一日ずつペンで消してゆくのだが、たぶん縦線で消しているのだろう。増えてゆく黒い縦線を降り続く雨に喩えている。

 まず注目されるのはきちんとした定型感覚と韻律の確かさである。五・七・五・七・七に言葉を嵌め込んでゆく感覚が優れている。そして下句の収め方がうまい。気が付いてみると全部体言止めの歌ばかり引いたが、実際に体言止めの歌が多いのである。「見上げるきみが/いつも逆光」では四・三 / 三・四、「銀のファスナー/として終電」は句跨がりだが三・四 / 三・四「街を破片に/してみる日暮れ」では三・四 / 四・三と音節が整えられていて、結句の着地の仕方が確かである。口語短歌の最大の問題は結句の文末表現の単調さにあり、実際に若い人の作る口語短歌は動詞の終止形(ル形)で終わる歌が多いのだが、toron*の作る歌は珍しくその弊から免れている。このことだけでも特筆すべきである。

 そしてtoron*の歌の最も大きな特徴にして最大の魅力は喩であることはまちがいない。そのことはあとがきで山田航も指摘している。多用されている直喩が単なるイメージの単純な衝突にとどまらず、もはや「変身」の域にまで達していると山田は書いている。「変身」とは、直喩によって喩えられた物に本当に変化しているという意味である。

 すでに見たように上に引いた歌にも喩がある。二首目ではラジオから流れる雑音が荒れ狂う海に、三首目では終電が閉じてゆくファスナーに、五首目ではペンの縦線が雨に喩えられている。山田はこのような喩が変身作用を発揮して、toron*の歌の世界をファンタジーに変えていると解説している。しかし私は喩が現実世界をファンタジーに変える装置というよりは、現実の彼方へと下ろす測鉛であり、それによってポエジーが立ち上げられているのではないかと感じるのである。

 よく知られているように、古典和歌は喩の宝庫だったが、子規による短歌革新運動によって「写生」が王道となったため喩は御法度となった。対象を正確に写生するのに喩は不要どころか邪魔になるとされたためである。喩を全面的に復活させたのは前衛短歌であり、なかんずく塚元邦雄は斬新な喩の持つイメージ喚起力を最大限に利用したことは周知の事実だ。

 短歌に限らず俳句においても詩においても、比喩はポエジーを作り出す有力な手段として使われている。たとえば松本たかしの代表句を見てみよう。

金魚大鱗夕焼の空の如きあり

 金魚鉢に一匹の大きな金魚が悠然と泳いでいる。鰭の大きなランチュウだろうか。金魚鉢も昔風の球形で、縁が切支丹バテレンの服の襟のように波打ったものだろう。球形の金魚鉢は凸レンズの働きをするので、中の金魚が実物よりも大きく見える。その様を西の空を真っ赤に染める夕焼けに喩えている。この句の眼目が「夕焼の空の如き」という直喩であることは言を待たない。アララギ派が喩を御法度としたのは歴史的に見れば例外的なことなのである。

 そのように詩や短歌にとって大事な比喩なのだが、その機能についてはあまり分析がなされていないように思う。例外は永田和宏で、第二歌論集『喩と読者』(而立書房、1986年)では第2章をまるまる比喩論に当てている。その中の「喩の蘇生」という文章で永田は「喩とは何か?」と問い掛けて、喩の効果について次のように書いている。

「これらの直喩の効果は、もともとは存在しなかった共通性を、作者の眼が独自に見つけだしてきて、それを、自分では決して直接に結びつけ得ない微妙さの中に架橋しようとしている・・・・・・・・ところにあると思われる」

 そして永田は次のように「能動的喩」を推奨する。

「世界が秘めている意味、潜在性として蔵している価値、それらを一回性のものとして剔抉してくれるような喩、それを私は、より巧みに表現するための喩と区別して〈能動的喩〉とでも呼びたいと思っている」

 「AのようなB」という直喩では、もともと遠い関係にあったAとBと結びつけるのだが、それは「お盆のような月」のような陳腐なものではだめで、作者の独自の目線が発見したものであり、それによって私たちの世界の見方が新しくなるような喩でなくてはならないと永田は述べているのである。それは確かにそのとおりなのだが、永田の文章でも比喩の機能が言い尽くされているとは言いがたい。詩や短歌に限らず私たちは日常の言葉でも比喩を使う。「錆び付いた鉄の扉を開けるような音がした」などと表現することもある。そもそもなぜ比喩は必要なのだろうか。

 私見によればその答は文化人類学者レヴィ=ストロースが提唱したブリコラージュ  (bricolage)という考え方にある。ブリコラージュ とはフランス語であり合わせの材料と工具でする日曜大工を意味する。レヴィ=ストロースはいわゆる未開民族の文化を詳細に分析して、彼らの文化の特徴をこの用語で特徴づけた。ブリコラージュ的思考では用途に合ったものを一から作るのではなく、身近にあるありあわせの物を利用して用を足す。重要なのは私たちが話している言語には、まさにこのブリコラージュ的な性質があるという点である。私たちが語ろうとする世界は無限に多様なのに、言語が提供する手段は有限だからである。

 例を挙げよう。人類は古くから航海していたので、船に関する語彙は豊富にある。しかし宇宙飛行はたかだか半世紀前に始まった新しい事態だ。このため宇宙飛行に関する語彙は、宇宙船 (space ship)、船長 (captain)、乗組員 (crew)、母船 (mother ship)など航海時代の語彙を転用している。古い語彙で新しい事態に対応する。これはまさしくブリコラージュである。フランス語で自動車の運転手はchauffeurという。これは蒸気機関の時代の釜炊きをさす語である。今のガソリンエンジン車ではもう石炭はくべないが、この語は「ボイラーを熱する」という元の意味を失い、乗り物を運転する人という意味に特化して生き延びた。ソムリエが曰く言い難い微妙なワインの味を表現するとき、その芳香を直接に表す語彙はないので、「苔とリンゴ酢の混ざったような香り」などと言い表すのも同じことだ。

 比喩が重要な働きをしているのはこのためである。初めて目にした光景や、心の中に湧き上がった経験したことのない感情に、既存の言葉を当てることができないとき比喩は輝く。例えば次の安永蕗子の歌の直喩がそうだろう。

つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が降り来る

 詩や短歌や俳句において比喩が重要な役割を果たしているのは、比喩が既知の現実の外部に拡がる広大な未知の領域に向かって垂らす測鉛だからである。toron*の歌において比喩はこのような働きをしているように思われる。

拳へと固めた指をひとつずつほぐしてやるよう百合根を洗う

その喉に青いビー玉ひと粒を隠して瓶はきっと少年

きみもまた降りるイメージで語るのか螺旋階段を死に喩えれば

何処にもない国の祈りの所作に似る石鹸で手を洗うそのたび

 たとえば一首目、なぜ百合根が握り締めた拳に見えたかたというと、作中の〈私〉が激しい怒りを感じる体験があったからである。ここではその体験を直接に語らず喩へと昇華している。二首目はラムネの瓶を詠んだ歌。近頃ではプラスチック製の瓶もあるが、ここは緑色に輝くガラス瓶と取りたい。ラムネ瓶の口に封入されているビー玉を少年の喉仏に喩えているのだ。そんな比喩は今まで見たことがない。三首目は比喩そのものを歌にしている。螺旋階段を人の死に喩えると、限りなく天上に上昇してゆくイメージもあるはずなのだが、君は他の人たちと同じように降りてゆくイメージで語るという。そこに一抹の落胆と諦念が感じられる。四首目はコロナ禍の日常を歌にしたもの。石鹸で手を洗う動作を祈りの所作に喩えることで、私たちの心に灯る祈りの気持ちを表現している。それぞれを言葉にすれば、怒り、青春性、諦念、祈りとなるのだが、歌はそのような既知の言葉では捉えることのできない明滅するような感情の襞を表現している。

 第32回歌壇賞の候補作となった「犬の目線」は、第4章に独立して収められている。冒頭に寺山修司の『地獄篇』がエピグラフとして付け加えられている。

雨だね、とざらつく点字を撫でているまだ眼の見えている子供たち

百匹の犬ひき連れている母が受け止めていたあたらしい雨

山折りを谷折りにして蝶になる。そうだろう、そんな眼に合わせたら

飲み干したデカビタの瓶、重たくていつか捨てたくなるのか犬を

 選考座談会では、東直子と水原紫苑が○を付けている。東は「犬の歌だけどピックアップしてみるといろんな読み方ができる」と評し、水原は「強烈なイメージと言葉の組み合わせがおもしろい」と述べている。一方、吉川宏志は「比喩を重ね塗りしすぎているところがありわからなくなっている歌がある」と言い、三枝昻之は「『犬』が必要だっだたろうか」と疑問を呈している。

 本歌集に収録された他の歌と明らかにテイストがちがう。思うにtoron*は歌壇賞に応募するために連作を作らねばならないと考えて、軸となる主題を立てようとしたのだろう。それが「犬」だったわけだが、あまり成功しているとは言い難い。toron*のように一首ごとに喩を入れることで歌の地平を拡大しようとする作風は、結果的に一首の屹立性が高くなり、一首ごとに新しい物語が立ち上がるので連作には不向きなのだ。他の章に収録された歌のほうが断然いい。

花びらがひとつ車内に落ちていて誰を乗せたの始発のメトロ

鯖味噌煮定食だったレシートが詩に変わりゆく古本のなか

ベツレヘム。生まれてきてから知ることの遅さで届くこの遠花火

やわらかく抗うひとを思い出す目地の通りに割れぬ板チョコ

青缶のニベアを仕舞うそうやって夏のいつかをまた思い出す

はつ雪と同じ目線で落ちてゆくGoogleマップを拡大させれば

ぼくよりも濃い夏がありタイトルの茶色に焼けた岩波文庫

 二首目のようにレシートを詩集の栞に使うとそれが詩に変わるという発想や、六首目のマップのズームインを雪の降下に喩えた喩は新鮮だ。三首目もいろいろな読み方ができるが不思議と魅力的な歌である。

 最後に老婆心ながらtoron*という筆名はあまりいただけない。性別もわからない無機的な筆名は歌の想像力を刺激しない。短歌はどんなに遠くへ放っても、最終的にはブーメランのように人へと戻ってゆくので、できれば実在性のある名前のほうがよいと思うのだがどうだろう。