第342回 岡野大嗣『音楽』

しっぽだけぶれてるphotoのそうやってあなたに犬がそばにいた夏

岡野大嗣『音楽』 

 私は京都市左京区に住んでいるのだが、自宅から歩いて5分ほどの所に恵文社という書店がある。三月書房が惜しまれつつ閉店した現在、京都で最もユニークな本屋であることはまちがいない(実はもう一軒、恵文社の元店長が開いた誠光社という個性的な書店がある)。落ち着いた色調の板張りの床に、背丈の低めの書架が並べてあり、ところどころに置かれたアンティークの机にテーマごとに本が平積みされている。英文学を研究する友人が、「まるでイギリスの本屋のようだ」と評したことがある。そのとおりで、書店というよりは愛書家の古い書庫に入り込んだような印象を受ける。

 外観と店の雰囲気も重要だが、恵文社のユニークさは選書にある。一冊一冊、目利きの書店員が選んだ本ばかりが並べてある。小沼丹と山田稔の小説がいつでも買える書店はめったにない。山尾悠子と澁澤龍彦の本もいつも置いてある。ずいぶん前になるが、ふらっと店を訪れると、山尾悠子の歌集『角砂糖の日』の古本が10冊くらい積まれていて仰天したことがある。私はすでに一冊持っていたのだが、捨て置けず3冊買ってしまった。新装版で再刊されるずっと前のことだ。また「美しい本」というフェアでは、紀野恵の『フムフムランドの四季』(砂子屋書房)を買った。若くして亡くなった元同僚の法哲学者那須耕介君の本をずっと置いてくれているのもうれしい。

 さて、ここからが本題なのだが、先日恵文社に行くと、詩歌の棚が増えているばかりか、机の上にも歌集が平積みされているではないか。うれしくなってしまった。『短歌研究』8月号の「短歌ブーム」特集で、編集部からのアンケートに答えた恵文社の書店員の韓千帆さんによると、一昨年あたりから短歌の本が動き出し、20代30代の人がよく手にとっているという。韓さんは続けて「しずかに、かつ確かに短歌(を含めた短詩形文学)への関心が広がっているように思います」と答えている。詩歌の棚の充実もこのような動きを反映してのことだろう。恵文社では堀静香と大森静佳のトークイベントも開催している。

 そのときは散歩の途中で立ち寄っただけなのに歌集を6冊買ってしまった。その折に買った歌集をこれからしばらく続けて取り上げることにする。

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 岡野大嗣の『音楽』が手許の書架に並んでいるのは上のような経緯による。歌集巻末のプロフィールによると岡野は1980年大阪生まれ。短歌にときどき関西弁が混じるので関西出身だろうなとは思っていた。第一歌集『サイレンと犀』、第二歌集『たやすみなさい』の他、木下龍也との共著歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』がある。共著を除けば『音楽』は第三歌集である。版元はナナロク社。

 今年の短歌シーンの大きな話題は「短歌が流行っている」であることに異論はないだろう。『短歌研究』8月号はズバリ「短歌ブーム」という特集を組んだ。全国の書店員へのアンケート調査の「どんな歌集が売れているか」という質問に多かった答は、岡野大嗣、木下龍也、岡本真帆らの歌集だった。それに加えて岡野大嗣へのロングインタビューと、版元のナナロク社の村井光男社長へのインタビューまで収録されている。今年の「短歌ブーム」の原因はいろいろあるだろうが、その中心に近い位置に岡野とナナロク社がいることはまちがいない。とはいうものの岡野自身は「短歌のコアな作者や読者のほうからは、岡野大嗣もこの軽薄なブームに加担している一人と思われているかもしれないな、と思ってやるせなくもなります」と発言しており、意外に醒めた見方をしている。

 岡野は2014年の短歌研究新人賞で次席に選ばれている。この年に新人賞を受賞したのは石井僚一の「父親のような雨に打たれて」で、この連作がその後物議を醸したことは記憶に新しい。ちなみに次席には岡野と青井杏の二人が選ばれたが、候補作には山階基、工藤吉生、北山あさひ、法橋ひらく、工藤玲音、フラワーしげるらがずらっと名を連ねていて、まるでオールスターのようだ。

 岡野の次席作の「選択と削除」には次のような歌が見られる。

人のなりした環境依存文字たちをダイヤ通りに運ぶ地下鉄

ダンボールの口があいているのが視野に入って中に肉らしきもの

社是唱和 白いセミナー室にいてわたしは生まれなおされている

骨なしのチキンに骨が残っててそれを混入事象と呼ぶ日

塾とドラッグストアと家族葬館が同じにおいの光を放つ

 無機質で抑圧的な都市風景と、フラットな日常生活に息苦しさを感じている作中主体の〈私〉を想定すべきか迷うほどに、事象自身が自らを語るかのような文体で描かれているが、全体を浮遊するテーマは「世界との違和」だろう。岡野は2011年に作歌を始めたらしいので、短歌研究新人賞へ投稿した時は始めて2年半そこそこであることを考えると驚くべき上達ぶりだ。岡野は木下龍也の短歌に触れたことがきっかけで作歌を始めたようだが、「ただいまより他のお客様のご迷惑になりますご注意ください」のような歌を見ると、中澤系の影響を強く受けているようにも思える。

 岡野は短歌研究新人賞次席に選ばれた直後の2014年12月に第一歌集『サイレンと犀』を刊行している。準備には半年はかかるだろうから、短歌研究新人賞応募と並行して進められていたにちがいない。書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻で、監修は東直子である。解説によると、東が担当していたラジオ番組への短歌投稿が歌集を編むことになったきっかけだったらしい。

くもりのちあめのちくもりくちべにをひく母さんの手つきはきらい

                       『サイレンと犀』

ひとりだけ光って見えるワイシャツの父を吐き出す夏の改札

フェンスから逃げ出すように咲いているたぶん金糸梅を撫でに近づく

ぎりぎりの夕陽がとどく二段階右折待ちする僕の胸まで

もしそれを愛と呼ぶなら永遠に続く閉店セールも愛だ

ここじゃない何処かへ行けばここじゃない何処かがここになるだけだろう

 東は解説で「根底にあるこの世への不条理感が歌を作る動機になっているように思う」と書いている。短歌研究新人賞次席の「選択と削除」に較べると、幼少期を回想する歌や日常詠も混じっていて、より幅広く世界と接するスタンスになっているようだ。しかし作品の底を流れる音楽は沈鬱な音色を奏でるものが多い。

 では『音楽』はどうかと言うと、一読した印象はかなり異なるものだ。歌集の中核をなしているのは次のような歌である。

借りたままの古いゲームのサントラと貸したままのそのカセットのこと

買った夜にはいなかった部屋にいて部屋着にしてるバンドTシャツ

かっぱよく似合ってますね、を飼い主に 似合ってるね、を犬に話した

月をみる こんな真上にあったから気づかなかった時間の後で

つらいね、のいいねをつける これしきのことで救った気になって消す

 岡野の変化は、「否定・懐疑から肯定へ」、「暗さから明るさへ」、「対立から慰撫へ」、「文章語から話し言葉へ」というキーワードで表すことができるだろう。岡野はどこかで世界と和解する方法を見つけたのである。岡野の描く世界はそれまでに較べてずっと穏やかで優しいものになっている。

 岡野の短歌が多くの人を引きつける秘密は、岡野の短歌が普遍的な「小確幸」を描いているからではないだろうか。私の記憶が確かならば、「小確幸」とは村上春樹が安西水丸との共著『ランゲルハンス島の午後』(1986年、光文社)で使った言葉で、「人生における小さくはあるが確固とした幸せのひとつ」を略したものである。この本は村上の文章に安西のイラストが添えられた瀟洒な本で、愛蔵している。ちなみにTV大阪で放映された「名建築で昼食を」というドラマで、田口トモロヲ扮する建築模型士が友人の喫茶店のマスター(三上寛)に「小確幸」を紙に字で書いて説明する場面があった。彼もまた「小確幸」の人なのだ。

おやすみ、で終わる手紙がやってきて読めるぬいぐるみという感じ

セーターに首をうずめて聴いているラジオの声を暖炉みたいに

これも聴いてみる?を聴いていて外の流れる町に春をみている

明日からは最寄りではない駅前で買った明日のパンあたたかい

ベランダに夜を見にいく飲みものを誰かが買っていく音の夜

 このような歌に描かれているのは取り立てて何ということもない日常の一場面である。最後におやすみと書かれている手紙、セーターに首を埋めて聴くラジオ、人に勧められてイヤホンで聴く曲、駅前で買ったパン、自販機で誰かが飲み物を買う音。いずれも特筆すべき大きな出来事ではない。私たち一般の人間の日常は、取り立てて言うほどのこともない小さな出来事の連続だ。岡野はそれをひとつひとつ丁寧に拾い上げて、ほらと読者に差し出すのである。

 差し出し方に工夫があることは言うまでもない。一首目では、「手紙が届いて」ではなく「やってきて」という擬人化と、「読めるぬいぐるみ」という喩と擬動物化が施されている。結句の「感じ」も話し言葉的でやわらかい。二首目には「暖炉みたいに」が喩で、「ラジオの声を暖炉みたいに」が倒置されている。三首目は会話体で始まり、「これも聴いてみる?を聴いていて」に大胆な省略がされている。本来ならば「『これも聴いてみる?』と薦められた曲を聴いていて」だろう。「外の流れる町」にも軽い詩的圧縮がある。四首目では「明日からは」と「明日のパン」の対比が眼目だ。作中の〈私〉は引っ越すので、今まで駅前の店でパンを買っていた最寄り駅は最寄り駅でなくなる。もうこの店でパンを買うこともないかもしれない。そこに軽い別れの寂しさがある。五首目、ベランダに出るのは洗濯物を干すためか、何かを見るためだ。「夜を見にいく」ことはふつうはしない。ふつうはしないことを作中の〈私〉がしているのは、心の中に何かが溜まっているからである。近くに設置されている自販機で誰かが飲み物を買う「ガチャン」という音がする。結句の「音の夜」にも軽い詩的転倒が感じられる。

 このように岡野の短歌には喩や詩的圧縮などの修辞が施されているのだが、喩の跳躍距離や詩的圧縮率がほど良く押さえられていて、一般読者を置いてきぼりにすることがない。歌人に限らず芸術家は一般に、独自の境地を追究するあまり難解な作品を作ることがある。

春三月リトマス苔に雪ふって小鳥のまいた諷刺のいたみ

                  加藤克巳『球体』

驛長愕くなかれ睦月の無蓋貨車處女をとめひしめきはこばるるとも

                     塚元邦雄『詩歌變』

中空ふかくナイフ附きの梨のまま

          安井浩司『四大にあらず』

 いずれ劣らず高踏的な作品で、読者の安直な解読を峻拒する。このような作品は読者を選ぶ。このような極北と比較するのも申し訳ないが、これに較べて岡野の詩的修辞は読者を置き去りにすることがない。『サイレンと犀』のあとがきで岡野は、歌集を世に送るのは「自分が『忘れたくない』と思った何かを、見知らぬ誰かにも伝えたいという願いからだと思う」と書いている。また『音楽』の帯には「わずかにでも感情を動かした時間と光景」と書かれている。岡野の短歌が多くの読者に届くのは、岡野がこのようなスタンスから作品を作っているからだろう。

当時まだ昭和を知っていた犬と平成の雪をはしゃいだ写真

音楽は水だと思っているひとに教えてもらう美しい水

夜のもうほとんど暗いほとんどを拒んで湾岸線のオレンジ

イヤフォンを外す 目だけでは真夏だと信じてしまう雲を見つけて

かごの影きれいで自転車をとめる春より春な冬のまひるに

だいどこ、と呼ぶ祖母が立つときにだけシンクにとどく夕焼けがある

交差点の小雨を夜に光らせて市役所前のうつくしい右折

犬の顔に虹が架かって辿ったらとうふ屋さんのおとなしい水

 岡野は犬と音楽が好きなようで、犬と音楽を詠んだ歌が多くある。一首目はもうこの世にいない愛犬を詠んだ歌。二首目は集中屈指の歌で歌意の説明は不要である。五首目の歌も好きだ。六首目は岡野の代表歌にしてもよい。

 実は岡野の短歌の特徴のひとつである「話し言葉性」についても触れようと考えていたのだが、長くなったので別の機会に譲ることにする。