第369回 中井スピカ『ネクタリン』

二塁手になるはずだったマスターがシェーカーを振る腕の残像

中井スピカ『ネクタリン』

 おもしろい歌だ。シェーカーを振っているのはバーのマスターだろう。白いワイシャツに黒いベストに蝶ネクタイあたりが定番の服装だ。高校野球の選手で甲子園にまで行き、将来はプロの野球選手をめざしていたが、怪我でもしたのか願いは叶わず、今はバーのマスターをしている。しかしシェーカーを振る目にも留まらぬ腕の動きに、かつての球児の片鱗が残っているという歌である。「残像」は修辞の誇張法だが、球児の姿とマスターの姿が二重写しになる効果も認められる。歌の背後に人生のドラマがある。

 中井スピカは1975年生まれの歌人で、「塔」所属。2022年の第33回歌壇賞を「空であって窓辺」で受賞している。『ネクタリン』は受賞作を含む第一歌集。東直子、江戸雪、山下洋が栞文を寄せている。

グリーンとだけ呼ばれてる受付のグリーン三つに水を与える

北浜のビル群滲む川面にはブラックバスの背がひるがえる

退職希望慰留失敗8ポイントぐらいのフォントで隅に小さく

なかもずと千里中央往復し海溝のごとき睡眠をとる

もうあいつ辞めさせろという声響く向かいで書類の端を合わせる

 歌集の冒頭近くから引いた職場詠である。「塔」は遠くアララギの系譜に連なる結社なので、あまり〈コトバ派〉の歌人はおらず〈人生派〉が大半を占めている。中井もその一人で歌は人生にかなり近い。

 中井の文体は多少の文語(古語)が混じるものの、大部分は口語(現代文章語)である。口語で短歌を作る際の問題点は二つあって、一つは文末処理、もう一つは助詞だ。ランダムに選んだつもりだが、気づいてみれば上の五首中四首が動詞の終止形で終わっている。

 横道に逸れるが、終止形であって現在形ではない。日本語にはフランス語のような現在形がない。フランス語では (1) の現在形は習慣的現在も、今の現在も表す。

 (1) Pierre prend une douche. ピエールはシャワーを浴びる/ 浴びている。

英語では、状態動詞の現在形は今の現在を表すが、運動動詞の現在形は習慣的現在しか表せない。

 (2) Peter is sick. ビーターは病気だ。(状態動詞)

 (3) Peter takes a shower (every morning). 

   ピーターは(毎朝)シャワーを浴びる。(運動動詞)

 今現在を表すには進行形にしなくてはならない。

 (4) Peter is taking a shower.  ピーターはシャワーを浴びている。

 日本語は感覚動詞 (5) 、思考動詞 (6) 、自発のレル・ラレル (7)や、状態動詞 (8)の終止形は今の現在を表す。

 (5) 肩が痛い。

 (6) 私もそう思う。

 (7) 春の訪れが感じられる。

 (8) 机の上に猫がいる。

 しかし動詞の大部分を占める運動動詞の終止形は、これから起きることを表し、本当の現在を表すことができない。

 (9) 太郎は東京に行く。

 このため上に引いた歌の一首目「水を与える」は、これから与えるという未来の出来事か、いつも与えることにしているという習慣的現在の意味になり、今起きていることという出来事感が薄い。

 そう思って集中を探してみると、文語の助動詞を使った歌がいくつかある。

台風の逸れたあしたにユトリロの巡回展は幕を開けたり

歩道橋から見下ろせば誰も誰も虚ろな制服揺らしておりぬ

中庭を覗けば客は入れ代わり同じラム肉焼いて食いおり

 一首目は完了の助動詞「たり」、二首目も完了の「ぬ」を使って、過去・完了を表している。また三首目は補助動詞「おり」を使って動作が進行中であることを表している。どうやら中井は出来事が過去や完了の場合、意識的に文語の助動詞を使っているようだ。口語ではしにくいことを感じているのだろう。

 口語の二つ目の問題は助詞である。文語は漢文脈の影響もあって、助詞を使わないことがよくある。特に主題の「は」、主格の「が」はあまり使わない。

 昔、男ありけり。

 綸言汗のごとし。

 文語が基本の俳句も同様である。

靑嵐過ぎてなんだか小さき家  野口る理

帯解いて五体崩るる鰯雲  山田露結

 これとは逆に口語では助詞を省くといかにも省いた感が強くなる。上の四首目「なかもずと千里中央往復し海溝のごとき睡眠をとる」では、「なかもずと千里中央[を]往復し」が本来であり、音数合わせとわかる。「ごとき」という文語を使っているのでなおさらだ。やはり口語短歌の問題は助詞と助動詞に集約されるようだ。

 長くなったが中井の短歌に戻る。さきほど引いたのは職場詠だが、それに限らず中井の歌の素材は、日々の暮らしでふと感じる違和感や居心地の悪さが中心である。

代わりなら幾らでもいて赤々と脚入れかえてゆくフラミンゴ

陰口を拒めないままテーブルのアクアパッツァが冷めきっている

石膏のピエタみたいに湯に浸かる婚活っていう略語の致死量

イランイラン部屋に香らせ閉じこもる世界と折り合えない秋の縁

がむしゃらに自分が嫌い五十枚一気につらぬく穴あけパンチ

 一首目、自分の仕事の代わりならいくらでもいるという淋しさが、左右の立ち脚を交互に入れ替えるフラミンゴに投影されている。二首目は女友達とのランチの風景だろう。友達が誰かの陰口をきいていて、無視することもできないのでいやいや付き合っている。三首目、ピエタは死んだキリストを膝に抱く聖母マリアの悲嘆の図である。そんなピエタに喩えるくらいだから、作中の〈私〉は婚活に相当疲れているのだろう。四首目のイランイランはタガログ語で「花の中の花」という意味だそうだ。強い香りを持つ。その香りを漂わせた部屋に閉じこもるほどの出来事があったのだろう。五首目のような威勢の良い歌もある。穴あけパンチで五十枚の紙に穴を空けるのは相当な力がいる。

 集中で目を引くのは母との関係を詠んだ歌である。

胃に肺に土足で踏み込む母がいてそこにマティスの絵などを飾る

別々の準急に乗っているようにパラレルのまま母さん、またね

スプーンをすぐにスプーンとわからない母が自分を置き忘れそう

IHの薄さばかりを繰り返す母に教える湯の沸かし方

母はもうお金を認識できなくてエッジの効いた自由を暮らす

 近ごろは「毒親」とか「毒母」という言葉もあるようだが、作者と母親との関係はなかなか微妙なようだ。親は最も近い肉親であるだけに、距離の取り方が難しいこともある。親子だからといって、性格が合うとは限らない。しかし病を得て認知症の症状が出た母を見る眼差しは、それまでとは少し異なるようにも感じられる。金銭の観念を失った母親を「エッジの効いた自由」と表現するのも新しい。

 歌集後半で作者はパートナーとなる人と出会い、やがて一緒に暮らすようになり結婚する。

唇の色もそれぞれ違うこと君に言いつつコーラル選ぶ

ふたりでもふたりの孤独 たまご二個スジとちくわは一つと頼む

イの音で始まり終わる君の名を呼べば形は笑う口もの

帰る場所をなくしてふたり顔を寄せ洗濯機の配置を話し合う

七回がダブルプレーで終わるころ婚姻届の判子が乾く

 おでんの注文や洗濯機の配置などに生活感が漂う。「ああやっと親の戸籍を去ってゆく私に夏の逆光よあれ」という歌に作者の実感が溢れている。

なめされて表紙となったヤギ達が最後に鳴いた夏のくさはら

天辺へゆけば鳥にも届くだろう時を刻んで鳴るハイハット

遺伝子が引き継がれずに消えるとき遙か砂地でウミガメ孵る

少年と呼ばれてみたい夏の日の膝のかさぶたまためくっては

秋の花ひとつピアノに閉じこめてそれからずっと雨の木曜

逞しきグラファイトその翼持ちカラスが天にとても近い日

 付箋の付いた歌を引いた。こう並べてみて気が付いたが、どうやら私は眼前の現実そのものよりも、それを起点として遠くに想いを飛ばす歌が好きなようだ。歌の中に時間的あるいは空間的な広がりがあり、私たちが生きるこの世界の広さが感じられるからだろう。それは私の個人的な好みである。本歌集には現実にぶつかり、現実にぶつけるタイプの歌が多いが、それもまた作者の好みである。