第88回 キリンの歌 Part 2

屋根高き春の麒麟舎、折りたたみきかぬきりんを睡らすために
               杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
 小池光『うたの動物記』(日本経済新聞出版社 2011年)が出版された。小池が日本経済新聞に連載したコラムを集めたものである。小池にはすでに産経新聞の連載コラムを集めた『現代歌まくら』(五柳書院 1997年)があり、こちらはわが枕頭の書となっている。『うたの動物記』の出版もまことに喜ばしい。私は三月書房で買い求めたが、あとで京大生協のブックショップにも並んでいるのを見つけて驚いた。
 新聞のコラムには厳しい字数制限がある。しかも連載だから原稿を落とすわけにはいかない。少ない行数で読者を引きつける瞬発力と、長期間にわたって書き続ける持続力という相矛盾する能力が要求される。だから向き不向きがあり、向かない人というのもいると思うのだが、小池はもちろん向いている人である。無駄な装飾を削ぎ落とした文体で、一気に対象の本質に迫ったり、意外な小道に読者を誘う筆致は、もはや名人級と言ってもよかろう。小池に導かれて歌の世界をうろうろと彷徨うのは他では得難い快楽である。
 本コラムの前身「今週の短歌」2005年6月の「キリンの歌」で、キリンはいつごろ日本に伝来したのだろうかと書いたが、『うたの動物記』に答えがあった。なんと明治40年 (1907年) のことだという。ラクダや象などよりもはるかに遅いのである。年代から考えて樋口一葉も正岡子規もキリンを見ていないという。さらに驚くのはその和名の由来で、ジラフとして伝来した動物に和名を付けるときに、伝説上の生物である麒麟になぞらえた中国の故事を思い出して、当時の上野動物園長が命名したという。あの動物をキリンと呼ぶのは日本と韓国だけらしい。この来歴の故にキリンは昔の和歌に登場することはなく、完全に近代短歌の歌まくらとなっているわけである。2005年に書いたコラム以来、手帳にキリンの歌が溜まってきたので、「キリンの歌 part 2」を書いてみたい。
 動物に限らず短歌に登場するすべてのアイテムは、意味から無垢であることはない。万葉の昔から短詩型文学は寄物陳思を型としてきた。すなわち物に寄せて思いを述べるのである。したがって短歌に詠まれたアイテムには、本来の存在に加えて意味という負荷がかかっている。その負荷の多くは作者の心情の外的投影である。寄物陳思のためにどのようなアイテムが選ばれるかは、そのアイテムの顕著な特徴に依存する。この顕著な特徴を最近の言語学では認知的プロファイリングにおける際立ち (saliency)と呼ぶ。これを逆方向にたどると、私たち読者は短歌に詠まれたアイテムの際立ちに着目し、そこから陳思すなわち作者の心情へと遡行する読みを行うことになる。
 キリンの際立ちがその異常な首の長さにあることは衆目の一致するところだろう。このため短歌に詠まれたキリンでは、その首がポイントとなることが多い。杉崎の掲出歌でも動物園のキリン舎の屋根の高さに着目して、「折りたたみきかぬ」とユーモアを交えて表現している。
 次にあげる歌でもやはり首の長さが焦点化されている。
夏の風キリンの首を降りてきて誰からも遠くいたき昼なり
                   梅内美華子『若月祭』
谷中より風ながれゆく晩夏おそなつのキリンをみあぐ夕暮れにけり
                    小高賢『耳の伝説』
いづへよりくるしく空の垂れ来しや麒麟ひつそり立ちあがりたり
             阪森郁代『ランボオ連れて風の中』
あをぞらの加減を鼻でふれてみてきりんはけふも斑のもやう
                 山崎郁子『麒麟の休日』
 梅内の歌でキリンの首は、夏の爽やかな風が吹き降りてくる通路として捉えられており、肯定的な把握である。下句の「誰からも遠くいたき昼なり」の若者に特有の愁いが、それに少しの翳りを加えている。小高の歌には「谷中」とあるので、これは上野動物園のキリン。梅内の歌と同じく季節は夏であり、爽やかな印象を残す。阪森の歌ではキリンが立ち上がる動作を空が垂れて来ることへの反応として描いている点がユニーク。「キリンが立ち上がる」が寄物で、「くるしく空の垂れ来しや」が陳思であり、首の長さにネガティヴな意味を付加している。山崎の歌はおそらくキリンを最も肯定的に詠んだ歌のひとつ。首の長さゆえ青空に触れることができるという特権を与えており、80年代の時代の明るさを感じさせる。ちなみに山崎の歌集題名は麒麟を冠しているが、蒔田さくら子にも『さびしき麒麟』という歌集がある。
麒麟この異形のものがゆつくりと首めぐらしてわれを見おろす
                 蒔田さくら子『さびしき麒麟』
どこに立ちてもこのにつぽんの風景をはみ出してしまふあはれ麒麟は
 次の歌は首の長さゆえキリンが前脚を大きく開いて首を傾けるという独特の姿勢に着目した歌である。
水飲むとあをあをと深き首垂れてキリンがかたむく夕べの水へ
                     川野里子『青鯨』
両脚をひらきておのれ身を低め地のものを食むときの麒麟よ
                    柏原千恵子『彼方』
 上に引用した蒔田の歌にも言えることだが、なぜかキリンは悲劇性において捉えられることが多いようだ。それは遠くアフリカのサバンナから運ばれて、動物園で一生を送るという理由のみによるものではなかろう。それならライオンもトラもカバも同じことだからである。また夕暮れの情景において詠われることも多い。
楠若葉すでに夕映 屋上にわれはキリンの視野を寂しむ
                 一ノ関忠人『群鳥』
キリン舎にキリンは帰り夕暮れの泥濘に黒きキリンの足跡
               三井修『アステカの王』
横顔のきりんの睫毛長くして空の中にて痛くまたたく
              前田康子『ねむそうな木』
分節はいたく苦しもゆるやかにキリンの舌が枝にからまる
               加藤治郎『ハレアカラ』
人群れて白き階段登りゆく 空にキリンの首折れている                      嵯峨直樹『神の翼』
 一ノ関の歌では、一人屋上に来て、この高みにいるのが自分だけであることをキリンの視野に投影しており、強く孤独が感じられる。三井の歌では「キリン」が3度出て来ることが注目される。しかも詠まれているのは足跡であり、キリンは姿を消しているのである。字数の限られた短詩型文学では語の重複を嫌うが、この歌では「キリン」を3度反復することによって、かえって不在のキリンを現前させている。前田の歌で焦点化されているのはキリンの睫毛で、大事よりは小事、全体よりは細部という短歌の生理を遺憾なく発揮している。長い睫毛を「痛くまたたく」と表現するところに、キリンの悲劇性に寄せる思いが感じられる。加藤の歌の「分節」はarticulationの和訳なので、キリンの長い首のつらなる関節を指している。「いたく苦しも」という表現のなかにキリンの苦しみが滲み出ている。嵯峨の歌では象徴的表現ながらはっきりとキリンの首が折れたとされていて、やはり長い首が悲劇的な見立てに関係していることがわかるだろう。
 キリンをこれ以外の相のもとに捉えた歌も少なからずある。
半信のダーウィンの本中空へ伸びる麒麟の黒長き舌
              大野道夫『秋階段』
子の運ぶ幾何難問をあざやかに解くわれ一夜かぎりの麒麟
                  小高賢『太郎阪』
睡りゐる麒麟の夢はその首の高みにあらむあけぼのの月
                   大塚寅彦『声』
ひいやりと動くキリンの脚つきは君と震わす音叉のように
            野口あや子「短歌研究 2008.3」
一日の終わりに首を傾けて麒麟は夏の動力降ろす
      小島なお『サリンジャーは死んでしまった』
 大野の歌は相当に知的な内容を含んでいる。この歌はダーウィン進化論の自然淘汰説への懐疑がベースになっているが、その陰にあるラマルクの進化論がキリンと結びつく。ラマルクは用不用説を唱え、生物のよく使われる器官が発達し、その獲得形質が子に遺伝するとした。キリンはよくその事例としてあげられる動物である。高い木の葉を食べようとして首が長くなったという説明は子供にもわかりやすいが、現代ではダーウィン説が優勢でラマルク説は劣勢にある。小高の歌のキリンは動物園のキリンではなく、伝説の神獣の方だろう。一夜限りの英雄となった父の姿で、同じ作者の「ポール・ニザンなんていうから笑われる娘のペディキュアはしろがねの星」という歌と並べると味わいが増す。大塚はキリンの首の長さを天へと向かう高さと肯定的に捉えている。キリンはどんな夢を見るのだろうか。最後の2首はとびきり若い歌人の歌。野口の歌ではキリンの細長い2本の脚が音叉に喩えられている。固有振動数の近い2台の音叉を近づけると共振を起こす。このため短歌の中で音叉は恋人との共鳴の喩としてよく用いられる。野口の歌もその系譜につらなる。小島の歌はキリンをクレーンに喩えたものだろう。クレーンのような無機物をキリンのような生物に喩える見立ての比喩は多いが、その逆は少ない。それを敢えて行うのは、キリンにどこかロボットめいたところがあるからだろうか。
 最後に極めつけのキリンの歌を2首あげておこう。
思想とやはかなきものを音たててああゆるやかにキリンは歩む
                    小池光『廃駅』
あきかぜの中にきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり
                  高野公彦『汽水の光』
 『廃駅』は小池の第2歌集で、『汽水の光』は高野の第1歌集だが、奇しくもどちらもも35歳の年に上梓されている。この年齢が上の2首に苦みと翳りを付与していることはまちがいない。小池の歌で詠まれているのは動物園の高い柵のなかを歩むキリンだが、歌の眼目は思想の虚しさを噛みしめながらキリンを眺めている〈私〉である。中年にならないとこういう歌は作れない。高野の歌は前回の「きりんの歌」でも引用したが、キリンの歌と言えばこれが思い浮かんでしまうので再掲する。〈私〉を「暗きかたまり」と認識させるのがキリンであるところに選択の妙があり、これは動かない。どちらの歌にも「ああ」という詠嘆の間投詞が用いられていることもおもしろい。
 これからの若手歌人がどのようなキリンの歌を見せてくれるのかも楽しみだ。