もう立秋を過ぎたので、暦の上では秋だから、歌人も秋の装いを整えなくてはならないのだろうが、それは暦の上だけのことである。京都では8月16日の大文字の送り火が終わると、夏がこれで終わったと言い合う習わしだが、まだ日中は35度を越える暑さである。というわけで、今回は夏の歌を取り上げてみることにする。
通り雨たちまちすぎてあさがほ
紺のほとりに髪洗ひおり
辺見じゅん
これは盛夏ではなく初夏の歌だろう。歌全体に漲る爽やかさは、けだるい午後の盛夏ではなく、爽快な朝を持つ初夏の印象が強い。朝顔の紺色が洗っている髪に移るかのごとくである。
東京の下町には路地に朝顔が多い。京都では絶えて見られない習慣である。朝顔は突然変異が起きやすく、さまざまな色と形を楽しむに好適なのだという。外来種のヘブンリー・ブルーは、まるで造花のようにまっ青な花を一日中咲かせており、しかも9月末ころまで花が見られる。歌に詠まれた花にまつわる季節感も、今昔の感がある。
ひろしまと書けばすなわちその文字燃ゆ
野田 誠
もともと8月の盂蘭盆は祖先の霊を迎える行事であり、夏は死者の記憶と結びついている。山口県の三隅町という町に住んでいた私の祖父が亡くなったのは、ちょうど盂蘭盆の時期であった。通夜の途中に表に出ると、道から川に向かって点々と松明が灯っており、祖霊を迎える火に見送られて祖父の霊が始源に帰って行くのかと思った。8月は原爆と終戦記念日の月であり、夏は死者を思う季節なのである。掲載句は一度読むと忘れることができない句。書くだけでその文字がめらめらと燃え上がるほど、その記憶は鮮烈である。
にくしみよかなしみよいまゆうやみを
しろき夏衣(なつい)のかぜのはらみよ
村木道彦
5・7・5・7・7の定型を守っているのだが、どうしても破調の歌に見えてしまう不思議な歌である。「にくしみ」「かなしみ」「ゆうやみ」「かぜのはらみ」と、「み」の音でたたみかけるようなリズムを作っている。内容もよくわからない不思議な歌だが、白い夏服が風をはらんでいるというのは、美しい光景である。この場合、どうしても女性の白いワンピースでなくてはならない。ウエストには薄いブルーのベルトがいいだろう。ああ、しかし夏服という言葉も死語になってしまった。街を行く若者は、おしなべてストリート・ファッションで、カーゴパンツにTシャツか、タンクトップかカミソールである。白いワンピースに麦藁帽子という服装は、もう回想のなかにしか存在しない。タンクトップやカミソールでは、風ははらまないのだ。
あれは火だと忘れるほどに冷酷に
みどりが散ってゆきたる花火
井辻朱美
夏の花火を詠んだ歌は多い。花火はたいていの場合、華やかさとはかなさの両面をもつものとして把握される。試みに『岩波現代短歌辞典』の「花火」の項を引くと、次のような歌が載っている。
音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われている 中城ふみ子
ゆがみたる花火たちまち拭ふとも無傷の空となることはなし 斎藤 史
くらぐらと赤大輪の花火散り忘れむことを強く忘れよ 小池 光
乳ガンで若くして死んだ中城の歌には、華やかなるべき花火から疎外された自身の生がある。斎藤の歌は、花火を空につけられた傷と見る特異な感覚がある。斎藤の歩んだ人生の無縁ではなかろう。小池の歌は、一瞬の花火と長の記憶とを、二重の否定で結びつけているところに、力強さが感じられる。
落葉を重ねるようにシャツ脱げば
雨の残香部屋中に満ちる
天道なお
作者は『短歌研究』800号記念企画「うたう作品賞」に入選した若い歌人。タイに旅行したときの連作のなかの一首である。この入選で注目され、天野慶、脇川飛鳥とともに、携帯短歌「テノヒラタンカ」に参加している。いわゆる「マスノ一派」の歌人である。ホームページは http://tenblo.seesaa.net/
熱帯地方の夏の午後に来るスコールの雨だろう。その雨に濡れたシャツから、雨の匂いがする。こういう感覚的な短歌に私は弱いのである。「濡れた髪拭わぬままに横たわる夜半の憂いは水の香帯びて」もよい。
暑ければ夕方ちらと思ふのみ
用あらば文たまへ青(ブルウ)の
紀野 恵
徳島の姫・紀野には夏の名歌が多い。けだるい夏の午後には、好きな男のことを考えるのさえおっくうである。少し涼しくなった夕方に、ちらっと考えるだけである。用があれば手紙をくれという、実に高飛車な女性の態度だが、これが紀野の基本的なトーンである。「青」に「ブルウ」とルビを振るのだが、これは英語のblueでなく、フランス語のbleuでなくてはなるまい。
紀野には夏の歌が多いので、もう一首。
夏の水玻璃にあふれてあふことの
希れなる人に蜜を手渡す
紀野 恵
玻璃に溢れる冷水を思い浮かべるだけで消夏になろう。玻璃の器は江戸切り子か、はたまたラリックのアール・ヌーポーの器か。そこに満たす水は、どうしても北山の奥、龍神の住まう貴船の水源の水でなくてはならぬ。
通り雨たちまちすぎてあさがほ
紺のほとりに髪洗ひおり
辺見じゅん
これは盛夏ではなく初夏の歌だろう。歌全体に漲る爽やかさは、けだるい午後の盛夏ではなく、爽快な朝を持つ初夏の印象が強い。朝顔の紺色が洗っている髪に移るかのごとくである。
東京の下町には路地に朝顔が多い。京都では絶えて見られない習慣である。朝顔は突然変異が起きやすく、さまざまな色と形を楽しむに好適なのだという。外来種のヘブンリー・ブルーは、まるで造花のようにまっ青な花を一日中咲かせており、しかも9月末ころまで花が見られる。歌に詠まれた花にまつわる季節感も、今昔の感がある。
ひろしまと書けばすなわちその文字燃ゆ
野田 誠
もともと8月の盂蘭盆は祖先の霊を迎える行事であり、夏は死者の記憶と結びついている。山口県の三隅町という町に住んでいた私の祖父が亡くなったのは、ちょうど盂蘭盆の時期であった。通夜の途中に表に出ると、道から川に向かって点々と松明が灯っており、祖霊を迎える火に見送られて祖父の霊が始源に帰って行くのかと思った。8月は原爆と終戦記念日の月であり、夏は死者を思う季節なのである。掲載句は一度読むと忘れることができない句。書くだけでその文字がめらめらと燃え上がるほど、その記憶は鮮烈である。
にくしみよかなしみよいまゆうやみを
しろき夏衣(なつい)のかぜのはらみよ
村木道彦
5・7・5・7・7の定型を守っているのだが、どうしても破調の歌に見えてしまう不思議な歌である。「にくしみ」「かなしみ」「ゆうやみ」「かぜのはらみ」と、「み」の音でたたみかけるようなリズムを作っている。内容もよくわからない不思議な歌だが、白い夏服が風をはらんでいるというのは、美しい光景である。この場合、どうしても女性の白いワンピースでなくてはならない。ウエストには薄いブルーのベルトがいいだろう。ああ、しかし夏服という言葉も死語になってしまった。街を行く若者は、おしなべてストリート・ファッションで、カーゴパンツにTシャツか、タンクトップかカミソールである。白いワンピースに麦藁帽子という服装は、もう回想のなかにしか存在しない。タンクトップやカミソールでは、風ははらまないのだ。
あれは火だと忘れるほどに冷酷に
みどりが散ってゆきたる花火
井辻朱美
夏の花火を詠んだ歌は多い。花火はたいていの場合、華やかさとはかなさの両面をもつものとして把握される。試みに『岩波現代短歌辞典』の「花火」の項を引くと、次のような歌が載っている。
音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われている 中城ふみ子
ゆがみたる花火たちまち拭ふとも無傷の空となることはなし 斎藤 史
くらぐらと赤大輪の花火散り忘れむことを強く忘れよ 小池 光
乳ガンで若くして死んだ中城の歌には、華やかなるべき花火から疎外された自身の生がある。斎藤の歌は、花火を空につけられた傷と見る特異な感覚がある。斎藤の歩んだ人生の無縁ではなかろう。小池の歌は、一瞬の花火と長の記憶とを、二重の否定で結びつけているところに、力強さが感じられる。
落葉を重ねるようにシャツ脱げば
雨の残香部屋中に満ちる
天道なお
作者は『短歌研究』800号記念企画「うたう作品賞」に入選した若い歌人。タイに旅行したときの連作のなかの一首である。この入選で注目され、天野慶、脇川飛鳥とともに、携帯短歌「テノヒラタンカ」に参加している。いわゆる「マスノ一派」の歌人である。ホームページは http://tenblo.seesaa.net/
熱帯地方の夏の午後に来るスコールの雨だろう。その雨に濡れたシャツから、雨の匂いがする。こういう感覚的な短歌に私は弱いのである。「濡れた髪拭わぬままに横たわる夜半の憂いは水の香帯びて」もよい。
暑ければ夕方ちらと思ふのみ
用あらば文たまへ青(ブルウ)の
紀野 恵
徳島の姫・紀野には夏の名歌が多い。けだるい夏の午後には、好きな男のことを考えるのさえおっくうである。少し涼しくなった夕方に、ちらっと考えるだけである。用があれば手紙をくれという、実に高飛車な女性の態度だが、これが紀野の基本的なトーンである。「青」に「ブルウ」とルビを振るのだが、これは英語のblueでなく、フランス語のbleuでなくてはなるまい。
紀野には夏の歌が多いので、もう一首。
夏の水玻璃にあふれてあふことの
希れなる人に蜜を手渡す
紀野 恵
玻璃に溢れる冷水を思い浮かべるだけで消夏になろう。玻璃の器は江戸切り子か、はたまたラリックのアール・ヌーポーの器か。そこに満たす水は、どうしても北山の奥、龍神の住まう貴船の水源の水でなくてはならぬ。