思ふまどろみは水の如かれ
高橋睦郎
高橋睦郎は現代日本を代表する詩人である。しかし、彼は中学生の頃から俳句と短歌を作る、九州在住の投稿少年だった。このあたり、津軽の地で俳句と短歌に明け暮れる高校生だった寺山修司と似ていなくもない。小林恭二は『俳句という遊び』(岩波新書)のなかで、現代詩の生みの親となった詩人たちには、年少の頃、句作か作歌の洗礼を受けているという共通点があると指摘している。それが、現代詩の特徴である吃音的性格を決定したのではないかという見方にはギクッとするものがある。
その指摘の当否はさておき、高橋睦郎にはいくつかの句集と歌集があるのだが、そのほとんどが贈呈用の僅少部数私家版なので、なかなか入手することができない。しかし、句歌集『稽古飲食』が昭和62年に第39回読売文学賞を受賞したのをきっかけに、不識書院から普及版が出版され、多くの人の目に触れるようになった。掲載歌も同じ句歌集からである。前半は句集、後半は歌集という凝った構成の句歌集であるが、前半の俳句と後半の短歌の醸し出す世界がまったくちがうのがおもしろい。
前半の「稽古」に収録された俳句が描くのは次のような世界である。
花のなき床には飾れ炭二三
双六を
振りふりて上がれば京や雪ならん
ふるさとは盥に沈着(しづ)く夏のもの
ななくさや落ちて暗渠の水のこゑ
西脇順三郎逝く
茗荷の根濡らしてすゑは忘れ川
捨靴にいとどを飼ふも夢の夢
別の句集からも好きな歌を引いておく。
遅き日のまぼろしなりし水ぐるま 『旧句帖』
みちおしへいくたび逢はば旅はてん 『荒童抄』
調べはあくまで美しくたおやかで、高雅かつ典雅風流の世界である。小林恭二が『俳句という遊び』のなかで、高橋の俳句世界を次のように読み解いている。曰く、「高橋が俳句を作るとき、そこには外的世界に求められるモチーフというものはなく、言葉がすべてである。上質の言葉を発見しそれを研磨しおえた時点で作品は完成する」と。なかなかに鋭い指摘である。こうして作り上げられた俳句の世界は、言葉だけで作り上げられた夢のように美しいものとなる。
しかし、句歌集『稽古飲食』の後半「飲食」(おんじき) になると、その世界は一転し血と殺戮の支配する荒々しいものである。それは、テーマが生き物を殺して体内に摂取するのに他ならない、人の日常の「飲食」だからである。
うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春立つ卵
不死を病み永久(とは)癒ゆる無き汝に獻(まつ)る須臾にし腐(くた)る飯(いひ)と酒(くし)とを
腐(くた)りつつ馨る玉葱少年の指(おゆび)觸れなばおよびしろがね
死に到る食卓遙(はろ)か續きゐていくつかは椅子二脚をそなふ
にがだま胆嚢ひとつ肉の闇深く蔵せば歡語は盡きず
どうやら高橋が捉えた飲食のテーマとは、竹林で賢人が飲みかつ食らいつつ歓談する類のさわやかな一夜ではなく、体内の闇に肉を取り込む人間の業のごとき営為であるようだ。そこには次のような作者の孤独もまた反映している。
いろくづの腸(わた)の醢(ひしほ)を古猫とあるじのわれと一皿に食ふ
飲食を置きて向き合ふ一人だにあらざれば言ふこは家ならず
短距離走者と長距離走者とでは、走るときに用いる筋肉の質が異なるという。それと同じように、俳句と短歌とでは、同じ短詩形式であっても、言葉を繰り出すときに使う「筋肉」がちがうのだろう。17文字の俳句に比べ、31文字の短歌は文字数が多いぶんだけ、「外的世界に求められるモチーフ」が入り込みやすくなる。このちがいが、「稽古」と「飲食」の世界の質の差となっているのではないだろうか。俳句とちがって、高橋の短歌は、「美しい言葉を発見してそれを磨き上げる」だけでは構成されない過剰を内蔵しているようだ。