024:2003年10月 第5週 黒瀬珂瀾
または、塔の廃墟のかたわらに破船のように眠る青年

わがために塔を、天を突く塔を、
   白き光の降る廃園を

        黒瀬珂瀾『黒耀宮』(ながらみ書房)

 歌集はふつう、ながらみ書房・沖積舎・不識書院・砂子屋書房といった短歌専門の小規模な出版社から出版され、印刷部数も少ないので書店には並ばない。日販・東販といった取次店を通した本の流通経路に乗らないので、その辺の本屋さんで注文しても届かない。これだけ本や雑誌が溢れている現代日本で、多くの人に知られることなくひっそりと流通しており、めったに手に入らないという珍しい種類の本なのである。まるで、代価をもって人に購われることを拒否するかのようだ。

 ところが最近珍事が起きた。歌集が大学生協の書籍売り場に平積みになったのである。これはたいへん珍しいことである。その平積みになったのが、黒瀬珂瀾の『黒耀宮』であった。作者の名前は「くろせ からん」と読む。なぜ大学生協の書籍売り場に平積みになったのかというと、1977年生まれの若い作者が、関西の某国立大学文学部の現役大学院生だからである。

 作者プロフィールによれば、黒瀬は三宅千代が主宰する子供の短歌誌『白い鳥』に参加して短歌を作り始めた、とある。子供の短歌誌などというものがあるとは知らなかった。その後、中部短歌会に所属して、春日井建に師事している。『黒耀宮』は黒瀬の処女歌集で、春日井が跋文を寄せているところは、まずは型どおりと言えよう。しかし、中身はなかなか型どおりというわけにはいかないのである。

 十代の儀礼にかかり死ぬことの近しと思へばわれは楽しも

 血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ

 咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり

 鶸(ひは)のごと青年が銜(くは)へし茱萸(ぐみ)を舌にして奪ふさらに奪はむ

 これらの歌に登場するキーワードを眺めると、どこかデジャ・ヴュを見る思いがする。それは、師の春日井が1960年に上梓した伝説的歌集『未青年』を代表する次のような歌のことである。

 火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて飛ぶ

 火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔を持てり

 童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

 中井英夫は、「紫陽花いろに病む太陽の下、現代の悪を負う少年ジャン・ジュネの歌」と評し、三島由紀夫は「うら若い裸の魂が、すりむけて血を流している」と述べ、「われわれは一人の若い定家をもった」とまで激賞した。春日井の歌の世界が黒瀬の歌に通底していることは、一見して明らかである。「薔薇」「青年」というキーワードから立ち上がる同性愛の耽美的世界への惑溺は両者に共通しており、評者の三島もまたこの系譜に連なることはよく知られている。また、第一首目の「十代の儀礼」は、もちろん三島の名作『午後の曳航』で、世界が無意味であることを証明するために少年たちが行なう殺人儀礼であり、黒瀬はその犠牲となることを願っているのである。このように、黒瀬の詠う短歌の世界は、そそり立つ塔の示す権力への憧れと、同性愛と死への願望に彩られている。

 春日井の『未青年』は、当時の三島を驚喜させるほど十分に衝撃的だったはずだ。それは歌集が出版された1960年という時代を考えなくてはならない。まだビートルズ以前の世界で、若者は黒いズボンと白いワイシャツ以外に着るものを持たなかった時代である。森茉莉が男の同性愛を扱った『恋人たちの森』を書いたのがようやく1962年だが、当時はマイナーな異端的作品と受け取られたはずである。

 しかし、時代は変わった。黒瀬の描く耽美的世界が既視感しか生まないのは、黒瀬のせいではなくむしろ時代のせいだろう。1974年萩尾望都『ポーの一族』、1975年竹宮恵子の『風と木の詩』に始まる少女マンガの同性愛ものは、1978年のJUNE創刊とともに大流行し、俗に「やおい」と呼ばれる一大ジャンルを生んだ。「やおい」とは、「ヤマなし、落ちなし、意味なし」の略語で、物語上の必然性もなく男の同性愛の場面を描く少女マンガをさす。やおい物の氾濫とともに、少なくともメディアの上では男の同性愛はタブーでなくなり、奇妙なことに少女たちの消費の対象となったのである。もちろん、黒瀬がやおいだと言っているのではない。黒瀬が描く世界を受け取る私たちの準備がすでに出来すぎてしまっていて、どうしても「どこかで見た」という既視感が付きまとうということなのである。まるで予行演習しすぎた運動会で、ようやく本番当日を迎えたようなものだ。このよう見方があながち独断でないことは、黒瀬自身の次の歌が示している。

 エドガーとアランのごとき駆け落ちのまねごとに我が八月終る

エドガーとアランは、萩尾望都の連作『ポーの一族』に登場する、不死を運命づけられた吸血鬼の少年である。黒瀬の世界の源泉は、春日井・三島・サドやジル・ド・レだけでなく、萩尾・竹宮・栗本薫なのである。

 耽美的装飾が入念に施された歌よりも、次のような歌の方がむしろ新鮮に心に届くように、私には感じられる。

 ピアノひとつ海に沈むる映画見し夜明けのわれの棺を思ふ

 世界かく美しくある朝焼けを恐れつつわが百合をなげうつ

 水飲みし夢より覚めて渇くとき生死はともに親しき使徒か

 天使魚に与ふる餌の真白くて真白くて君は白きもの欲る

 線路にも終わりがあると知りしより少年の日は漕ぎいだしたり

 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく

 女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ

 これらの歌には上質の抒情があり、青年期の脆い自我と世界の危うい関係を、まるで振動する薄い蝉の羽のように、かそけき微動として私たちの耳に伝えている。短歌にこれ以上のことが望めようか。

 

黒瀬珂瀾のホームページ