029:2003年12月 第2週 女歌

 『女うた、男うた』(リブロポート)は、歌人・道浦母都子と京都教育大学教授(当時)で俳人の坪内稔典が、大阪読売新聞紙上で毎回決まったお題に関する短歌と俳句を取り上げて、短い文章を添えた楽しい読み物である。「海」のお題では、道浦が「海のかなたはなべて戦場二人子に添寝ののちの身を引き起こす」という花山多佳子の歌を、坪内は「しんしんと肺碧きまで海の旅」という篠原鳳作の俳句をあげている。版元のリブロポートが廃業してしまったので絶版になっていたが、平凡社から復刊されたのは喜ばしい。ふたりの対談形式の後書によると、当初は短歌や俳句を通してフェミニスムや女性の問題を考える企画だったらしい。しかし、出来上がったものは全然ちがうものになっていて、タイトルの『女うた、男うた』は羊頭狗肉の感がある。

 男の歌と女の歌とはちがうのだろうか。私にはどうもちがうように思えてならない。そのちがいは日本で女性が置かれてきた社会的立場に由来するという社会学的・フェミニスト的分析ももちろん成り立つだろう。しかし、もっと大きな理由は、男と女の目の付け所がちがうからではないかと思う。

 日本における分子生物学の草分けである慶応大学の渡辺格博士のおもしろいエピソードがある。アメリカ滞在中に、クリック博士と会えることになった。クリックといえば、ワトソンと共同でDNAの分子構造を解明したノーベル賞学者である。渡辺博士は和服で正装した夫人とともに、緊張してクリック博士の自宅に赴いた。クリック博士は思いのほか気さくな人柄で、楽しいひとときを過ごして辞去することになった。お宅を出たところで、夫人がため息をついて「あなたは絶対にノーベル賞なんか取れないわよ」とのたもうたというのである。渡辺博士は驚いて、なぜかと問いただした。その理由は、何とクリック博士が右と左で色のまったく違う不揃いの靴下をはいていたからということだった。つまり、左右で不揃いの靴下をはいて客を迎えても気づかないほど実生活には無頓着で、朝から晩まで学問のことだけを考えているような人間でないと、ノーベル賞なんか受賞できないという意味なのだ。この小話のポイントは、偉大なノーベル賞学者に会えて興奮している渡辺博士には、不揃いな靴下はまったく目に入っておらず、同伴した夫人はバッチリ目に留めていたという点である。女性である夫人にとっては、ノーベル賞学者といえども身なりに少々だらしない子供のような男にしか見えていないということなのだ。男と女のものの見方はかくのごとくちがうのである。

 あなたが女性であったとして、イネドの白のスカートにル・ヴェルソーのピンクのセーター、フェンディのバッグとコクシネルの靴に4°Cのネックレスをつけて彼氏とデートして、翌日自分がどんな服装をしていたかたずねて見られるとよい。男はまったく答えることができない。「ええっと、赤っぽいセーターだったかな」などと答えて怒られるのがおちである。そんなもの見ていないのである。しかるに女性は、彼氏と道を歩いているときでも、向こうから来る若い男のイケメン度をチェックしているばかりか、同性の服装までもしっかり目に収めているのである。

 前振りが長くなってしまった。さて、女歌である。

 空壜をかたっぱしから積みあげるおとこをみている口紅(べに)ひきながら 沖ななも

 男はTシャツか何かを着て、汗をかきながら単純肉体労働をしている。女はたぶん向かいの建物の二階の窓から男を見下ろしている。ただそれだけの光景なのだが、私はこの歌を読んでまいったと思った。山下雅人はこの歌について、「男の不毛な行為と、それをアイロニカルに見据える女のしたたかさ」と評した。「空壜をかたっぱしから積みあげる」男の行為は、男が熱中しがちな、そして女から見れば不毛な行為の象徴である。それは権力闘争であり、出世競争であり、昆虫か切手かミニカーのコレクションであり、壮大な世界理論である。男はこういうことが好きでたまらない。しかしこの不毛の行為にふける男を、女は口紅を引きながらどこか醒めた視線で見下ろしているのである。たぶん、心のなかでは「あんな空壜の山なんか、ひと蹴りで壊してやれるわ」と考えているにちがいない。この微妙な危うい距離感と、斜め30度あたりから見下ろす視線がこの歌のポイントだろう。

 梨をむくペティ・ナイフしろし沈黙のちがひたのしく夫(つま)とわれとゐる 松平盟子

 これはなかなか恐い歌である。夜のリビングで食後の梨をむいている。夫と妻には会話がなく、沈黙があたりを支配している。しかし、夫が黙っている理由と妻が黙っている理由は同じではないのだ。そして妻の方はそのちがいを「楽しい」という。ペティ・ナイフの白い輝きが何を暗示しているのか、あまり考えたくない。一般に男はこのように、家庭内の触れれば放電するような磁場に鈍感である。

「妻」という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの 俵万智
 焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き 

 先日シングル・マザーになったと報じられた俵万智の歌であるが、これも恐い歌だ。ずばり不倫の歌である。どんなに男を愛していても、葬式や墓参などの行事に同行できるのは本妻である。それを妻という立場に安住する「安易」と捉えている。電柱の陰から覗いているような視線がある。また二首目ではどういう理由からか、好きな男の娘と話しているのだが、ここでは男が「焼き肉」や「グラタン」と同列に並べられているところがポイントである。少女にとってグラタンが好物なのと同じように、私にはあなたのお父さんが好物だというわけだ。この割り切り方が小気味よい。

 土砂振りの雨を浴びきて肉体を激しきものと思ひかえしつ 雨宮雅子

 今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりゐき 河野裕子

 雨宮の歌は、突然の雨に遭い、たぶん家まで走って帰って来たのだろう。雨に濡れて冷たいが、走って来たので体はほてっている。そのためふだんは意識しない自分の肉体の激しさを感じたのである。河野の歌は女性の性的な感覚を素直に歌っている。女性の歌には、このように自分の身体感覚を肯定的に表現したものが多い。男はどうも頭でっかちな存在なのか、自分の身体感覚を歌にすることが少ないようだ。それどころか、自分とは何かなどという疑問に突然捉えられて、インドかネパールに肉体をいじめる旅に旅立ってしまうのである。

 すこし私をほうっておいてください ぶあつい水に掌をしずませる  江戸 雪
 うすうすとわたしを平たくうつす窓 街はダリアのように病んでいる

 ライオンの塑像によりそい眠るときわたしはほんの夏草になる  東 直子
 日常は小さな郵便局誰かわたしを呼んでいるよな

 短歌に「私」が現われるとき、それは多かれ少なかれ<虚構の私>であることが多い。寺山修司がまだ存命の母を死んだものとして歌い、いもしない弟を歌うとき、寺山が入念に作り上げたのは演劇的<虚構の私>である。また塚本邦雄がリアリズム短歌で矮小化された「私」を批判したときも、短歌における<私性>の拡大を主張したのである。『岩波現代短歌辞典』の「私性」の項目で、穂村弘が歴史的に跡づけているように、短歌における「私」は近代短歌成立そのものにかかわる問題であった。

 しかるに、上にあげた江戸や東ら現代の女性短歌に歌われた「私」は、このような歴史的桎梏からまったく自由に振る舞っているように見える。この「私」はリアリズム短歌の埃臭い「生活者」としての私からはほど遠く、かといって寺山や塚本がめざしたような芸術的な「虚構の私」でもない。篠弘が「微視的観念の小世界」と呼んだウジウジ男の「内向する私」でもない。特に江戸や東の短歌を読んでいて感じられるのは、「浮遊する私」である。男はデカルト座標のように、固定した視点から世界を眺めることを好む。ところが女性は視点の浮動性により寛容であり、視点の未決定という状態に順応性が高い。江戸や東の短歌に見られるこの「浮遊する私」という感覚は、ひょっとしたら短歌の歴史において初めて登場した新しい「私」なのではないかとすら思えてくるのである。