都市と〈私〉が立ち現れるとき

 一九九一年に吉野の第一歌集『空間和音』が上梓されたとき、歌壇では賛否両論の声が上がったという。批判の急先鋒は藤原龍一郎で、「短歌の言葉に対する葛藤のなさへの不満」を出版記念会で吉野にぶつけている。藤原が槍玉にあげたのは、「ほくほくはやきいも ぽくぽくは木魚 ああ、ぼくたちは啄木が好き」「せっくすをしたいと思う すこしずつ水の季節がやって来るから」といった歌で、慚愧の念に裏打ちされた都会的抒情を身上とする藤原の目からすれば、吉野の歌は言葉と戯れる児戯に見えたのだろう。短歌的抒情を、恋愛・離別・生死などの人生における特別な時間に噴き上がるものと見なすならば、確かに吉野の短歌にはそのような意味での抒情は希薄である。八七年の『サラダ記念日』に始まるライトヴァース論争や、九〇年の荻原裕幸のニューウェーブ宣言を皮切りに、陸続と出版されたライトでポップな短歌の潮流という文脈に、吉野の歌集も位置づけられたのかもしれない。
 しかし、吉野は次のように述べていることに注目しよう。

「われわれはもっと大切にしなければならないと思う。日常。辞書的にいえば、つねひごろ、ふだんといった意味を持つことば。なんだかとても平凡な感じがする。とはいえ、現実の日常はけっして単純ではなく、その水準や相は多様である。この多様な水準や相をていねいに捉えようとする意志が、いま弱まっているのだと思う」
              (「日常と真向かうための」初出『合歓』二二号)

 これは吉野の生活信条であると同時に、短歌論ともなっている。平凡な日常の多様な相をていねいにすくい取ること、そこに見えて来るものがあると吉野は言いたいのである。次の歌はこのようなスタンスから生まれたものと思われる。

腐りたるトマトを捨てし昨日のことふと思い出す地下鉄に乗り  『空間和音』
冷蔵庫の上に一昨日求めたるバナナがバナナの匂いを放つ
自らの重さを思う目覚ましの鳴る十分前にめざめたる時
ぼくの目の高さ、コップに注ぎたる水の高さ そろり揃える

 いずれも詠われているのは日常の瑣事である。腐ったトマトを捨てたことなど、取り立てて歌にするほどのことではない。またバナナがバナナの匂いを放つのは当たり前のことだ。しかしこのような瑣事をすくい上げて、そこに注意のダイヤルを合わせるとき、浮かび上がって来るある確かな手触りが、これらの歌には感じられる。またこの手触りと相関して、手触りを感じ取る〈私〉もまた浮上する。生態心理学の教えるごとく、自己の知覚と環境の知覚は相補的だからである。このことは三首目にとりわけよく感じられる。目覚まし時計が鳴る前に目覚めるというありふれた日常的経験に劇的なものは何もない。しかしこの経験は自分の身体の重さという自己知覚へと意識を送り返すのである。四首目は吉野の方法論をそのまま歌にしたかのようだ。目の高さとコップの水の高さを揃えることによって見えて来るものがある。吉野はそう言いたいようだ。
 『空間和音』にすでに現れているこのような作歌姿勢は、第二歌集『ざわめく卵』に至っていっそう深化の度を増したようだ。モノの形象と都市の風景という新たな要素が加わっているからである。

秋の日のかがやきの中ふかくふかく見えてくるもの東京の辺に 『ざわめく卵』
目の前の裸木の群れゆっくりとわれをあふれて風景となる
人間のかたちとなって泣いている五月もしくは下闇のなか
椅子というかたちを見せているものの影伸びている君の足元
信州ゆ来たる特急わが前にかたちとなれば静止してゆく

 最後の歌に注目しよう。特急が私の前に止まったのではない。私の前に止まったものが特急となるのである。知覚の転倒とも見えるこのような把握の理由は何か。ふだん私たちは、知識と経験により構成された参照枠によって外界を見ている。たとえば公園にはベンチや砂場や水飲み場がある。ちらっと見たものをベンチと認識するとき、私たちはモノの性質や形状を仔細に吟味しているのではなく、公園にあるものはベンチだという参照枠に依存して判断している。多忙な毎日を送る現代の都市生活者であればあるほど、モノの形の前に留まることなく、便利な参照枠による認識でことを済ませている。吉野はこのような参照枠をできるだけ取り払い、形象が立ち現れる瞬間を捉えようとしているのである。同じ態度は右に引いた三首目と四首目にも現れている。このような態度を取ってこそ、東京という都市の周辺にもふかくふかく見えてくるものがあると吉野は言いたいのだ。
 まちづくりに関わる仕事に従事している吉野は、「短詩型と都市は双子の兄弟ではないか」とセレクション歌人『吉野裕之集』のあとがきに書いている。短歌と同様に都市もまた、日常のゆらぎと重層的な時間の堆積の中に立ち現れるものと理解されているのだろう。
 『吉野裕之集』の巻末に『ざわめく卵』以後の歌を集めた「胡桃のこと II」が置かれている。その最後、すなわち『吉野裕之集』全体の掉尾を飾るのが次の歌であることは、意味深いことである。

ゆっくりとやって来るものおそらくはその名を発語せぬままに待つ

 やって来る何かを性急に名付けて参照枠に収めるのではなく、その何かがゆらぎの中を潜り抜けて自ら名を告げるまでじっくりと待つ。これが『ざわめく卵』以降にさらに深化の度を増した吉野の現在のスタンスなのだと思われるのである。


「桜狩」132号、2009年7・8月号掲載