第53回 一ノ関忠人『帰路』

わが居間の鏡にむかひひとり踊る狂へるにあらず狂はざるため
                 一ノ関忠人『帰路』
 時刻は家人の寝静まった深夜だろう。居間の鏡に向かって一人踊る。狂人のごとき振る舞いに見えるが、そうではなく自分を狂気から守るためだという。作者は重病に罹り、いつ終わるとも知れぬ療養生活を余儀なくされている。絶望したり自暴自棄になる時もあろう。そんな時に自らを押し止めるために鏡に向かって踊る踊りは、さぞやひょうげたものにちがいない。集中屈指の鬼気迫る歌である。
 一ノ関忠人は國學院大學に学び岡野弘彦に師事した歌人。『帰路』(2008年 北冬舎)は、『群鳥』『べしみ』に続く第三歌集である。後記によれば、一ノ関は2005年9月に悪性リンパ腫を発症、突然入院を命じられ長い療養生活を送ることになる。『帰路』はこの療養生活のあいだに作られた作品をまとめたものである。題名の『帰路』は、「此ノ生ノ帰路愈茫然タリ」という蘇東坡の詩から取られたもの。いつまでも往路と信じていたら、もう帰路を歩いていたという思いが籠められている。
 療養と短歌といえばすぐに子規が頭に浮かぶが、一ノ関もそのことを意識していて、次のような歌を作っている。
わが病牀六尺の歌頭髪の脱毛始まれば笑ふほかなし
一畳ほどのベッドがわれの栖なりおとろへたれどわれ此処にあり
病牀六尺こそ我が世界のすべてという境遇に心ならずも置かれた作者にとって、歌の持つ意味を改めて噛み締めた日々だったにちがいない。本書には短歌以外に、長歌と独吟による連歌に加え、幼い娘に読み聞かせたと覚しき童話風の散文詩も収録されている。
 一ノ関はもともと万葉集以来の和歌の伝統を踏まえた古格漂う歌を作る歌人だが、悪性リンパ腫という命に関わる病を得たことにより、自分と歌の距離がさらに縮まったのではないかと思われる。「死と短歌は不可分のもの」という短歌観を持つ作者なので、にわかに死が身近に迫るものとして意識されることで、〈私〉と歌が不即不離の関係に立つことになったのであろう。自ら望んだことではないものの、そこに反復することのかなわぬ生の一回性が濃厚に漂うことになったのは事実である。そのような地平から立ち上がる歌はことごとく絶唱である。
右脇よりドレインに抜ける濁り水わが胸に棲む夕やけの色
断崖に立つはわれなり覗き込む淵は色なくぞつと寂しき
点滴の針より落つるひとしづくふたしづく命の水のごとしも
内視鏡に胃の腑さぐられゑづくなりわが秘めしものあばかれゆかむ
やがてこの髪も抜け険しき表情にわが笑むときは子よ近づくな
 病を得たやり場のない怒り、療養の淋しさ、絶望感などを盛る器として、文語定型の持つ力を感じさせる作品である。内なる深淵を覗き込むような歌とならんで、病床からわずかに見える風景を詠んだ歌もある。
きのふよりけふ稲の穂の重く垂れ刈りしほ近し窓に見てをり
新館の屋上に二羽のセキレイが秋の日を浴びきらめきて見ゆ
ベランダの小さき水盤に雀二羽あたり窺ひしばしして去る
やがて太りゆく月しろもなほ寒き姿に青き空わたりをり
杖つきて立ち止まりあふぐ青き空いつもの時間に飛ぶ一機見ゆ
 いずれも情景を素直に詠んだ写実的短歌であり、作者の病気を思わせるような語句は一切ない。にもかかわらずこれらの歌が集中に置かれたとき、心に染み入るような重い意味を持つのはどうしてだろうか。一首目の「きのふよりけふ」により、作者は毎日窓外の稲田を見つめていることがわかる。五首目の「いつもの時間」も作者が毎日同じ空を見ていることを示している。これらはすべて作者が同じ場に縛られていることを暗示する。二首目のセキレイと三首目の雀の歌もまた、作者が狭い空間に縛られていることを表すと言ってよい。たとえふだんから見慣れた光景であっても、自由を制限された境遇から改めて眺めると、そこに自ずから自由への希求の念が込められるのだろう。しかしこれらの短歌の読みが提起するものはそれだけではないようだ。
 『現代短歌の全景 男たちの歌』(1995年 河出書房新社)の座談会で、小池光が「おもむろに夜は明けゆきて阿蘇山にのぼる煙を見ればしづけき」という歌を引いて、このような歌がポンと出されたとき、どのような読みが成立するかと問いかけている。歌意は明らかで歌そのものの中に意味はありそうで実はない。作者の伊藤保が19歳でハンセン病療養所に入所した最初の夜に作った歌だという背景に置かれたとき、全然違う歌が出て来る。それが短歌の内部構造だと小池は言う。何かを受けて返すという構造が短歌の内部論理であり、何かとの落差で詩型が成り立っていると小池は続けている。
 これは長歌に対する反歌として和歌が成立したという歴史的経緯にその深源を求めるべきかもしれない。伊藤の歌の場合、受けるのは自らが置かれた境涯であり、返された歌の写実的風景は受けたものを地とすることで、初めて図として成立するということになろう。上に引いた一ノ関の写実的な歌が、描かれた風景を超えて何かの意味を放射するものとして読むことができるのも、小池の言う「受けて返す」という詩型の構造が発揮されているからと考えられる。
 療養生活でのささやかな喜びを詠んだ歌もまた同じ構造に基づくことは言うまでもない。
アンパンの臍噛みなにかうれしくて妻と語りぬ冬の夜の部屋
心地よくわれは聞くなりコトワザのたぐひ唱ふる子の声のリズム
賜はるはぶんたん表皮の黄色の輝り春よ早く来よ飛ぶやうに来よ
ふつうアンパンの臍を噛んで喜ぶようなことはしない。そんなことが嬉しいのは病気という境遇に置かれているからである。短歌や俳句のような短詩型はその短さゆえに、大きなことを詠みづらく小さなことに向いている。小さなことの喜びが十全に歌われた歌である。
 歌集最初の章は「2005/9/17」と病気の告知を受けた日付のみから成り、作者にとってのこの事実の重みを物語っている。『群鳥』で挽歌に冴えを見せた作者は、本歌集で療養歌に新境地を開いたと言ってよい。一日も早い快癒を願うばかりである。

140:2006年1月 第4週 一ノ関忠人
または、連綿たる和歌の伝統のなかで男の述志を詠う歌

多武峰もみぢしづかに燃ゆるいろ
    たまゆらあそべ父のいのち火

          一ノ関忠人『群鳥』
 掲出歌は「大和國原」と題された連作のなかの一首で、作者が病を得た父親とともに奈良に旅した折りの歌であるが、その後亡くなった父親への鎮魂歌となっている。多武峰は中大兄皇子と藤原鎌足が大化改新の談合をした歴史的場所で、紅葉の名所として知られている。歌枕とまでは言えないにしてもそれに近い。だから「多武峰」に「もみぢ」と続くのは、古典和歌の没我的な共同体的美意識を拒否し、個の発想を重んじた近代短歌のテーゼからすれば、まっさきに批判されるべき陳腐さということになる。作者はもちろんそれを十分に承知したうえでこのように詠っているのであり、ここには短歌定型とは何かという問題に対するひとつの明確な姿勢があると考えてよい。個の浮遊と戯れ、口語とライトヴァースの氾濫を苦々しく思う作者は、あえて時代の趨勢に逆らっているのである。

 一ノ関忠人は1956年(昭和31年)生まれ。中学二年生のときに三島由紀夫の割腹事件があり、残された辞世により短歌という形式を意識するようになったという。國學院大學に学び岡野弘彦に師事し、大学院では折口信夫を研究している。第一歌集『群鳥』(1995年)、第二歌集『べしみ』(2001年)、セレクション歌人シリーズ『一ノ関忠人集』がある。

 その経歴から容易に想像されるように、一ノ関は短歌というものを明治の和歌革新以来100年の歴史を持つものとしてではなく、万葉以来1300年の時間の降り積もった文学形式と見なしている。このため現代歌人のなかにあっては例外的に古格の漂う歌風を持つ。文語定型こそ短歌の本道という信念に基づくものである。しかしその古き器に盛る内容が近代短歌を潜り抜けたテーマとなっていることは言うまでもない。そうでなければ現代において短歌を作る意味がない。現代短歌の作者がややもすれば極私的〈私〉への視野狭窄に陥りがちなのとは異なり、一ノ関の抱えた大きなテーマは「時代」、それも昭和という時代である。『群鳥』はさながら父親への鎮魂歌集の観を呈しているが、一ノ関がここまで父親に拘るのは肉親としての情もさることながら、一ノ関の父親が昭和元年に生まれ昭和という時代の終焉とともに生を終えたという象徴的意味合いを持っているからに他ならない。

 一ノ関が拘泥する主題に添って見てみよう。まず目に付くのは死と踵を接する生への不安と怖れを詠んだ歌群である。

 いのち濃き鶉の胸毛むしりたりあかねさす雲なだるる夕べ

 夕光のまぶしき道におもひをり泥中蓮のくれなゐのいろ

 熟しきつたるぶだうの匂ひわが部屋に充ちたり死者の影さす夕べ

 一番星見つけたる子も死のはうへゆるやかながら歩み近づく

 鶉の生命が反照したような夕焼け、泥にまみれた蓮の紅色、生命の横溢するブドウと死者の影。生は死を前提として成立しており、死は決して生の終着点ではないという認識がここにはある。浄土真宗の宗門改革に命を削った清沢満之の言葉を借りれば、「死もまた我等なり」なのである。

 現代短歌において男歌は述志の歌となる傾向があるが、一ノ関もその例外ではない。心に滾るものを詠んだ次のような歌がある。

 昭和ヒトケタ父より享けし血脈のたかぶりてわれも馬賊たらむか

 ひそかなる動亂ありぬわが卓の柘榴わづかに爆ぜたるのみの

 子の兜あやめにかをる五月闇劇しきものをわれは戀ひをり

 昔むかし戀に死にける男ありきカフェ・カプチーノ咽喉灼く熱さ

 述志はかなきか世紀末越えむとしつつ熟柿のにほひ

 昭和一桁生まれの父の血に大陸に雄飛した馬賊の幻影を見る一首目。夜の食卓にはじけるザクロに密かな動乱を期待する二首目。子の成長を願う端午の節句の武者飾りにまで暗く激しいものを希求する三首目。昔物語に恋に死んだ男を思いつつ、自分はカフェ・カプチーノなどというこ洒落た軟弱な飲み物を飲んでいるという四首目。ここには時代の流れに身を投じて自らの生を燃焼させたいとする強い願いがある。

 がしかしである。現代短歌における述志の歌はことごとく志の不発を詠うよう宿命づけられている。これの世にもはや満州のごとき新天地はなく、革命の幻想も夕映えのかなたに去ったからである。すると次のように声低く我が身を振り返る歌になる。

 臆しつつ生きゐるならむ燻製卵いぶせき黄身に咽喉むせかへる

 多摩川の堰こす水のたぎついろ眞旅するなきわれが見てゐる

 われに似るさが持つ者をはぐくめる妻をひそかに憎みゐるなり

 子をなして流離かなはず橋ゆけば橋の彼岸に石神笑ふ

 退轉と言はばいふべし乳母車押しつつ底ぬけに青き冬空

 武器をとることなき腕に子を抱けり激情はかく馴らされてゆく

 作者は定時制高校の教師となり、結婚し二子を得て家庭人として市井に暮らすことになる。そんな微温的な暮しのなかで燻製卵にむせる一首目。万葉の時代や西行のように眞旅することもなく、通勤電車に揺られて多摩川を越える自分を詠う二首目。自分に似た子孫を残すおののきを詠う三首目。流離の思いにかられつつかなわぬ自分を詠む四首目。自らの境遇を退転と自嘲する五首目。これらはまぎれもなく述志の歌であると同時に、日常のなかでの自己の不完全燃焼を詠う歌であり、その味は獣の肝のように苦い。

 かくして心をはるかな時空に遊ばせて身を燃焼させた人物たちに思いを馳せるとき、歌は挽歌の趣を深くすることになる。

 毛(マオ)と呼ぶ男、長身のゆらぎ立ち晩夏の河の夕暮るるなり

 能登の海にまぢかき砂丘これの世にくるしみし父子の墓うもれ立つ

 さらさらに男さびしき憂國忌夕べ鳥鍋に脂きらめく

 繁り濃き櫻のふる木に縊れたる北村透谷のぶらぶらの屍

 毛沢東を詠んだ一首目は『群鳥』屈指の美しい歌である。「長身のゆらぎ立ち」という身体描写に続く下句の連なりは「晩夏」=「挽歌」の連想をも誘って、革命という理想の色褪せた現代を凝視する。二首目は折口信夫と春洋父子の墓を訪ねる歌で、一ノ関は折口を通じて日本的なるものを学び、自らを「世に馴れぬ国学の徒」と呼んでいる。三首目は美的幻想の中の天皇に殉じた三島由紀夫を詠んだもの。四首目は革命的ロマンチズムを追求し25歳で縊死した透谷である。すでに書いたことだが、一ノ関は三島の残した「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」という辞世に接して短歌という文学形式を意識したというから、印象的な事件だったわけである。高度経済成長と大阪万博に浮かれていた日本人にとって、切腹と辞世などという前近代的制度がひょっこり顔を出した異様な事件であったが、その意味は戦後民主主義と経済成長のなかで深く問われることもなく、一奇人の愚行として忘れ去られた。一ノ関はそれに拘り続けたわけだ。

 一ノ関にとって昭和元年生まれの父親が過去の人ではないのと同様に、昭和という時代もまた容易に総括することを許さない時代なのである。

 ながらへて戰後を生きるくやしさを繰り言として父や老いたる

 ことしの死者おもひ獨り酒に酔ふ昭和六十九年暮れたり

 昭和日本紀 たとへば父の生と死をかたればすなはち戦争におよぶ

 おびただしき血が流れこの百年の日本紀書かれなば記述惨たり

 朕と呼ぶこゑのひびきにひれふして泣きたるや乳の銀縁眼鏡

 抑揚の乏しきこえ聲に帝國の滅びを告げしより半世紀

 昭和は天皇と戦争と夥しい死者の時代であり、戦後民主主義の昭和はそれを正しく総括していないとの思いがこれらの歌にはある。だから64年で終わったはずの昭和は、平成の世になっても一ノ関のなかでは終わってはいない。これほどまでの昭和という時代への拘泥は、戦犯の家庭に生まれ「祖父(おおちち)の処刑のあした酔いしれて柘榴のごとく父はありたり」と詠んだ佐伯裕子、また「昭和史を花のごとくにおもふとき衰へはいつも花の奥から」と美しく詠う佐々木六戈に類例を見いだすのみである。〈兄たちの世代〉という設定によって戦後という時代に鋭く問いかけたのは平井弘であったが、一ノ関は〈父たちの世代〉を測鉛として昭和という時代に問いかけるのである。

 そんな一ノ関の思いは当然ながら、生者とともにあるよりは死者とともにあることのほうが多い。

 いさぎよき生のあはれをおもふとき空のふかみをわたる鳥影

 うら若き父たちよこの冬空のふかきに入りてかへらずなりぬ

 おほははの髪うつくしうふかれ立つ夜の廊のむかう亡き祖父笑むや

 セレクション歌人シリーズ『一ノ関忠人集』に収録された散文のなかで、一ノ関が辞世や死刑囚の歌に思いを寄せているのはこの証であろう。一ノ関は「死と短歌は不可分のもの」とする短歌観を持ち、短歌について「日本語の原点、原罪としての短歌に、その可能性を探る」(『現代短歌100人20首』邑書林)という信条を吐露している。歌という文学形式の夜の底に沈んでいる澱のごときものに目を向ける若手歌人は数少ない。その意味において一ノ関のスタンスは独自であり、叙景歌・挽歌・羈旅歌に加えて父を悼む長歌まで作る手法の幅広さと手練れ振りは、スーパーフラット的平板さが目立つ現代短歌シーンにおいて注目に値するのである。