第385回 久永草太『命の部首』

母牛の乳よりれてそのしく白きを母乳と呼ぶひとのなく

久永草太『命の部首』

 牧場にいる牛の多くは牛乳を取るために飼われている。乳が出るのだから雌の母牛である。その乳を仔牛にやれば母乳と呼ばれるのだろうが、搾乳された乳は牛乳として製品化されて市場に運ばれる。だからその乳は母乳と呼ばれることはない。作者は命と命の近くにある矛盾を鋭く感じ取って歌にしている。

 またこの歌では「生れて」「美しく」「白き」と文語(古語)を使っているのが効果的だ。日常生活で感じる気づきや感情を描くのなら口語(現代文章語)の方が距離感が少なく適している。しかし命は重く、時に厳粛なものだ。その重さを描くには日常から距離感のある文語を選ぶのも有効な選択だろう。作者はそのような文体の差異をよく意識しているものと思われる。

 久永草太は1998年生まれ。宮崎西高に在学中に短歌を始め、2016年に牧水・短歌甲子園で準優勝。その後、宮崎大学に入学し、宮崎大学短歌会・「心の花」に所属。2023年に「彼岸へ」で第34回歌壇賞を受賞している。『命の部首』は受賞作を収めた第一歌集である。吉川宏志、石井大成、俵万智が栞文を、伊藤一彦が跋文を寄せている。ちなみに九大短歌会を創設した石井は久永と同じ宮崎西高出身で、久永を中一の頃から知っているという。また吉川も同じ宮崎県の出身で、歌壇賞の審査員を務めた縁がある。

 歌集題名は次の歌から採られている。

そりゃそうさ口が命の部首だから食べてゆく他ないんだ今日も

 この歌を見て慌てて漢和辞典を引いた。「命」という字の部首は頭に被っている「へ」で「ひとやね」と言い、人偏の一種らしい。だから「口が命の部首」というのは喩である。人間を含めて動物は、口から食べ物を摂取しなくては体を維持できず、動くためのエネルギーも得ることができない。だから口が命の要だということだろう。

 冒頭の掲出歌も上に引いた歌も「命」を主題としているのだが、その理由は作者が宮崎大学の獣医学科に学んだからである。本歌集の大部分は在学中に作った歌で、後半無事に国家試験に合格したことが描かれている。

糞尿も牛の身体も湯気たてる朝の直腸検査あたたか

産むことを正常として臨床繁殖学りんぱんの教科書重くて硬きを開く

治す牛は北に、解剖する牛は南に繋がれている中庭

採算と命の値段のくらき溝 鶏の治療はついぞ習わず

午前中五匹殺した指でさすドリンクメニューのコーヒーのM

 歌壇賞を受賞した「彼岸へ」から引いた。二首目、家畜は仔を産むことが正常と定められ、繁殖学はそのための学問である。教科書が重くその表紙が硬いのは、動物の命を功利的に扱っている人間のエゴを感じているからに他ならない。三首目は現場を経験した人にしか作れない歌だろう。病気や怪我をしていても治療可能な牛は北に集め、治療が可能ではなく屠殺して解剖実習に使う牛は南に繋がれている。まさに命の選別の現場だ。四首目も同じで、鶏は治療しても採算が合わないので鶏の治療法は習わないのである。五首目は解剖実習でラットを殺したのだろうか。動物とはいえ命を奪う重さと自販機のボタンを押す軽さが対比されている。

 歌壇賞の選考座談会で、久永に◎を付けた東直子は、「実験動物として、いわば動物をモノとして扱っているような場で、そういうことに対する罪悪感とともに、動物に対する敬意も全体にあって、いろいろな思いを込めながらうたっている」と評している。また◯を付けた吉川は「すごく思索的な部分があって、それが単なる面白さだけではない、鋭い見方があると思って読みました」と述べている。

 私が久永の短歌を読んで感じたのは、動物の吐く息の暖かさや土の匂いのする歌を読むのは久しぶりだということである。現代の若手作家の作る歌の舞台はおおむね都会であり、滅菌された都市空間の中には花の香りすら漂うことは少ない。スマホのLINEで繋がり、パソコンの電脳空間で映画を視聴する現代では、実際に手で触れて暖かさを感じ、臭いものであれその匂いを嗅ぐという身体感覚が希薄だ。それは若手の人たちの作る短歌にも影響しているだろう。獣医学科で学ぶ久永は、時に動物の糞尿を浴び、牛の腹の中に手を突っ込むという体験を踏まえて歌を作っている。そういう現実のごつごつした手触り感がある短歌は少なくなっているように思う。

 吉川は久永の短歌を評して「思索的」と述べたが、私が感じたのは細かいところへの気づきの感度の良さである。

イヤホンの長さのぶんだけ遅延して椎名林檎が叫ぶ耳元

午後の「午」と「牛」の違いの瑣末さよ午後は千頭ワクチンを打つ

保育士の「おやすみなさい」に潜みたる命令形の影濃かりけり

定番は青ペンらしいベトナムに過ごせば青くなりゆくノート

副住職経を唱える父親を失う日まで副の住職

 一首目、携帯音楽プレイヤーが再生する音楽は電気信号となってコードを伝わり、イヤホン内の震動で音波に変換される。電気信号がコードを伝わる時間の分だけ耳に届くのは遅れる理屈だ。しかしそれは理論上であって、実際に感知できる差異ではない。だからこれは理知でこしらえた歌である。二首目、「午」と「牛」の字画の違いは縦棒が上に突き出ているかどうかだ。伊藤一彦が跋文で紹介している牧水・短歌甲子園に久永が出詠した歌がある。

虐待の記事を読むたび「蹴」の字の隅のひしゃげた犬と目が会う

 これも漢字の字画に着目した歌で、「蹴」の字のいちばん右にある「尤」をひしゃげた犬に喩えている。「尤」の部首名は「まげあし」というらしい。機知の歌であり、久永はこういう見立てが得意なようだ。久永は保育園でアルバイトをしていたらしく、三首目はその経験に基づいた歌。昼寝をする園児たちに保育士がかける「おやすみなさい」という言葉の口調にかすかな命令を感じ取っている。四首目はベトナムに旅行した折の歌。日本ではシャープペンシルや黒のボールペンを使うのが一般的だが、ベトナムでは青いインクのペンを使う。それはベトナムがかつてフランスの植民地だったからである。フランスの学校では生徒や学生はノートを取るときに青いペンを使うのだ。これも現地に行かなくてはわからない気づきである。五首目もおもしろい。寺の副住職は住職の息子だ。だから息子が住職と名乗れるのは、父親が亡くなった時なのである。

 動物の命を扱う職業の人らしいと特に感じるのは次のような歌を読んだときだ。

わたくしを構成するよ今朝食べたバナナも昨日ぶつけたアザも

この春に吸い上げたものでできている梅の産毛の先の先まで

出生をたどれば南の海の水浴びて騒ぐよ木立も子らも

湯船からあふれるお湯の行く末に在る海おもう肩までおもう

 これら歌の主題になっているのは命の循環である。私たち生物はなべて外界と物質とエネルギーをやり取りして生きている。その循環なしには私たちは生きることができない。今朝食べたバナナの糖質はやがてブドウ糖にまで分解され、血管を流れて身体を動かす燃料となる。しかし昨日ぶつけてできたアザもまた私の身体の一部である。二首目の主題も植物の循環であり、今目にしているものには過去に由来があることに気づいている。三首目は水の循環である。南の海で発生した水蒸気がやがて雲となり、日本上空に達して雨を降らせる。四首目は逆に私たちの生活で使う水が、やがては海へと流れ出る姿を想像している。狭隘な「私」という自我にのみ拘泥していては作ることのできない歌ばかりだ。

生命の等価交換 献血の後に卵を十個もらいぬ

銀色のナット落ちていてこの街のどこかで困っているドラえもん

舌筋の走行について考察す焼肉屋にてタン焼きながら

知らぬ語を調べて「斬首」と知りしとき英論文に散りゆく命

背が伸びる夕焼け小焼けたい焼きを匹で数える国に生まれて

 一首目、等価交換はコミックの『鋼の錬金術師』が流行らせた言葉だ。献血するとドリンクやチョコレートをくれる所が多いが、卵をくれる所もあるらしい。二首目はメルヘンの歌。ドラえもんは未来から来たロボットなので、ナットとボルトが付いているのだろう。三首目は獣医学科あるあるなのかもしれない。タンを焼きながら舌の筋肉について話している。このようなそこはかとないユーモアもまた久永の持ち味だ。四首目の「斬首」はたぶん decapitationだろう。このように言葉から空想へと飛躍するのも短歌空間を広げる効果がある。五首目も言葉へのこだわりを示している。牛は「五頭」、ネズミは「五匹」、箪笥は「五棹」などと数える単位は類別詞 (classifier) と呼ぶ。日本語はこれが豊富な言語で、ここでは鯛焼きを匹で数えているのだ。本来ならば魚なので「」かもしれないが。

 伊藤一彦の跋文によると、久永はエッセーの名手でもあるらしい。『命の部首』

は実に読み応えのある歌集である。