くあとろとやわらかくなるキーボード
ぼくらの待っているのは津波
加藤治郎『ハレアカラ』
現代短歌を語る上で加藤治郎の名前は外すことができない。だから加藤治郎について論じることはとても難しい。現代短歌シーンを駆動している大きな力に、加藤治郎・荻原裕幸・穂村弘のトリオがいることは誰しも認めるところだが、加藤は他の2人とはちがって「未来」という伝統的な結社に所属しており、選歌欄を任せられている。また『TKO』『短歌レトリック入門』といった評論集もあり、作歌と評論の両面で活躍している歌人なのである。ということは、加藤の視野には正岡子規に始まる明治以来の近代短歌とアララギの歴史がそっくり収められているのであり、加藤がいかに人を驚かせるような新しい歌を作ったとしても、それは一時の思いつきによるものではなく、短歌の歴史を踏まえたひとつの試みなのであり、だからこそ論じにくいのである。
試しに掲出歌を見てみよう。初句「くあとろと」でいきなり驚かされるが、おそらくこれはイタリア語の数字の「4」(quattro)だろう。枕詞のように置かれているが、「くあとろ」の「とろ」が「とろとろ」という擬態語へと架橋され、次の「やわらかくなる」を連想的に導く仕掛けになっている。キーボードが柔らかくなることは現実には有り得ないので、読者はダリの超現実主義絵画でくにゃくにゃになった時計のようなイメージを思い浮かべる。夢の中の出来事なのかも知れないし、単なる印象を誇張して形象化したのかもしれない。「春のオラクル」という連作の中の一首で、この連作には「なにもうむことのできないコマンドのあるひ苺をあらうゆびさき」「オラクルのようなゆうばえ沈黙にふさわしきものなきぼくたちに」などの歌が並んでいる。「オラクル」とは神託のことであり、「ぼくたち」は神託を待っているのだが、並んでいる歌が醸し出すのは漠然とした不発感である。僕たちは津波を待っているというのだから、激しい破壊を希求しているのだが、くにゃくにゃになったキーボードが象徴しているように、津波は来ないのだろう。ちなみに次に置かれている連作は「ツナミ」と題されており、主題的に緊密に関連していることがわかる。
『短歌レトリック入門』で加藤も書いているように、明治以来の近代短歌のテーゼのひとつに古典和歌の修辞の否定がある。枕詞・序詞・掛詞などの修辞的要素は写実に無縁の虚飾として否定された。ところが1980年代の後半に始まるニューウェーブ短歌は「修辞ルネサンス」の観を呈するほど、埋もれかけた修辞を復活させた。加藤もその牽引車の役割を果たしているのであり、意味を漂白された「くあとろと」の枕詞的使用は加藤が駆使する修辞のささやかなひとつの見本にすぎないのである。
加藤は『TKO』のなかで、
言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!
のような記号短歌だけが取り上げられて一人歩きしたのは「痛惜に堪えない」と述懐している。また「ねっここでしちゃおっふゆの陽はほそくフロアにしろいお墓を映す」のように大胆に口語を取り入れた歌群が話題になることもあるが、口語短歌は80年代のライトヴァース以来広く浸透しており、加藤一人のものではない。加藤の歌の独自性はどこにあるのだろうか。こう思案するるとき注目されるのは次の歌である。
ウシロカラ画像ヲノゾキコムママノつめたい髪は頬に触れたり 『昏睡のパラダイス』
この歌の特異性は上句と下句の激しい断絶にある。カタカナ書きされた上句は、パソコンに向かっている子供の意識を表しており、口語の使用とカタカナ書きがそれを表象している。ところが下句は一転して文語で書かれており、視点は子供から抽象的な第三者へと転調している。加藤はこの一首のなかで複数の視点を強引に混在させているのであり、それぞれの意識に対して異なる言語を割り当てているのである。つまりこの一首は意識のポリフォニーなのであり、これは今まで誰も試みなかった手法と言えるだろう。近代短歌には、「一首の歌は一貫した意識と視点から作られなくてはならない」という暗黙の了解事項がある。加藤のように複数の意識を混在させるのは、明らかにこの近代短歌の了解事項への意図的な挑戦なのである。
加藤は第二歌集『マイ・ロマンサー』のあとがきに、話題になった連作「ハルオ」について次のように書いている。
「ハルオは、二十代後半のSEであり、詩人である。以前私は、社会状況と自分とのインターフェースとして、ザベルカとかチャップマンといった人物を抽出した。ハルオは”私自身”がインターフェースになったものだと言ってよい。」
加藤が短歌の中に登場させるハルオやザベルカやチャップマンといった人物は、インターフェースとして位置づけられている。インターフェースとは、〈私〉と外界との接点であり、その特徴はひとつに限定されないという点にある。外界が呈する側面の数だけインターフェースがある。これは「多面的な〈私〉」を前提とし、結果として「複数の〈私〉」を産出する。前衛短歌は「虚構の〈私〉」を演出することで、短歌の中に劇性と多様性を導入することに成功したが、インターフェースが媒介する「多面的な〈私〉」はこれとはまったく位相を異にするものだと言ってよい。どこがちがうのだろうか。
藤原龍一郎は「ギミック」という言葉をよく使う。gimmickとは、「手品師のトリック、(いかさまな)仕掛け」を意味する。お台場でラジオのプロデューサーというメディアの最前線で働き、夜な夜な六本木に出没する男というイメージの方が、平凡な中年サラリーマンというよりは、読者に興味を持ってもらえる、と藤原はどこかで発言していた。これは広い意味においては「虚構された〈私〉」と理解してもよいだろう。藤原はこのようなスタンスから、藤圭子について語り、日活ロマンポルノについて、プロレスについて饒舌に語るのである。藤原のギミックはこのように、〈私〉の全身を意図的にある色に染めようとする営為であり、その特徴は頭から爪先までの「全体性」にある。
これに対して加藤のインターフェースの特徴は、その「断片性」にある。どのインターフェースを取ってみても、短歌作者としての加藤の〈私〉を全体的に代表するものにはならない。加藤は次のようにはっきりと述べている。
「人間にいろいろな意識があることは自然で、それがシンプルに反映されればいい。歌集をまとめるプロセスで、ある傾向の作品を除去することは簡単です。たとえば、文語を選んだ意識を取除き、口語の作品だけでまとめることも可能です。でもそうしないで、いろいろな文体があることをうまく組織して、逆用できないかと考えるわけです。先ほど論じていただいた「ハルオ」が、歌集『マイ・ロマンサー』全体のプロトタイプになっているように思います。複数の意識にそれぞれ固有の文体というか、言語体験を貼りつけること。」(三枝昂之『現代短歌の修辞学』)
このような加藤の方法論から次のような歌が繰り出されるのである。
ぎんいロノパグヲオモえばさみドリノユメノナかでモネムルキみのめ 『ハレアカラ』
ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ乱暴なママのスリッパうれしいな して
オルガンが燃えつつ河におちてゆくぎゅんなあぎゅんぐ耳がつめたい
ねばねばのパンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん 『昏睡のパラダイス』
きれまからとどくひかりはかあさんのスカートのようぼくは駆け出す
一首目の文体は文語だが、平仮名と片仮名を句跨り的に混在させることで、結果的にキメラ的な意識を実現しようとする実験と見なせるだろう。
二首目や五首目は、意図的に幼児語を使っている歌である。この幼児擬態については、現代短歌『雁』48号の企画した加藤治郎小特集に「時間は無垢か」という文章を寄稿した永田和宏も着目している。加藤の短歌に「恥ずかしいまでの幼児語が頻出する」事実を、永田は加藤が抱いている「無垢な時間」への憧憬に由来すると結論している。だがこれはあまりに単純すぎる解釈だろう。永田は加藤の用いる「インターフェース」という用語に注目し、それを〈私〉の問題と結びつけて論じているにもかかわらず、加藤の歌に巧妙に仕掛けられた「意識の複数性」に思い及んでいない。加藤がよく用いる幼児語もまたあるインターフェースから生み出されるものであり、加藤は意識のその審級に対して幼児的意識にふさわしい言語を与えているにすぎないのである。
三首目の「ぎゅんなあぎゅんぐ」のようなオノマトペを加藤はよく使っているのだが、このようなオノマトペもまた明確に言語化できない意識の深層レベルに対して付与された言語形式と見なすことができる。
四首目はオウム真理教事件に題材を採った歌である。教団の広報担当だった上祐史浩は、「ああいえば上祐」と揶揄されたほど雄弁で、女性ファンまで出現した。「ねばねばのパンドエイドをはがしたらしわしわのゆび」は上祐本人の喩であると同時に、序詞的にも機能しており、結句の「じょうゆうさあん」を導いている。「じょうゆうさあん」は女性の歓声の直接話法的引用だが、これもひとつの意識に割り当てられた言語と見なすこともできる。
このように「複数の意識」が仕込まれた加藤の歌が指示しているのは、「断片化された〈私〉」であり、どれひとつとして〈私〉の全体性を志向しているものはない。これは極めて現代的現象であり、短歌に「一貫した〈私〉」しか認めない歌人には容認しがたい歌の解体と映るかもしれない。
加藤はこのように「現代において短歌に何ができるか」と鋭く問いかけて自ら実践しているわけだが、その多様な試みはいずれどこかに収束してゆくのだろうか。第五歌集『ニュー・エクリプス』では上に取り上げたような実験的作品は少なくなり、故郷の鳴尾を詠んだ鳴尾日記には、次のような古典的写実の歌も並んでいる。
幼子はホースを夏の樹に向ける水の届かぬさまはたのしも
第六歌集『環状線のモンスター』が7月25日に刊行されたばかりである。この歌集はまだ見ていないが、加藤の歌は新たな展開を見せているのだろうか。