加藤治郎歌集『しんきろう』書評:ニューウェーブは電気羊の夢を見続けるか

 本書は『雨の日の回顧展』に続く加藤治郎の第八歌集で、平成二〇年から二四年までの歌を収録する。一読してまず前歌集との大きな落差に驚く。
 『雨の日の回顧展』には「海底の昏さに灯るアトリエに臓器を持たぬ彫像ならぶ」「石鹸の箱の穴から流れ出た絵の具で描くJ・F・ケネディ」のように、展覧会や美術制作に想を得た歌が多くあり、歌集全体を造形的構想でまとめようとする強い意思が感じられた。ところが本書にそれに匹敵するような構成的意思は不在で、それに代わって作者の仕事の現場と直接関係する日常詠が多くあり、行間には深い疲労感と鬱傾向が滲む。
残業のざんのひびきが怖ろしい漏洩前のくぼんだまなこ
職務みな忘れろという社命あれシュークリームから噴き出すクリーム
あきらめは安らぎと死の架け橋であること夜の錠剤を呑む
見知らぬ人にフォローされてる銀色の回廊にいてつぶやく俺は
 この変化の背景には、名古屋から東京への思いがけない転勤、愛弟子笹井宏之の早世、東京で遭遇した東日本大震災などの、実人生における出来事があるにちがいない。リアリズムとは一線を画する加藤の歌には、実人生の直接の反映はほとんど見られなかった。しかしこの四年間に起きた出来事は、そんな加藤の短歌にも影を落とすほど重いものであったようだ。
 主題面に目を移すと、従来の加藤の短歌の重要なテーマに、日常に降りかかる理不尽な暴力と狂気、性愛、幼児にまで遡る意識の重層性があったが、本書ではそのいずれも影を潜めており、歌の背後に見え隠れするのは等身大の〈私〉に近い。文体面では大胆な喩と修辞やオノマトペがニューウェーブ短歌と呼ばれた加藤の歌を特徴づけていたが、それも本歌集では目立たなくなっている。いずれも大きな変化と言えよう。
 何かが起きているようだ。永田和宏は『現代短歌雁』四八号に寄せた文章で、「いやそうさ時間は無垢さ」という加藤の歌の一節を取り上げ、「時間は無垢か」と逆に問いかけた。本書では無垢への希求は、押し寄せる日常と鬱によって覆い隠されているようだ。加藤はこれからも〈無垢〉という電気羊の夢を見続けることができるのだろうか。
 とはいえ本歌集にももちろん美しい歌がある。次のような歌はおそらく現代短歌のひとつの到達点ではなかろうか。
まひるまの有平棒は回りけり静かにみちてゆける血液
あるときは青空に彫るかなしみのふかかりければ手をやすめたり
ゆめのようにからっぽだけど遊園のティーカップにふる春のあわゆき
コーンで受けるソフトクリームくねくねと世界が捩れてゆくのだ、姉よ
キャラメルの内側を押すゆびさきにほのかなひかり灯るゆうぐれ



『短歌研究』2012年9月号に掲載