マーブルの光まばゆき煉獄にたつたひとりのをみな、わが母
小佐野彈『銀河一族』
本歌集は2021年も暮れようとする頃に刊行された著者第二歌集である。小佐野彈は1983年生まれ。作歌を始めたきっかけは、もやもやとした内面を抱えていた14歳の頃に俵万智の『チョコレート革命』を読んだことがきっかけだという。2017年に「無垢な日本で」により第60回短歌研究新人賞を受賞。翌年、第一歌集『メタリック』を上梓し話題になった。第63回現代歌人協会賞を受賞している。最近は小説の分野にも進出しているらしい。
本歌集を一読して驚いた人はある程度の年配の人だろう。なんと小佐野彈はあの小佐野賢治に連なる家系の一人だというのである。歌集題名の「銀河一族」はその家系を指している。若い人は知らないだろうが、小佐野賢治といえば、戦後最大の疑獄事件と言われた1976年のロッキード事件に連座した政商である。ロッキード事件とは、全日空の新型航空機の購入がらみで田中角栄ら数人の大物政治家が逮捕起訴された汚職事件である。小佐野は国会に証人として喚問された時の偽証罪で実刑判決を受けている。ロッキード社のコーチャンとクラッターと、賄賂を意味する隠語のピーナッツを合わせて「コーチャン・ピーナッツ・クラッター(食らった)」という駄洒落がマスコミを賑わせた。詞書き付きの連作「政商の人生」に詳しく書かれているが、小佐野賢治の末弟の政邦が彈の祖父に当たるという。
諦念を振り払ひつつらんらんと野を駆けてゆけ 賢治少年
哲学を愛でる者らの行き交へる街でひたすらナットを絞る
二等兵・小佐野は進む まづ北京、そして漢口 砂塵の中を
政商といつか呼ばるる青年の前に強盗慶太あらはる
頂に立ちて見下ろすジパングは黄金もとい砂の帝国
判決は実刑 妻が「あら、さう」とつぶやきてぷくぷく花豆を煮てゐる
告げられし病名に濁音のなく耳障りよきひびき〈すいえん〉
詞書きは略して「政商の人生」から引いた。山梨の貧農に生まれ、終戦後進駐軍相手に商売を広げ、田中角栄の「刎頸の友」となって政商として権勢と富を誇った小佐野の生涯が一代記風に詠まれている。彈の母は政邦の一人娘で、彈の兄と彈が生まれて後に離婚して実家に戻っている。弾は賢治の死後、国際興業の社長となった祖父と一人娘の母親と暮らし成長したのである。
父のなき日々はあかるく始まりぬ忘却といふ術を覚えて
夏近き夜の湿度のくるしさよ ひとりでゐてもうるさきわが家
銀の匙嘗めつつ生まれ出たるをとうに忘れてわれは鬼の子
マイセンの白まろやかな食卓をこの世ならざる場所として、いま
アイボリー色の令状畳まれてつましく家宅捜索終はる
カツレツに檸檬だらだら垂らすごと終はりなきものならむ 親子は
彈がどのように成長したのかが歌からよく読み取れる。一首目、母親が離婚して父親が去り、小佐野家での暮らしは過去を忘却する明るさから始まる。二首目、思春期を迎えた彈にとって、家は自分を護ってくれるものであると同時に、抵抗と反発を覚えるものだったにちがいない。三首目、イギリスでは洗礼式を迎えた子供にスプーンを贈る習慣があり、裕福な家庭の子供には銀製のスプーンを贈るという。そこから「銀の匙をくわえて生まれて来た」という言い回しが出来て、裕福な家庭に生まれることを言う。彈もまさしく銀の匙をくわえて生まれたのだが、三首目は反抗期を迎えた気持ちを詠んだものだろう。四首目、マイセンはドイツ製の高級磁器で、それがふだんの食卓に使われるということから裕福さが知れる。五首目はロッキード事件で小佐野賢治が逮捕され、関係先として家宅捜索された折の歌。六首目は母親との関係を詠んだ歌である。親子関係はたとえ切ろうとしても、なかなか切ることのできないものと捉えられている。
彈は実に特殊な家庭に生まれ育ったと言えるのだが、これらの歌を読んで私の頭に浮かんだのは仙波龍英である。仙波については、彼を短歌の世界に引き込んだ盟友である藤原龍一郎が『仙波龍英歌集』(六花書林、2007年)に書いた「メモワール仙波龍英」に詳しいが、藤原の文章は仙波との個人的交流に限っていて、仙波の家庭的背景には触れていない。仙波龍英の父親は、その訃報が新聞に載るほどの著名な人だったらしい。田園調布に豪邸があり、葉山に別荘があってマリーナにはクルーザーが停泊しているという暮らしである。12歳と10歳年齢の離れた二人の姉がおり、龍英は遅く生まれた長男だった。本名は龍太といい、小児結核を患って病弱だったようだ。「結核のくすりは苦し少年はマイジュースにて飲みくだしたり」という歌がある。
〈ローニン〉の大姉〈ポンジョ〉の姉ふたり東洋の魔女より魔女である
「東大の医学部だけが大学よ」ふたりの姉にも接点はあり
戸籍には父のみの血を継ぐ姉があれば恐ろし本牧に佇つ
スティングレーのりまはす姉ワルキューレ狂ひのおほあね撲りあふ朝
葬列のなかに妾のむすめあり怒る姉妹を吾はあきれたり
一首目には「’61葉山・姉21歳と19歳、少年は9歳」という詞書きがある。少年は龍英である。東大医学部をめざして多浪を重ねる長姉はシボレ-・コルベット・スティングレーを乗り回して慶応の学生たちと遊び、日本女子大学に通っている次姉は葉山にある別荘でヨットに乗るという家庭である。そんな家庭にあって仙波は「あるときは渋谷のそしてあるときは田園調布の憂鬱燿ふ」という歌を詠んでいる。龍英の内面の鬱屈が明らかな歌である。
しかしどうやら小佐野彈は自らがその一員として生まれるよう運命づけられた一族にたいして、仙波とは異なったスタンスを取っているようだ。本歌集に収録された歌を読む限り、母親との関係の微妙さ・難しさは感じられるものの、仙波に見られたような反発と屈折は彈には見当たらない。いろいろな意味で華麗な一族を誇るでもなく、かといって恥じるでもなく、距離を置いて冷静に眺めるという精神の健全さを身に付けているようだ。この健全さが彈の持ち味であり、本歌集の魅力となっているように思われる。
とはいうものの彈の内面に別の陰翳があることは、第一歌集『メタリック』を読んだ人はすでに知っていることである。
けんと君が好きと言へない春が来てちひさき窓に降る小糠雨
メデューサのやうにはだかり女教師は咎めき僕の性のゆらぎを
またひとり枯れてゆきたる一族の裔につらなり子をなさぬわれ
行き先のわからぬ舟にゆくりなくわれら乗り合はせてしまひたり
「女子は家庭科、男子は技術」と分かたれて土曜の朝の廊下うらめし
しかしながら本歌集を貫く主題はあくまで銀河一族なので、上の歌に見られる陰翳に触れた歌は少数に留まる。
家族とふ長き真昼を終はらせて花降るなかを父は去りゆく
撫でられてますます曇るむなしさを映すでもなく金の手すりは
硝子とて武器となりうる家だからバカラは棚で眠らせておく
身悶えの果てに緋色の糸を吐き出して妖しきははそはのひと
サンタモニカの空の碧さを語るとき父の瞳に空はなかりき
真四角になりたる祖父を幾千の黒いつむじが取り巻く真昼
最後の歌には「国際興業・帝国ホテル・日本バス協会合同葬」という詞書きが添えられている。祖父政邦の葬儀の折の歌である。「父のなきわれら兄弟ふたりにはとことん重い死の床でした」という歌が語っているように、一族の長であった祖父の病気と死は彈と兄にとって背負うのが重いものであったにちがいない。しかしながら祖父の死をもって銀河一族は事実上終焉を迎える。彈にとってそれを機会に自らの一族を語ることは、家族と血脈にひと区切りを付ける意味があったにちがいない。それは一族から自己を解放することになる。そういう意味で特異な歌集と言えるかもしれない。