第234回 小佐野彈『メタリック』

弓張のひかりのなかを黒髪はたゆたひながら結はれゆきたり

小佐野彈『メタリック』
 

 昨年度(2017年)、「無垢な日本で」により第60回短歌研究新人賞を受賞し話題になった小佐野の第一歌集が出た。5月21日付けで版元は短歌研究社。カバーはアクションペインティング風に油絵の具を垂らしたようなピンク、赤、青、黄色などが配されていてかなり毒々しい。私は歌集のカバーを剥がして見る習慣があるのだが、カバーを剥がすと一転して光沢のある白一色である。外側と内側の対比が印象的だ。水原紫苑と野口あや子が解説を書いている。栞文は複数の人が書くのが一般的だが、解説を複数の歌人が書くのは珍しい。

 解説では水原も野口も申し合わせたように春日井建の名を引いている。それはある意味で必然だろう。「無垢な日本で」で新人賞を受賞した時、最も話題になったのは作者がゲイであり、そのことを公言しているという点だった。私も家に届いた昨年の『短歌研究』誌9月号を開いて見たとき、「ついにその時が!」と思わず叫んだものだ。春日井と比較されるのはそのような事情があるからである。

 本歌集は4章に分かれている。作者のあとがきによれば、過去4年間に作った歌を収録し、改作や改編を加えたとある。あえて編年体を採らないところに作者の意識の在り処が窺える。編年体を採る歌人にとって、短歌は日々の歌であり記録性を持っていて、言葉に過度の負荷をかけない作風の人が多い。歌の〈私〉と実作者との距離はそれほど離れていない。一方、編年体を採らず後から編集の手を加える歌人は、芸術至上主義的で美意識が強く、言葉に負荷をかける傾向が強い。また歌の〈私〉と実作者を隔てる距離は大きいことがある。おおまかにそのようなことが言える。この分類に従うならば、小佐野は後者であるということになる。口語を取り入れながらも旧仮名遣を用い、自分の名前にも旧漢字を使っているところにもそれは窺える。

 しかしながら以上述べたことは経験則による理屈であり、本歌集を一読するとそのような単純な分類は意味を失う。収録された歌の中には血が流れており、身を捩る煩悶が厚く塗り込められているからである。

ぬばたまのソファに触れ合ふお互ひの決して細くはない骨と骨

なんとまあやさしき社名きらきらと死にゆく友のむアステラス

獣肉を男同士で喰ふことの罪╱そののちのあひみての罪

耳朶ふかく鴉が鳴くよ 危険物同士夜更けにまぐはひをれば

感染者の平均余命淡々と告げられながら飲むスムージー

からだから痛みあふれて寝室は桃の匂ひで充たされてゆく

 性愛を詠んだ歌を引いた。一首目、触れ合う骨の太さでお互い男だと確認するという歌だが、このような歌が詠まれる動機を考えてみよう。同性の恋愛に何の疑いも持たず没入していたらこんな歌は作らない。恋の素晴らしさを歌い上げるだろう。あとがきで小佐野は子供の頃から、「自分を認めてあげたい自分」と「自分を認めたくない自分」が心の中で喧嘩していたと述懐している。どうしようもなく男性に引かれながら、心に一抹の罪悪感を拭い切れない。そこに二律背反の激しい葛藤がある。小佐野の歌の底流に流れているのはこの葛藤であり、それが歌にリアリティーと人を惹き付ける強さを与えている。

 二首目、ゲイの友人はHIVかも知れないが、あるいは睡眠薬による自殺かも知れない。実在のアステラス製薬の名が詠み込まれているが、アステラスという名は何となくアマテラスと似ているような気もして連想を誘う。三首目、焼き肉を食べているシーンだが、それを「獣肉を男同士で喰ふ」と表現するとまるでちがった情景になる。ここにも強い罪悪意識が見られる。四首目、鴉は何の形象化かは不明ながら、ポーの詩を待つまでもなくそのしわがれた鳴き声は不吉な予兆に満ちている。五首目ははっきりとHIVの危険を詠んだ歌。四首目で危険物と表現されているものそのためである。

 同性愛者は葛藤を抱え危険に晒されるだけでなく、社会から偏見に満ちたまなざしを向けられる。

ほんたうの差別について語らへば徐々に湿つてゆく白いシャツ

赤鬼になりたい それもこの国の硝子を全部壊せるやうな

うしろゆび指されることの不合理を語る瞳に宿る狐火

病みたるは君ではなくて街なのだ 山手線はまはり続ける

さみどりのむなしく濁るおそろひの湯呑みの底の八女星野村

 一首目、本当の差別について語るとき体は徐々に熱を帯びる。二首目、小佐野の歌にはよく鬼が登場する。鬼は豆を投げつけられて村から追われる対象としてだけではなく、怪力を用いて既存の秩序を破壊する主体としても捉えられていて、ここにも二律背反が認められる。この歌では眼には見えないガラスの壁を破壊するものとして描かれている。同性愛を認めない社会は不当だと感じながら、五首目にあるように、お揃いの湯呑みを使っていても、どこにも行き着けない虚しさを拭うことができない。

 故郷や家族を詠んだ歌にも愛憎の二律背反がある。

金色の信玄公は踏みつける私を棄てた故郷の駅を

なにもかも打ち明けられてしんしんと母の瞳は雨を数える

受け容れることと理解のそのあはひ青く烈しく川は流れる

最後まで父と息子になれざりしふたりを穿つ一本の棘

 小佐野の故郷は山梨だが、自分は故郷に棄てられた者だという思いがある。自分の性的傾向を母親に打ち明けたとき、母は表面上は受け入れはするものの理解はしてくれない。父親との間にはもっと深い溝がある。

 フランスの文芸批評家にして小説家のモーリス・ブランショはかつて「文学は欠如 (manque)から生まれる」と喝破した。何の不自由もなく幸せに暮らしている人に文学はいらない。自分の中の欠如を鋭く意識し剔抉したときに文学は生まれる。その意味において小佐野は文学に呼ばれた人と言えるかもしれない。

 作者は起業して台湾で暮らす実業家でもある。息苦しい日本を離れて外国に赴くとき、小佐野の歌には他にはない自由さと風通しの良さが感じられすがすがしい。

熟れてなほ青々として芒果マンゴーはレインボーフラッグとならんでゆれる

ゆるしにも似たる湿りを従へて夏は来たれり榕樹の島に

美麗島フォルモサに出会ひしわれらはにたづみいづれは海へ流れてゆかむ

熱帯の黒きいのちは片隅で亜麻色のに仕留められたり

ソドミーの罪の残れる街をゆく鞭打つごとき陽に灼かれつつ

 一首目から三首目までは台湾詠で、残りはベトナムを訪れた折に詠まれた歌である。いずれも南国の色彩に溢れていて、海外詠としても優れた歌だ。

 色彩と言えば小佐野の歌には色を詠み込んだものが多くある。一読して注意を引かれたのはその点である。

〈自由が丘心療内科〉そのやはき百合根のいろの大理石床

つややかな赤いスマホを手繰りつつどこで会はうか考へてゐる

桃色のねむりぐすりは半減期過ぎていまなほ胸に巣喰へり

永住者カード涼しき水色の存在感で財布に眠る

体温が色を帯びゆく丑三つのあひみてなればわれらむらさき

 一首目の「百合根のいろ」は出色と言ってよい。あまり見ない表現で少なくとも私は短歌で出会ったことがない。百合根の色はかすかに黄色がかったオフホワイトである。二首目、野口の解説で知ったが、小佐野は本当に赤いスマートフォンを使っているらしい。この他にも色が詠まれた歌を探すとあちこちに見つかる。

 これはおそらく意識的である。そのヒントは上に引いた五首目にあるかもしれない。パーブルはもともと欧米ではゲイのシンボルカラーであったと聞いたことがある。またLGBTなど性的少数者 (セクシャル・マイノリティー)の人権擁護のシンボルはレインボーカラーである。色の多様性は性的傾向の多様性に通じるからだ。その意味でこの歌集は「色の溢れる歌集」と呼んでもいいかもしれない。

性愛が淡雪のごと舞ひ降れば真つ赤に染まりゆく通学路

軋むほど強く抱かれてなほ恋ふる熱こそ君の熱なれ ダリア

漆黒の翼はひしとたたまれて酸ゆき深夜の雨に光るよ

あくまでも青、と言ひ張る君のためわづかに青く腐りゆく桃

 付箋のついた歌を引いた。驚いたのは二首目である。恋の情熱のシンボルとしてダリアは実にふさわしい。しかし小佐野は実際にダリアを見たことがあるのだろうか。昔の日本のどこにでもあって今はとんと見かけない花の代表格はダリアとカンナと鶏頭だろう。ダリアは近代短歌によく詠まれた。『岩波現代短歌辞典』にも立項されているほどである。

君と見て一期いちごの別れする時もダリヤは紅しダリヤは紅し 北原白秋

 他にも次のような歌もある。その燃え上がるような赤い花ゆえに、激しい感情の象徴とされることが多い。

わがこゝろ恋に変れといふごとく紅きダリアの灯の前に咲く 原阿佐緒

黒きだりやの日光をふくみ咲くなやましさ我が憂鬱の烟る六月  前田夕暮

ダリア畑でダリア焼き来し弟とすれちがうとき火の匂うなり  佐藤通雅

 小佐野は近現代短歌をよく勉強しているのだと思う。ダリアは自分で目にしたものではなく、近代短歌に詠まれたものを見たのではないか。上に引いた四首目の桃の歌も加藤治郎を思わせる。小佐野は「かばん」所属の歌人だが、「かばん」の中では作風が古典的で、修辞的技法を多く使っている。そういう側面からもっと論じられてもよいように思う。

 最後に出色の一首を挙げておこう。新人賞受賞後の第一作「ページェント」所収の歌で、「彼女は乳粥で供養した」という詞書がある。舞台は新宿二丁目である。

スジャータのミルクしたたるひるを生き僕らはやがて樹下のねむりへ