第147回 山口雪香『白鳥姫』

禽肉とりにくはすでに死屍たるひえ持てばまばたきもせず銀の塩振る
                        山口雪香『白鳥姫』
 鶏肉を調理している光景なので、いわゆる厨歌の部類に入る歌だろう。確かに売られている鶏肉は死屍であり死骸だから、死特有のの冷たさを持っている。生命とは温度である。その認識が「夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿を残して」(小池光)という方向に向かえば、「死を咀嚼して生きる私たちの日常」というほのぐらさへと向かうのだが、作者が向かうのはそのような方向ではなく「銀の塩」という美的世界の方である。この方向性に作者の個性が表れていると言えよう。
 『白鳥姫』は出版されたばかりの山口雪香の第一歌集である。作者プロフィールなどという便利なものが付されていないのでよくわからないが、大辻隆弘の跋文によれば、山口は最初「未来」に拠り岡井隆の選を受けていたが、やがて姿を消し、ついで大辻の選歌欄に出詠するようになったという。その間の期間は「玲瓏」に所属していたらしい。つまり山口の短歌世界は「未来」と「玲瓏」の積集合のあたりに存在するようだ。ちなみに山口は一人芝居をする女優であり、山口椿の弟子だという。
 まず歌集の構成がおもしろい。第一章「姉珠」にはフランス語で「雪」を意味するneigeと降られている。音は「ネージュ」で、「姉珠」を「あねじゅ」と読ませてのことだろう。「雪」が作者の名に通じるのはもちろんのことである。第二章は「麗陀」にLedaと振ってある。レダとはスパルタ王の妻であり、横恋慕して白鳥の姿になったゼウスと密通した。歌集題名の『白鳥姫』がこれを踏まえたものだとすると、白鳥姫とはレダとゼウスの子であり、後のトロイア戦争の原因となった美女ヘレネだということになる。収録された歌にもギリシアを思わせるものがあり、湿潤な日本というより、陽光に満ち乾燥した南欧を感じさせる歌が多い。第二章は、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」という古典和歌の部立てになっていて、作者の古典への傾倒ぶりを感じさせる。実際、読み進むのに古語辞典は欠かせない。
 巻頭から数首引いてみよう。
たをやかになづさひ触れむ汝のうらに森のささやく羽音れなば
かがやかに汝のまみくる萌黄葉のれかへる陽光に満てり五月は
抱き来し硝子砕きし二眸ふたまみに弾くひかりは秘むべかりけり
擦り傷を舐める艶見き青い麦乳首ちちくきやかに木綿めんシャツもたげ
まみぶる翳閉ぢ白きぬか寄せてひとよ愛撫は月下に尽くさむ
 「青い麦」と題された連作で、言うまでもなくコレットの小説を踏まえている。四首目の「青い麦」は文語では「青き麦」となるところだが、小説の題名なのでそのままにしてある。文語定型で、古語それも上代語を好んで用いている。たとえば一首目の「なづさふ」は水に浮かび漂うという意味である。「たをやかに」「かがやかに」「眸寂ぶる」などの初句は、意味は有していながらも、意味よりは二句へと導く枕詞的機能が勝っているように感じられる。このような歌を読むときは、「森のささやく羽音」とは何だろうとか、「砕いた硝子」って何のことだろうなどと考えてもしかたがない。現実に対する指示機能をほとんど喪失した言葉なのだから、言葉の連接から浮かび上がるイメージと、言葉と言葉の衝突から生じる火花を味わえばよいのである。上に引いた歌から立ち上がるのは、くっきりと影を作る地中海の光、匂い立つエロス、そして不特定の「汝」に呼びかける相聞の力強さといったものだろう。
 「日々の歌」や「折々の歌」というものは影も形もない。それと平行して歌の意味を下支えする日常を生きる等身大の〈私〉もない。だからこれは、俵万智が『短歌をよむ』(岩波新書、1993)で短歌を作る際の心得として述べた「心の揺れをつかまえて」とか「感動の貯金」などという場所とは遠い地平で詠まれた歌なのである。あらためて現代短歌の振幅の大きさを思わずにはいられない。
 ではどのような場所から生まれるのかというと、可能性はふたつある。ひとつは言葉、ひとつは巫女である。ひとつ目の可能性は、現実との指示関係を最小限に抑えて、言葉を連接してゆくことで生まれる短歌世界で、要するに実生活から資材を得ずに作られた「コトバでできた歌」である。あらゆる短歌はコトバでできているのだから、語義矛盾のように聞こえるかもしれないが、言わんとするところは理解してもらえるだろう。例えば上に引いた四首目は、乳房が膨らみ始めた少女の青いエロスが主題なのだが、作者が本当に擦り傷を舐め、木綿のTシャツを持ち上げる少女を目撃したとは考えにくい。コトバが先にあり、それを組み立てることで歌ができるのである。
 もうひとつの可能性は、山中智恵子や水原紫苑がそれに近いが、「全身これ霊山」となって天から降って来るコトバを捕まえるという巫女系のケースである。ちなみに言語思想史の分野では、「異言」(glossolalia、またはgift of tongues)と呼ばれる事例が昔から報告されている。多くは宗教的恍惚のさなかに理解できない言語を話す例をさすが、それ以外にも、ある日突然、一度も学習したことのない外国語を話し始める例などもあって実におもしろい (これは私の裏テーマのひとつである。とても表では話せない)。「降って来る」人は意外に多いようだ。あとがきで作者が、あれこれ効果を考えて歌を作ったことはなく、「風が吹くように、耳の傍で海鳴りが聴こえるように、ふわりと歌は訪れる」と書いているところを見ると、山口はどちらかと言うとこっちなのかもしれない。
つばめ一閃少年のくびは細きかなトルソのペニス欲しきまひるま
逝く夏のかなしみ透かす桔梗は薄暮のやうにカノンのやうに
亡きひとの形見の絹を選りながら華やぐほどの深き夏の喪
押し花のはらりと崩れ風鈴にしまひ忘れの秋の風吹く
こゑあらねど静かに訪へる風蔭に夏いろ見えてまた水の貌
 一首目、トルソは広場に立つ少年の彫刻で、そこに燕が飛んでいるのだろう。とても日本の風景とは思えず、どこか童話風でもある。早い動きの「つばめ一閃」から、静かな「少年のくびは細きかな」の描写に移るところが見事だ。二首目、「桔梗」は音数から古名の「きちかう」と読むのがよい。本歌集の第二章が古典和歌の部立てを取り入れていることからもわかるように、どの歌にも季節がくきやかに現れている。なかでも作者のお気に入りの季節は夏のようだ。二首目は夏の中でも逝く夏、つまり夏が秋に移り変わる季節を詠んだもので、古来日本人が好んできた時候である。いつまでも暑い夏と思えば、いつのまにか秋の気配が漂うところに、移ろいのあはれを感じてきたのだろう。三首目は、真夏の形見分けの光景であり、華やぐのはもちろん夏を謳歌している自然である。華やぐ夏と喪の哀しみという外と内の対比が際立つ陰翳の深い歌である。四首目は後京極藤原良経の名歌「手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり」に通じる歌である。「しまひ忘れ」ているのはもちろん風鈴なのだが、それを秋風につなげているところに、詩的な統語転倒がある。五首目は夏と風と水の織り成すフーガのような音楽性を感じる歌であり、言葉の意味作用が最小限にまで切り詰められている。
 夏の終わりに読むのに最適の歌集と言えるだろう。