〈1人称複数 nous〉
1人称複数というのは問題の多い人称です。まずnousが複数の話し手をさすということはふつうありません。60年代の学園紛争が盛んな時代に、ヘルメット学生が声をそろえて「われわれは勝利するぞ!」と叫ぶ場合とか、小学校の卒業式で行われているシュプレヒコールで、先導者が「私たち卒業します」と言うと、卒業生全員が「私たち卒業します」と唱和するような場合にしか複数の話し手というものはありません。
1人称複数にはふたつのケースがあります。〈私+あなた(方)〉つまり1人称+2人称の「私たち」か、〈私+彼(ら)/彼女(ら)〉つまり1人称+3人称の「私たち」のどちらかです。(1)が一つ目の場合で、(2)が二つ目の場合に当たります。
(1) Toi et moi, nous serons toujours ensemble.
君と僕はずっといっしょにいようね。
(2) Ta mère et moi, nous pensons à ton avenir.
お母さんも私もおまえの将来を考えているんだよ。
言語学では聞き手を含む一つ目を「包括的 nous」 (nous inclusif)、聞き手を含まない二つ目を「排除的 nous」(nous exclusif) と呼ぶことがあります。言語によっては異なる語形を使うものがあるからです。(注1)日本語でも、「私ども」とか「手前ども」と言うときは、「ども」が謙譲を表すので、聞き手を含まない排除的な人称詞になります。
実はフランス語にも同じような現象があるのです。nous や vous に autres を付けた次のような表現です。
(3) Nous autres Allemands, nous avons l’habitude de juger les hommes
d’après leurs œuvres. Nous possédons le goût du travail pour lui-même.
(Ernst-Robert Curtius, Essai sur la civilization en France)
私たちドイツ人は、人を評価するときに、その人がなし遂げた業績を重んじ
るきらいがある。私たちドイツ人は仕事自体を好むのだ。
著者のクルチウスはドイツ人で、この文章は「私たちドイツ人」nous autres Allemandsと「あなた方フランス人」vous autres Françaisとの国民性のちがいを論じています。この nous autres は聞き手を含まない排除的な1人称複数です。これを知らないと「私たち他のドイツ人」などと訳しかねませんね。
1人称複数が孕むもうひとつの問題は、nous のさす範囲が大きくなったり小さくなったりして、変幻自在だという点にあります。次の例のような哲学の文脈では、nous は人間一般を広く指します。これが nous の取り得る最大値でしょう。
(4) Nous ne voyons pas les choses mêmes ; nous nous bornons, le plus souvent,
à lire des étiquettes collées sur elles. Cette tendance, issue du besoin, s’est
encore accentuée sous l’influence du langage. (Henri Bergson, Le rire)
私たちは物自体を見ていない。たいていは物に貼られたラベルを見ているのだ。必要
から生まれたこの傾向は、言語の影響を受けてさらに強まった。
では次の文章ではどうでしょうか。
(5) Notre civilisation est une somme de connaissances et de souvenirs accumulés
par les générations qui nous ont précédés. Nous ne pouvons y participer qu’en
prenant contact avec la pensée de ces générations. Le seul moyen de le faire et
de devenir ainsi un homme cultivé, est la lecture. (André Maurois, Les livres)
われわれの文明は先人たちが積み重ねた知識と記憶の集合体である。先人たちの思想に
触れることなくしては、文明に参画することはできない。先人たちの思想に触れて教養
ある人士となる唯一の方法は読書である。
この例の nous を広く取れば「人類全体」になります。しかし文字を持たず、本というものがない民族もあるので、人類全体と取るのは多少抵抗を感じます。著者はフランスを含むヨーロッパを中心に考えているようにも思えますね。もしそうだとすると nousは 西欧文明に属する人たちということになります。
このように nous は民族や地理といった要因によって伸び縮みするので、単に「私たち」と訳すのは危険です。それだけではありません。時間の影響も受けるのです。次の例の所有形容詞 notre の背後にいる nous は現代に生きる私たちです。ですから過去の人は含みません。
(6) Paul Morand, qui est sans doute l’un des observateurs les plus pénétrants de
notre époque, a fait remarqué que le XXe siècle n’avait inventé qu’un seul vice
nouveau, la vitesse. (André Siegfried, Aspects du XXe siècle)
おそらく現代で最も洞察力のある批評家であるポール・モランは、20世紀が生み出し
た悪習はひとつしかないと指摘した。それはスピードである。
たぶん nous の取る最小値は次のような表現でしょう。
(7) Entre nous, je vais quitter la boîte le mois prochain.
ここだけの話だが、私は来月会社を辞めるんだ。
nous は本や論文の著者をさすときにも使います。「著者の nous」 (nous d’auteur) とか「謙遜の nous」(nous de modestie)といいます。この場合は「私たち」と訳してはいけません。君主や枢機卿など高位の人が自分をさすときにも使い。これを「威厳を表す nous」(nous de majesté)といいます。
(8) Hormis de légères retouches intégratives et une réunion des références mises
à jour dans une bibliographie générale, nous ne leur (=les sept travaux qui
constituent ce recueil) avons volontairement pas apporté de remaniements.
(Georges Kleiber, Anaphores et pronoms, Duculot, 1994)
用語の統一などの軽微な修正と、参考文献を最新のものにしてひとつにまとめた以外
は、私は本論文集に収録した7つの論文にわざと手を加えずそのまま掲載した。
ただし、最近は著者のnousに代わってjeと書く人も増えてきました。この用法で属詞が形容詞や過去分詞のときは単数形にします。さしているのは一人の人だからです。さしている人が女性のときは女性形になります。
話し言葉では nous は親愛の情をこめて tu の代わりに使われることもあります。
(9) Avons-nous été sage ? お利口にしてたかな。
〈2人称複数 vous〉
ていねいに一人の聞き手をさす用法以外に、vousには主に文章で読者一般をさす用法があります。英語のyouと同じですね。
(10) Damandez à plusieurs personnes de vous expliquer ce qu’est le temps. Vous obtientrez probablement autant de réponses différentes.
何人かの人に「時間とは何ですか」とたずねてごらんなさい。たぶんたずねた人の数だけ異なる答が返って来ることでしょう。
〈3人称複数 ils / elles〉
さしているのがすべて男性の場合は男性複数の ils、すべて女性のときは女性複数の elles になるのは当然です。しかし男性と女性が混じっているときは ils を使うことに違和感を感じる人もいることでしょう。言語学では男性と女性の対立が中和されると考え、この ils を男性ではなく「通性」と呼ぶことがあります。とはいうものの、99人の女性と1人の男性の集まりでも ils になるのですから、ジェンダー的には問題と言えるかもしれません。
男性複数形の ils にはちょっと特殊な使い方があります。先行詞なしで使う次のような例です。
(11) Ils ont encore augmenté les impôts.
あいつらまた税金を上げやがった。
この用法では話し手も聞き手も含まずに不特定の人をさし、「当局、その筋」などのお偉方を意味することが多いようです。同じく不特定の人をさす代名詞に on がありますが、on は話し手や聞き手を含むこともあるので、この点で ils と使い分けされています。
〈人称の転用〉
人称代名詞はそれがさしている本来の人称以外の人称に転用されることがあります。上の (9) で挙げた tu の代わりに使われる nous もそのひとつです。
近年のフランス語学の研究で注目されているのは1人称の je の次のような使い方です。(注2)次の例の動詞validerはもともとは「有効なものにする」という意味です。
(12)[路線バスの表示]
Je monte (直訳)私は(バスに)乗車する
Je valide (直訳)私は(切符に)打刻する
パリの街を走る路線バスは、1時間半以内ならば同じ切符で乗り換えができます。このため乗車したら切符を機械に差し込んで、乗車時刻を印字しなくてはなりません。これを怠ると高額の罰金を取られることがあります。(12)を日本語風の言い方にすると、「バスに乗車したら切符に時刻を印字しましょう」とでもなるでしょうか。
(12)の je は誰をさしているのでしょうか。主語 をon に変えて On monte, on valide.とすることもできます。on は漠然と人一般をさす代名詞ですから、こう書き変えると、切符に印字するのは誰にでも求められていることだということになります。ところが je は人一般をさす代名詞ではありません。ではどうして (12)が乗客一般に当てはまる標語になるのでしょうか。それは今まさにバスに乗車しようとしている人が、この標語を読むことによって自分を je の立場に置くからだと考えられます。つまり乗車という状況が持つ場面の特定化によって、パスに乗る人がjeの立場に立つのです。je が人一般を表す代名詞ではないのに、乗る人すべてをさすように見えるのはこのようなメカニズムによると考えられます。次の例も同様です。(注3)
(13) J’AIME MON QUARTIER (直訳)私はこの町が好きです。
JE RAMASSE (直訳)私は(犬の糞を)拾います。
パリの公園などにある注意書きです。この標語は犬を散歩させている人に、糞を拾って持ち帰るように呼びかけています。この場合にも犬を散歩させているという場面の力によって、散歩させている人がこの標語の je に当てはまる立場であると理解するのです。
しかしjeは話し手をさす代名詞ですが、公園でこの注意書きを読む人は発話していません。発話行為によって定義づけられているはずの1人称代名詞なのにどういうことなのでしょう。
上の注意書きは2人称を用いて、Si vous aimez votre quartier, vous ramassez.「あなたがこの町が好きなのならば、糞を拾いましょう」とすることもできます。こうすると、標語を書いた当局の人から、犬を散歩させている「あなた」への呼びかけとなり、ふつうの依頼の表現です。しかし je を用いた標語を読む人は、「読む」という行為を通して自分を潜在的な話し手の立場に置くのではないかと考えられます。文章を読むときは、実際には声を出していなくても、心の中で音読していますよね。こうして潜在的な話し手の立場に置かれた人は、vousを使った標語よりもずっと強い強制力を感じるのではないかと思います。標語に je を使う のはこのような理由によるのではないでしょうか。
(注1) インド亞大陸の南部で話されているドラヴィダ諸語やオーストラロネシア諸語では包括的nousと排除的nousを区別している。
(注2)フランス・ドルヌ「偽装された命令 Je monte, je valide」、川口順二編『フランス語学の最前線』第3巻特集「モダリティ」、ひつじ書房、2015.
(注3)泉邦寿「一人称のレトリック的用法について」『川口順二教授退任記念論文集』2012. https://shs.hal.science/halshs-01511628
この用法は牧彩花「一人称詞を用いた引用表現に潜む『声』」、阿部宏編『物語における話法と構造を考える』ひつじ書房、2022でも詳しく論じられている。