第51回 嵯峨直樹『神の翼』

君の着るはずのコートにホチキスを打てば室内/ひどくゆうぐれ
                   嵯峨直樹『神の翼』
 嵯峨は1971年生まれで、中学生の時に短歌に出会っている。岩手県の旧渋民村の宝徳寺で遊座英子に短歌の手ほどきを受けたという。宝徳寺は石川啄木の父が住職に任ぜられて一家で住んだ寺である。嵯峨は啄木の故郷で短歌と出会ったことになる。進学した高校の国語の先生が村木道彦だったという田中槐のケースにも驚くが、嵯峨も短歌と出会うべくして出会ったということだろう。無縁の衆生である私などには想像することすら難しい。短歌が嵯峨の肉体に食い込む様が目に見えるようだ。嵯峨はその後「未来」に所属して岡井隆に師事し、2004年に「ペールグレーの海と空」で第47回短歌研究新人賞を受賞している。『神の翼』は受賞作を収録し2008年に刊行された第一歌集。跋文は岡井隆が執筆し、栞文は「未来」の先輩格の加藤治郎と穂村弘が文章を寄せている。ニューウェーブの血脈を意識しての人選と思われる。ペールグレーのグラデーションをなす表紙に白い翼が浮き上がる装幀も美しい。
 読み進むうちに何かおかしいという感覚が、遠くでかすかに鳴っている目覚まし時計のように執拗について回る。歌集半ばあたりまで読み進んで気がついた。嵯峨の描く情景の切り取り方が独特なのである。たとえばこうだ。
あかい紐引くと闇夜に包まれた 髪の毛先が頬をくすぐる
胸もとに冷たい鼻を感じれば雨のはじめのしずくを思う
通販の下着モデルのトルソーで慰めた手がつり革つかむ
長髪にかくれて小さなキスをするあたたかな息ちかく感じて
幸福を探り続ける左手が細い煙草を箱から抜いた
半そでのむきだしの腕と触れ合えば君は確かに僕ではないが
一首目の髪の毛先、二首目の鼻、三首目の手のように、身体の部分が断片化されて提示され、持ち主である人間の全体が見えないのである。このことは四首目以下にも言える。「キッチンに淡い光が差し込んで姉は野菜の水滴はらう」のように、カメラを引きで写して全身が見えるように描いた歌はむしろ少ない。まるで暗闇から身体の一部だけがぬっと現れるようである。たとえば次のような歌と比較してみればその相違は明らかだろう。
弟よ電車にあればワイシャツに光あふれて青年となる
                      佐藤通雅『薄明の谷』
ぶつぶつと言いて自転車漕ぐ男過ぎゆけば背に子どもが居たり
                      吉川宏志『西行の肺』
作者の視線は他者としての人間全体を把握しており、それは視覚的把握に留まらず、歌の〈私〉と対象との心理的距離や関係性にまで及んでいる。私たちが日常行う他者把握はこういうものであり、「家族」「近所の人」「職場の同僚」「見知らぬ人」などの関係性を常に含む。ところが嵯峨の短歌においては、他者が断片化されているのみならず、関係性もまた剥奪されており、上に引いた歌に登場する髪や鼻や手の持ち主と〈私〉の関係が明らかでないだけに、いっそう不穏な印象を与えるのである。
 この描写法の源流がニューウェーブ短歌にあることは、まずまちがいなかろうと思われる。
ほそき腕闇に沈んでゆっくりと「月光」の譜面を引きあげてくる  
                          加藤治郎
海からの光がとどくひややかな雨がおさえるわたくしの舌
 ニューウェーブ的語法の最良の果実のひとつと思われるこれらの歌において、腕や舌などの身体部位は自立性を付与され、そのことが全身から成る総体的人間の重みからの解放と、それに基づく感覚的語法の確立を可能にしたのである。嵯峨はこのニューウェーブ短歌の語法を学び自分の物としたのではないか。
 この語法は嵯峨の短歌から滲み出る世界観と双生児の関係にある。
髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた
午前1時の通勤電車大切な鞄ひしゃげたままの僕たち
海へいく道路の脇の自販機で買ったコーラはまだぬるかった
街じゅうの監視カメラに注視されて撰ばれてある恍惚とする
僕たちは過剰包装されながら受け入れられておとなしくなる
赤んぼの頃から俺のおしっこはおむつを宣伝するために青い
 一首目から三首目に表現されている漠然とした不全感、四首目から六首目に表現されている自分たちを取り巻く不可視のシステムと無菌社会。「僕たち」や「俺」を主語とする歌のほとんどは、このような現実認識を表明している。先に指摘した身体の断片化と関係性の喪失は、このような世界観と不即不離の関係にあるだろう。思想は語法を生み、語法は思想に形を与えるという点から見れば、嵯峨の語法は選ばれるべくして選ばれたものとも言える。
 しかし短歌が抒情詩であるという観点から見れば、嵯峨の思想と語法はどちらかと言えばぬるい抒情につながることもまた事実である。
霧雨は世界にやさしい膜をはる 君のすがたは僕と似ている
霧雨の降りしきる路 終バスは名前の消えたバス停に着く
三月のビニール傘にわたくしをころさぬほどの雨降りそそぐ
 嵯峨の短歌の中ではよく雨が降っているのだが、その多くは霧雨であり決して強い雨ではないのが特徴的である。短歌によく雨が降る歌人に藤原龍一郎がいるが、藤原の雨はもっと鋭く肺腑を抉る強い雨である。
油膜浮く運河の水面打つ雨の「夜の淫らな鳥」や言葉や  
                   藤原龍一郎『花束で殴る』
六月の雷雨自虐へとなだれこむわが日々を撃つわが日々を撃て
 ラテンアメリカ文学の名作ドノソの『夜の淫らな鳥』や現代短歌の歌枕である六月に思いを馳せる藤原の抒情は、全身を振るわせるような激しい抒情である。これと比較すると嵯峨の短歌が押し上げる抒情は、どうしてもぬるいと感じられてしまう。おそらく嵯峨はそのことを意識しており、自分たちの世代はぬるい抒情しか持てない世界に生きているのだと言いたいのかもしれない。
 嵯峨の短歌のもうひとつの特徴は、垂直方向の偏愛である。
ペットボトルの空気の球を垂直に上げながら飲むミネラルウォーター
垂直に合わせた羽を微動させ葉の先端にとまる紋白
上からの指示で降りゆく 経血のぬるく滴るような世界へ
上昇とともに抱き合う密室の階数表示を片目に見つつ
夕立に潤いながら垂直のマリアは密かにねじれはじめる
人群れて白き階段登りゆく 空にキリンの首折れている
 垂直方向に上方が理想や憧憬の方向で、下方が転落と失意の方向なのはわかりやすい比喩である。おもしろいのは嵯峨の短歌に水平方向の移動がほとんど見られないことである。常々、地理的想像力を言い、故郷からの遁走によって自己を解放し実現しようとしたのは寺山修司であった。垂直方向の移動は同じ場所に留まっての憧憬であるが、水平方向の移動は出自からの離脱であり空間的解放である。嵯峨の短歌に水平方向の移動が少ないことが、行き場のなさをいっそう強調しているように思え、読んでいて胸ふたぐような息苦しさを感じるのである。