006:2003年6月 第1週 本上まなみ
または、癒し系のへもへも短歌

つゆくさで色水つくって遊んだよ
      明け方の空の涙みたいな

            鶯まなみ
 今の日本で短歌人口はどれくらいいるのだろうか。短歌や俳句のような伝統文芸は、「隠居の文芸」とか「オジサンの余技」と見られやすいが、この固定観念は現実を正確に反映していないようだ。若い女性を中心に短歌を作る人がどんどん増えているのである。加藤治郎、穂村弘、萩原裕幸が開設している「電脳短歌イエローページ 」のリンク集を見ると、インターネットで短歌のホームページを開いている人が無数にいる。このように若い女性が短歌を作るようになったのは、何といっても俵万智の『サラダ記念日』(1987年)のいわゆる「サラダ現象」がきっかけだろう。サラダ世代とそれ以後の女性がどのような短歌を作るかは、例えば『ハッピーアイスクリーム』の加藤千恵杉山理紀のページを見ればよい。そこに掲載されているものを短歌と見なすかどうかの判断は、人によるだろう。また、『短歌研究』は平成12年に創刊800号記念として「うたう」作品賞を募集したが、募集要項を「別冊フレンド」「ホットドッグ・プレス」に掲載したというところが象徴的である。ちなみに作品賞受賞者は22歳の盛田志保子である。

 さて、掲載歌である。「鶯まなみ」とは、女優本上まなみが短歌を作るときの筆名である。本上まなみはなかなか筆の立つ人で、女性誌にエッセーと短歌を書いており、それらの文章は『ほんじょの虫干し』(学研)、『ほんじょの天日干し』(学研)、『ほんじょの鉛筆日和』(マガジンハウス)の3冊の本にまとめられている。私は全部買って読みました。ファンなのです。といっても女優としてのファンなのではありません。そりゃ確かに、野沢尚脚本・木村拓也主演のドラマ「眠れる森」も見ましたし(本上まなみサンはユースケ・サンタマリアに殺される可哀想な役だった)、先日まで放送されていた「恋はバトル」も見ました。同時に放送されていたNHKの飛脚屋ドラマの方は敬遠しましたが。

 しかし、私がファンであるのは、女優としての演技力ではなく、彼女の人柄である。東京の流行スポットよりも、巣鴨のとげ抜き地蔵商店街がお気に入りで、散歩と野良猫観察が日課というそのホンワカとした人柄です。彼女の短歌は、本人の人柄をそのまま反映しているところに味わいがある。

 びいどろをぽっぴんぽっぴんふきました帰りまぎわのくろくもの下
 今となりゃ《つかまされたか》とも思う大きいだけのへろへろかいめん
 桜並木ももいろサンゴが手を振った様に見えたよメガネかけねば
 そういえばおふろあがりのうちの犬ソラマメのにおいに似てた
 妹とケンカしてても庭にでてまめくじ見せれば勝ったも同然

 本上まなみが短歌を作るようになったのは、編集者である沢田康彦が主催するFAX短歌会「猫又」に誘われたのがきっかけのようだ。「猫又」というのは、主宰の沢田がお題を決めて、会員が作った短歌をFAXで寄せるという形式の会で、漫画家吉野朔美やプロレス評論家ターザン山本も会員という集まりである。その成果は『短歌はプロに訊け』(本の雑誌社)にまとめられている他、角川書店のPR誌『本の旅人』に断続的に発表されている。穂村弘と東直子が選者になって、寄せられた短歌にコメントしている。単なるお遊びの会かと思えば、けっこう真面目に取り組んでいるところがおもしろい。短歌は極端に短い形式なので、自立して意味を発信することが難しく、公共の場での選歌と解釈という過程を経て、他人の目をいったん通すことによって、その意味と価値が確定するという側面がある。「猫又」の座談会を読んでいるとそのことがよくわかる。

 サラダ世代以降の、特に若い女性の短歌に見られる特徴は、作歌の姿勢としては「ブンガクを気どらない」「人生を賭けない」という淡いノリであり、作歌の技法としては「徹底した口語の使用」「ひらがなの多用」という日常性である。だから次のような、日記とも手紙ともつかない歌が生まれることになる。

 あの人が弾いたピアノを一度だけ聞かせてもらったことがあります (加藤千恵)

 この変なドキッという感じの衝撃は巨大イカを知った時と似ている (脇川飛鳥)

 今すぐキャラメルコーン買ってきて そうじゃなければ妻と別れて (佐藤真由美)

いずれもその筋では有名な素人歌人で、歌集も出版されている。特に最後の佐藤真由美のキャラメルコーンの歌は、「名歌」の誉れ高い。穂村弘はこのような作歌傾向を「棒立ちのポエジー」と呼んでいるが、この場合、「棒立ち」とは短歌的技巧や修辞とは無縁というほどの意味だろう。どこか少女漫画のような、あるいは少女の日記のような、文学的昇華を経ない垂れ流し的つぶやきが、なぜ定型としての短歌形式を必要とするのか、不思議と言えば不思議なことである。