冬木立高くそびゆる傍らに人はゆっくり時計のネジを巻く
清水あかね『白線のカモメ』
冬枯れの景色の中、葉を落とした木の傍らで、今では珍しくなった手動式の腕時計の竜頭をゆっくりと巻いている。時計のネジを巻くのは、これから流れる時間を計るためである。ただそれだけの光景なのだが、この歌が病を得て死の床にある弟を詠んだ「ホスピス」という連作の中に置かれていると、歌の相貌は一変する。この前には「ホスピスに転院する朝 弟は新しき腕時計欲しがる」という歌がある。だから掲出歌の中で時計のネジを巻いているのは、まだ自分には流れる時間があると信じている弟であり、また同時に有限の生を生きる私たちでもあるのだ。この歌には典型的な「短歌的喩」がある。歌に詠まれているのは木の傍らで腕時計のネジを巻く一人の人という具体的映像なのだが、一首を読み終えた瞬間に、歌の字義的意味は跳躍して喩的意味へと変貌する。歌に詠まれた映像は字義的意味を保持しつつ、生の有限性を知りつつもまだまだ時間があると思っている私たちという喩的意味を獲得するのである。ここに短歌の意味作用の二重性がある。注意すべきは、字義的意味から喩的意味への変化には、個の水準から普遍の地平への跳躍が伴っていることである。描かれているのは一人の人であるにもかかわらず、そこから滲み出る喩的意味は私たち全員に当てはまる普遍的なものである。
本歌集には今野寿美の解説と著者のあとがきはあるのだが、プロフィールが添えられていない。しかし解説とあとがきと収録された歌の内容から推測すると、作者は1960年代後半の生まれで、御茶ノ水女子大学教育学部の国文科に学んでいる。そう知れるのは集中に「緑濃き真夏の比叡にされわれた友は今でも二四歳」という歌があるからである。読んだ瞬間にこれは安藤美保のことだとわかった。安藤は1967年生まれで、平成3年に御茶ノ水女子大学教育学部国文科の大学院ゼミ旅行で比叡山に行った折りに事故死している。享年24歳で、死後に歌集『水の粒子』が刊行されている。清水は安藤のゼミ友達だったのだ。あとがきを読むと今野もそのことに触れている。清水は大学に入学した頃に、俵万智が大学に招かれて短歌について語ったのを聞いたのがきっかけで歌を作り始めて「心の花」に入会したという。学生時代は歌を作っていたが、卒業して湘南にある女子校の教員になってからは長く作歌を中断し、10年前から再開したとあとがきにある。『白線のカモメ』は長い中断を挟んで30数年にわたる期間に作られた歌を収録したというちょっと珍しい歌集である。帯文は佐佐木幸綱。歌集題名は「わやわやと着席をする四十の襟元に飛ぶ白線のカモメ」という歌から採られている。セーラー服の衿の白線が翼を拡げたカモメに見えるという見立である。
歌集の最初の方には大学に入学して短歌を作り始めた頃の初々しい歌が並んでいる。
やつでの葉に朝のしずくが光りおり知らぬということ眩しかりけり
変わらずにいること父に望まれて滴るような緑を駆ける
淡き淡きみどりの中にたたずめば母に秘密をもたぬ悔しさ
耐えきれず電話すれども発信音きけばとっさに不在を祈る
やわらかきポプラの葉かげに再会し女友達という汚名着る
一首目、「知らぬ」ということが眩しいということは、もう少し知ってしまったということである。二首目、父親にとっては子供であるという関係性は、安心であることも圧力であることもあろう。三首目、母に言えない秘密とはもちろん恋のことである。四首目は密かに心を寄せている男性に思い切って電話する場面である。携帯電話ではなく、たぶん公衆電話からだろう。胸がどきどきするあまり、相手がいなくて繋がらないことを祈るのだ。五首目、再会したのは昔の彼氏か密かに慕っていた男性である。連れの女性にだだの女友達と紹介されて内心憤激しているという場面である。まぶしいほどに初々しい青春歌だ。特に光りと色が鮮やかである。
水色のガラスのバスが雪道にぽっと最後のひとり吐き出す
陽に透けてうすももいろの猫の耳春へ春へとひらかれている
哀しみに沈み込むのを許さない樹々のみどりもわれの若さも
画材屋の陳列棚から選び取る無限の青と永遠の白
もう二度と 夏の絵の具がチューブから絞り出されて海を染めても
これらの歌に詠まれた「水色」「うすももいろ」「みどり」「青」「白」や、チューブから絞り出される夏の絵の具は、一点のくすみもなく鮮やかに輝いている。青春の特権だろう。
第二章には2010年からの歌が収録されている。いきなり作者四十代の歌である。作者は湘南にある女子校の教員になっている。青春時代の歌にはなかった陰影が時折混じり影を落とすが、歌の基調はいまだ明るいままである。
青春は曖昧に過ぎ猫じゃらし青きまま揺れる中央分離帯
まといつく雨を逃れて地下駅に紫紺の薔薇の襞折りたたむ
少女らよわたしを越えて 透明な立夏の空へつづく階段
ぐっと歌の陰影が増すのは弟の病と死の歌あたりからである。
弟がまだ弟でいてくれる蜂蜜色に流れる時間
夜が朝に変わる時刻は黒き手があらわれ君を連れ去らんとす
鳥の渡り想いつつ聴く弟の部屋に残されたサティのCD
アルバムに君の笑顔は散らばりてこの世を離れ一年の過ぐ
撮った父は知らずに逝った たんぽぽのような笑顔の息子の夭折を
山吹の黄が目に沁む亡きひとのまだ新しき革靴捨てて
作者と弟は一歳ちがいの年子で、どちらも未婚で子供がいなかったようだ。父親はすでに亡くなっていて、作者と母親だけがこの世に残されたことになる。
勤務する学校の様子を詠んだ歌も多くありおもしろい。
教室の二つの時計それぞれに少し違った時間指しおり
夏だけの校舎の清掃深緑の山懐に抱かれてわれら
数式を解きゆく少女のくびすじがほそく傾き夏は終わりぬ
集まって廊下の隅に笑い合うセーラーカラーはそよがない鰭
プリズムが分かたぬ前の透明な光の中に旅立ってゆく
一首目、たぶん教室の後ろと前に時計があるのだろう。前の時計は生徒が見て、後ろの時計は教員が見る。少しちがう時間を指しているのは、両者の立場が異なるからである。二首目、どうやらこの学校には夏期のみ使う校舎が天城山の近いにあるらしい。三首目は夏期補習の最終日か。ポイントは「細く傾き」。四首目はいかにも女子校らしい風景である。五首目、プリズムは透明な光をいろいろな色の光りに分ける。卒業する女子学生らはまだ色がついていない透明な光である。
ばらの花、ゆすらうめの実、郵便受け、赤いものみな闇に呑まれる
どこから来てどこへ行くのか橋渡るひととき列になる人の群れ
遠き星に咲く花のごと一群れのアガパンサスが薄明に浮く
蓮の花あまく香りて前の世と細くつながるホテルのロビー
朝ごとに同じ車両に乗り合わせ名乗ることなく老いゆくわれら
より陰影が深まった歌を引いた。一首目、赤く光る薔薇の花もゆすらうめの実も、夕闇が迫れば色を失いやがて闇に呑まれる。赤は鮮やかな色だけにその変化は激しい。二首目、橋の歩道は狭いので、それまでばらけて歩いていた人も自然と列をなす。しかし橋は時として現世と異界を繋ぐものである。そう思って見ると少し光景がちがって見えて来る。三首目、アガパンサスは青紫の鮮やかな花で、確かにちょっとちがう世界から来た花のようにも見える。そんな花が薄明に浮いていると、どこか涅槃の風景のようだ。四首目、古いホテルのロビーは時間が堆積したような趣がある。廊下を行くと前世に行けるような気持ちになる。五首目、通勤電車でたまゆら同じ時間を共有しても、お互いに名も知ることなくまた分かれて行くのが人の宿命である。
三十数年という長い期間に作られた歌を時間軸に沿って辿ると、作者の人生の軌跡をそのときどきの生々しい実感を伴って辿ることができる。歌の功徳と言うべきだろう。鮮やかに切り取った景色を適切な言葉に載せる手つきは確かなものがある。
われを待つ青年の影 六月のポブラの葉影よりも淡くて
明るければいよいよ暗む液晶を手のひらに持ち冬のバス待つ
傍らに船やすませて石橋のやわらかき弧は真夜の鐘聴く
権力が疎むのは「意志」チューリップ咲き終えて残る茎の直線
粛清という語の浮かぶ夕ぐれに甘く匂える藤のむらさき
標的へ急降下する瞬間のまま第二理科室に冷えゆく翼
封印を解かれた夏の朝空にたちまち高まる青の濃度は
その他に印象に残った歌を引いた。四首目は少し肌合いの違う歌で、花が散った後のチューリップの垂直の茎に人間の強い意志を見ている。五首目の「粛清」と藤の甘い香りの対比も鮮やかである。最後の歌にも詠まれているように、作者の好む色は青のようだ。陽性の明るさが基調となっている歌集である。