第87回 渡辺松男『蝶』

粥を食みつゆさきほどの時間さへとりもどせねば粥どこへおつ
                     渡辺松男『蝶』
 短歌は俳句と並んで極小の詩型であるが、この小体な型式の中にも時間を封じ込めることができる。掲出歌は粥を食べている情景を描いている。粥はすすり込むため、食べるのに要する時間はわずかである。しかし、そのわずかな時間でさえも、過ぎ去ってしまえば取り戻すことがかなわない。それを「粥どこへおつ」という自問の形で表現している。もちろん粥は胃の中に納まったのだが、実は作者は粥の行方を問うているのではなく、粥を通して失せてしまった時間の行方を問うているのである。渡辺はこのように生活上ぶつかる当たり前のことを取り上げ、それを形而上学的疑問へと昇華させる技に長けている。
 渡辺松男は1955年生まれ。「かりん」所属。1995年「睫毛はうごく」で歌壇賞受賞。1998年第一歌集『寒気氾濫』で現代歌人協会賞、2000年『泡宇宙の蛙』でながらみ現代短歌賞受賞。『蝶』は第七歌集にあたる。
 渡辺松男は非常にユニークな歌人である。『現代短歌最前線』(北溟社 2001年)に解説を書いた花山多佳子は、渡辺を「遅れてきた新人」と呼び、『寒気氾濫』を評して「最近のもっともユニークな歌集であった」と述べている。それは渡辺の短歌が「奇想に近い歌の連続」だからである。
キャベツのなかはどこへ行きてもキャベツにて人生のようにくらくらとする                               『寒気氾濫』
直立の腰から下を地のなかに永久(とわ)に湿らせ樹と育つなり
地に立てる吹き出物なりにんげんはヒメベニテングタケのむくむく
木は開き木のなかの蝶見するなりつぎつぎと木がひらく木の胸
                          『泡宇宙の蛙』
子を孕みひっそりと吾は楠なればいつまでも雨のそばにありたり
足跡からつぎつぎと消されゆくのですねどのひともやがて地上から浮く
 二首目と四首目の木の歌と三首目の茸の歌は、渡辺の世界観をよく表している。渡辺は『寒気氾濫』のあとがきに「幼いころ木になりたかった」と書いたほど、樹木とそれに代表される自然への畏怖と敬愛が深い。人間を万物の頂点とする西欧的世界観とは反対に、人間は地上の「吹き出物」に過ぎないとする、近代の自我意識とはまったく位相を異にする世界に住んでいる。渡辺の短歌が描く世界は、人間と自然の境界線が揺らいでいつしか一体となり、万物が交感する世界である。また文体的には「くらくらとする」や「むくむく」のような口語的言い回しを大胆に用い、文体に弛みを作り出すことで、おもしろいリズム感やそこはかとないユーモアを生み出している点も注目されるだろう。
 『蝶』においてもこのような渡辺の世界観は変わらず維持されているのだが、初期の歌集とはいくつかのちがいが認められる。表現の面では旧仮名に変わり、また平仮名を多用するようになっている。
色はそくかたちあるもののいひなればあいちやくは桃たべてをはりぬ
やぶかうじ赤き実はわがふらふらとなんじかんもなんにちもありくゆめのあしもと
あかげらにどらみんぐされている楢の こんなときわれは空へひびきをり
わたぐもに さうね つつまるるこの感じ うえつとどりいむはあけがたにあり
ほどよきがよしほどよきはこはるびのひるからカスカラサグラダふふふ
 全部がこのような歌ではないので、いささか恣意的に拾い出したのだが、旧仮名表記と平仮名の多用のため、文節の境界が判別しにくく読みに時間がかかる。「どらみんぐ」「うえつとどりいむ」のような外来語も平仮名表記されているのでなおさらである。このような表記の生み出す効果は複数あると思われる。まず、ただでさえ平仮名表記は読字時間が長いうえに、読者は文節の切れ目を探して行きつ戻りつして読むため、結果的に一首の中に長く滞留することになる。これを作者の技法という観点から見れば、時間のコントロールと考えることができよう。また、漢字は結像力が高く意味に直結するが、平仮名は音に傾くため歌の記号性が増大する。記号性が増えるというのは、歌の質感や量感など、物体としての手触りが増すことをいう。
 しかし、何よりも注目されるのは、初期歌集に比べて歌のぐにゃぐにゃ感が増していることだろう。もともと渡辺の歌にあった意図的な文体の弛みが、ここへ来てさらに高じている。そのことは上に引いた二首目の「なんじかんもなんにちもありく」という14音もある四句目にも見え、また五首目の文体にはさらに顕著である。ちなみに「カスカラサグラダ」とはスペイン語で「聖なる樹皮」を意味し、クロウメモドキ科の樹木の樹皮で緩下剤に用いられるという。「ほどよき」の繰り返しによるリズムと、「ひるから」「カスカラ」の「から」の重なりが言葉遊び的に歌を支えている。このようにぐにゃぐにゃ感にある脱力系の歌がかなり見られるのだが、これが本歌集の大きな魅力になっている。文体のぐにゃぐにゃぶりは決して欠点とはならず、むしろ歌のおもしろみを高めているのである。
 また渡辺の歌には、日常の当たり前のことを描いてハッとさせるものも多く見られるのも特徴と言えるだろう。
時のすぎゆくのはかげのうごきにてかげさしてにはか赤い欄干
秋風に集団としてあるなかの蜻蛉ひとつを追へばすばやし
城址にはつねゆれている竹叢のしなはざるあれば死にて立つ竹
すずめにも足跡のあるいとしさは風ふれど砂にしばらく消えず
竹刀ふりくうかんにだんりよく感ぜしはくうかんに亀裂はひるちよくぜん
 一首目では影の動きで時間が知れるとし、影に入って欄干の赤が一際よく見えるという鋭い観察がある。この歌にも流れ去る時間という意識が色濃く反映されている。二首目、トンボの群れは風に流されるようにふらふらと飛んでいるかに見えながら、その中の一匹を追うと、とたんにすばやく逃げる。言われてみれば確かにその通りで、はたと膝を打つ。三首目、風に吹かれて揺れる竹林のなかに揺れない一本があると、それは枯れた竹だというのである。なるほど枯れた竹は生命に特有の弾力性を失い直立する。四首目、あんなに軽いスズメにも足跡は確かにあるはずだ。特に感服したのは五首目である。竹刀を振って空間を切り裂くとき、空間の弾力を手に感じるのは、竹刀を振り下ろす直前だという。竹刀のような弾性体は静止から動に転じるその瞬間にしなるのであり、また空気抵抗もそのとき最大になる。これは時間と運動をめぐるメタフィジカルな歌であり、このような歌に渡辺の真骨頂を見るべきだろう。
 先に渡辺の歌の世界は、人と自然が万物交感するアニミスム的世界であると書いたが、この歌集では自己離脱感がさらに高まっているように見える。
もうひとりあけがたの木に啼く鳩のほの白くみたるあたりがわれか
自販機のまへにてなにかつぶやきしそこまではわれでありにし記憶
わが感覚すすき野のへにありしかどこのかろさ死後のごとく気づけり
ちやわんの縁の蝿がいつぴき来てゐたりほんとはおまへが俺だとも言ひ
 幽体離脱のように自分の体を抜け出している感覚というか、自己と世界を隔てる皮膚が透過性を増して、皮膚を抜けて外にこぼれ出しているような感じがある。もともと渡辺は人間を頂点とする西欧的世界観と、それを支えた主客二元論とは対極にある世界観に立脚しているので、それも不思議ではないかも知れない。
 もうひとつこの歌集を貫いている感覚は、人の一生は賜り物にすぎず、須臾の間に消え去るものだという痛切な感覚である。
がほんのすこしのわすれものなれや苜蓿うまごやしのへにあそぶわが生
寒の朝卵をいだきぬ産みたてのこのあたたかさがまぼろしのすべて
たれもすこしのあひだしか生きられはせずそのあひだのこのときの片栗
死にゆくなどじぶんのこととしおもへねば今日にてもずいぶんのぶる水飴
 それは歌集巻末に近い「ひまはりの種テーブルにあふれさせまぶしいぢやないかきみは癌なのに」という歌からうかがえるように、最愛の伴侶が癌に冒されたという体験によってより深くなった想いではあろうが、渡辺の初期の歌にも低く聞こえていた声でもある。簡潔なあとがきによれば、残念ながら夫人は癌によって死去されたらしく、あろうことか渡辺自身も筋萎縮側索硬化症(ASL)という難病の宣告を受けたという。快癒を祈るばかりである。