第132回 渡辺松雄『隕石』

青山河屠殺ををへし大父に
       渡辺松男『隕石』
 渡辺松男の句集が出たのでさっそく取り寄せて読んでみた。なかなかおもしろい。渡辺松男には『寒気氾濫』から『蝶』まで7冊の歌集があり、現代歌人協会賞、寺山修司短歌賞、釈超空賞などを受賞している押しも押されぬ歌人である。
 歌人で俳句を作る人はいるがそれほど多くはない。塚本邦雄には2冊の句集があり、俳句関係の本も書いているくらいだから、歌人の余技とは言い難い。藤原龍一郎は短歌の前から俳句を作っていたそうだ。寺山修司も高校生のときに俳句から出発し、後に短歌に移っている。
 さて掲句だが、屠殺というくらいだから鶏ではないだろう。鶏ならば「しめる」と言う。牛か豚のような大きな家畜だと思われる。農家の庭先で屠殺したのか、それとも他の場所でかはわからない。しかし屠殺を終えて戻って来た祖父は尋常ではない雰囲気を身に纏い、ひょっとしたら獣と血の匂いが漂っていたかもしれない。そんな祖父の背後に青山河が広がっているという、極めて絵画的な句である。この句を読んで森澄雄の「山の冷猟師さつをの体躯同じ湯に」(原文は正字)という句を思い出した。森の句について塚本邦雄は「湯の面を伝って荒い樹脂の香がにほひ立つやうだ」(『百句燦燦』) と評したが、渡辺の句では夏の空気の中を獣の匂いと暴力の香りが伝わって来るようだ。
 季語は青山河で夏なのだが、実はこの語は歳時記に掲載されていないのだそうだ。しかし佐藤鬼房に「ほとに生る麦尊けれ青山河」という句がある。夏の光を受けて樹木が青々としている風景を指す。
 『蝶』の批評にも書いたことだが、歌人としての渡辺の短歌の特徴は奇想とアニミズム感覚にある。それと同時に人間を宇宙的次元で捉えるスケールの大きさが感じられる。1首目と2首目は偶然にも「XはYなり」という措辞を含んでおり、認識の歌としての渡辺短歌の特徴を示している。
地に立てる吹き出物なりにんげんはヒメベニテングタケのむくむく
                       『寒気氾濫』
蛇なりと思う途端に蛇となり宇宙の皺のかたすみを這う
                       『泡宇宙の蛙』
あかげらにどらみんぐされている楢の こんなときわれは空へひびきをり
                            『蝶』
 では『隕石』に収録されている句はどうかというと、やはり短歌と俳句の文芸としての生理の差か、短歌に特徴的な人間と自然とが連続融合するようなアニミズム的な句は少ない。そういう世界を立ち上げるには俳句は字数が少なすぎるのだろう。
プラトンや天に止まれるままの蝶
につぽんや春昼といふ大袋
引鶴を空に消し空完成す
花むしろにんげんだけを余分とし
死にいれる鯨のゆめや青地球
 スケールの大きな句を引いてみた。1句目、天に蝶が止まることはないので、これは蝶のプラトン的形象化だろう。天空に大きな蝶が形象化されているようだ。2句目、春昼はうららかで眠気を誘う。そんな春風駘蕩の空気を日本列島をすっぽり包む大袋に喩えた句で視点が大きい。3句目、越冬を終えて鶴が北に帰る。点々と見えていた鶴の姿が消えて、空が完成するという。空が本来の姿に戻るということだろう。4句目、花むしろは桜の花が一面に散っている様であるが、「にんげんだけを余分とし」に渡辺の世界観がよく表れている。5句目は死にぎわの鯨を詠んだ句だが、この世は一尾の魚(あるいは一匹の亀)の見る夢にすぎないとする古代中国の世界観に通じるものがある。
 次は時間を詠んだ句で、時間もまた渡辺の認識の大きなテーマである。
うすらひの一秒前のごとく今
ひぐれまでまだすこしある落花かな
ででむしのきのふとけふとあしたの差
蝙蝠や〈いま〉〈ここ〉〈われ〉の飛び回る
 1句目はやや謎めいているが、薄氷が今にも張ろうとしている一瞬前の瞬間を捉えた句。〈今〉の捉え難さを詠んだ句と取る。2句目は夕方に桜が散る様を詠んだ句で、「まだすこしある」という時間の捉え方が秀逸。3句目はカタツムリの遅い移動を詠んだ句。4句目は蝙蝠の意識には今・ここ (hic et nunc)しかないとする認識の句。幸か不幸かわれわれ人間には今・ここを超える想像力と記憶力が与えられているが、蝙蝠を詠む渡辺の目にはどこか蝙蝠の方を良しとする気持ちが感じられる。
 以下、印象に残った句を挙げてみよう。
死のむかうがはのまぶしき日照雨かな
噴水のなにも手渡すことできず
たましひとそして団扇のうらおもて
くるんくる軍艦島に白日傘
白牡丹ゆめにもおもみあるやうに
手のとどく範囲が閻浮茄子の花
死ののちの父のむすうや渡り鳥
穂すすきのとなりに遅れながら揺る
秋冷が汽車のかたちで運ばるる
終極のこころを点すからすうり
1句目、死に「向こう側」があるとすればそれは何だろう。眩しいのだから輝く何かなのだろう。2句目、噴水の水はただ噴き上がり落下するのみである。吉川宏志に「噴水は挫折のかたち夕空に打ち返されて円く落ちくる」という歌があるが、短歌ではどうしても「挫折のかたち」と情意を詠み込んでしまうところ、俳句はスパッと切って余韻を残す。3句目、魂に裏表があるのかといぶかってしまうが、こう言われるとすとんと納まるところがおもしろい。4句目、非常に映像的な句で、廃墟と化した無人の軍艦島に女性のさす日傘が眩しい。私はマニアというほどではないが廃墟好きなので嬉しい句である。5句目、夢に見た白牡丹にもぼってりとした重さがあるという。夢幻的な句である。6句目、閻浮は閻浮台の略で人の住む世界を表す仏教用語。渡辺は筋萎縮側索硬化症(ASL)という難病に罹っているので、身体の自由が効かず、手のとどく範囲が自分の世界なのである。脊椎カリエスを患っていた子規が獺祭屋主人と号したのも、獺が獲った魚を並べるように、病床の枕元に必要なものを並べているからである。そういえば亡くなった父も自分のベッドで同じことをしていた。7句目、父が死んでから森羅万象に父を感じるという意味だろう。8句目、ススキが風に揺れる様を詠んだ句。  『蝶』にも「秋風に集団としてあるなかの蜻蛉ひとつを追へばすばやし」という歌があるが、ふだん気が付かない微少な現象を捉えるのは、短詩型文学の得意とするところである。確かにススキは一斉に揺れるのではなく、その揺れかたは微妙にずれる。9句目、朝早く出る列車の車内は冷えている。その冷えた空気のままに列車が走る。「汽車のかたちで」がおもしろい。10句目、からすうりの赤い実を詠んだ句である。蝋燭の画家として知られる高島野十郎に「からすうり」と題された絵がある。土壁を背景に、葉と蔓が枯れて赤く実ったカラスウリを写実的に描いた絵だが、とても美しい。確かに何かの魂がぶらさがっているようにも見える。先年、熊本を訪れたときに細川家の墓所に行ったことがあるが、墓所の岩壁にカラスウリがたくさん実っているのを初めて見た。その様を「終極のこころ」と形容するところに渡辺の境地を窺うことができるだろう。