第131回 秋月祐一『迷子のカピバラ』

模型飛行機のやはやはとした羽根ごしにたわむ世界はみどりを帯びて
                  秋月祐一『迷子のカピバラ』 
 模型飛行機は軽く作る必要があるため、素材にはバルサのような軽量木材を用い、羽根には薄くて丈夫な和紙を張る。超軽量飛行機には台所用のラップのような樹脂素材を使うらしい。だから上句の「模型飛行機のやはやはとした羽根」のように、頼りない印象を与える。そして半透明の羽根ごしに見える世界がたわむという。これは幾通りにも解釈できるだろう。大空を飛ぶ飛行機を希望の象徴と取れば、世界は希望に満ちた方向にたわむだろう。しかし模型飛行機の脆さや飛行時間の短さに着目すれば、逆に世界はマイナス値の方へと歪むことになる。しかし作者の中では緑という色は美と結び付いているようなので、プラス方向かマイナス方向かという二者択一的価値判断ではなく、模型飛行機の羽根ごしに見る世界は日常から離脱して美しく見えると解釈しておきたい。
バルサの木ゆふべに抱きて帰らむに見知らぬ色の空におびゆる
                   小池光『バルサの翼』
 同じように模型飛行機に用いるバルサ材を詠んだ歌を引いたが、小池の歌には見知らぬ色に染まる空に怯える思春期の少年としての〈私〉がいる。見知らぬ色の空とは言うまでもなく、少年の眼前に横たわる不確定な未来である。一方、秋月の歌にはそのような意味での〈私〉が見あたらない。これが近代短歌と現代短歌を分かつ最も大きな分水嶺だと言えよう。現代短歌とは取りも直さず〈私〉の変容なのである。
 秋月は1969年生まれ。「未来短歌会」の彗星集で加藤治郎の選を受けている。『迷子のカピバラ』は今年4月に刊行された第一歌集である。栞には加藤治郎、あがた森魚、天野天街、諏訪哲史、ハービー・山口、森雅之が寄稿していて、作者の交友関係の多彩さが窺われる。
 本書を手にしてまずその造本の凝り具合に驚く。横長の判型で厚紙製の帙に入っている。中は1ページ3首組で、作者自身の撮影した写真と自作と思われるコラージュが散りばめられており、美術品の詩画集のような造りになっている。ここから窺うことができるのは、作者は美意識に上位の価値を与える人間だということである。ならば「未来短歌会」に入会する前は「玲瓏の会」に所属していたという来歴も合点がいく。口語短歌なのに旧仮名遣いなのも同じ理由によると思われる。
スクリャービンのソナタみたいな夜だからちよつと酸つぱいきみの青梨
ぼくのなかで微睡んでゐた合歓の木をよびさますやうに夕立がくる
梅雨寒のホット・バタード・ラム熱しやけどの舌をちろつと見せて
ずつと海を見てゐるきみと溶けてゆく冷凍みかんが気になつてゐる
言へずじまひに終つたことば捨てにゆく水曜の午後、地下鉄メトロで海へ
  巻頭から数首引いた。「スクリャービン」や「ホット・バタード・ラム」、他の歌には「アイスワイン」「ジェラート」などの現代的なアイテムが並び、どうやら恋人らしい「君」との淡い関係が詠われている。微かに性愛の匂いがするが決して露骨に詠うことがない。そのお洒落で現代的で醒めた様子に、思わず西田政史の『ストロベリー・カレンダー』(1993年刊)を思い出してしまった。
戸惑つてゐるとききみの左眼がうすむらさきになるからこはい
                西田政史『ストロベリー・カレンダー』
コカコーラの壜の破片がこのゆふべわが道標なしてちらばる
水槽にグッピーの屍のうかぶ朝もう空虚にも飽きてしまつた
水晶のかけら投げ合ひからうじて恋愛といふ王国まもる
 1993年と言えば少し前に崩壊したバブル経済の気分がまだ濃厚に漂っていた時代である。西田は盟友・荻原裕幸とともに記号を駆使した短歌を作り、青春の倦怠と空虚を滲ませる歌を詠んだ。しかし秋月の短歌にはこの倦怠と空虚の気分は見られない。それに代わって感じられるのは穏やかで静かな美意識である。
地球空洞説にかぶれた兄さんが逆立ちをしてにらむ北極星ポラリス
祭りつづきで浮かれた街に三日ゐてまたゐなくなる薄荷商人
いつまでも冷めない紅茶いぶかれば遠くかすかにいかづちの音
 目次もなくパートに分けられてはいるものの、連作としての連続性やテーマは特に感じられない。これは前回取り上げた堂園昌彦の『やがて秋茄子へと至る』にも共通して言えることだが、一首が額縁で区切られたひとつの世界を作っていて、読む人は展覧会である絵の前に立ち止まり、やがて次の絵へと移動して行くように、一首一首の歌を他とは孤絶した世界として鑑賞することになる。このテーマ性と連作意識の低さは、現代短歌における〈私〉の変容と深い所でつながっているのだろう。テーマ性や連作を内側から支えるのは〈私〉の連続性だからである。
「見ないまま重ね録りされ消えてつた推理ドラマの刑事みたいね」
地底湖に落としたカメラ ぎこちないきみの笑顔を閉ぢこめたまま
水平がわづかに傾ぐくせのあるきみの写真に右下がりのぼく
 先ほど秋月の短歌には西田のような倦怠と空虚の気分は見られないと書いたが、大学を卒業する頃にバブル経済が崩壊し、その後の失われた20年を生きた秋月にも何らかの感慨はあるだろう。見られることなく重ね録りされて消えたドラマの刑事や、笑顔を閉じ込めたまま湖に沈んだカメラや、恋人の写真に右下がりに写る自分などにその片鱗をわずかに見ることができるかもしれない。
 『ストロベリー・カレンダー』の歌を引用するために、『現代短歌の新しい風』(ながらみ書房 1995)を書架から引っ張りだしたら、田島邦彦が書いた序文がたまたま目に入った。戦後生まれの歌人について来嶋靖生は『短歌現代』(1995年5月号)に次のように書いたという。「人間いかに生きるべきかといった思想・大状況に関わる歌は少なく、総じて現状否定・反権力・反権威の精神に乏しい」一方で、「表現の巧みさと繊細さが加わり、口語の巧みな使用、言語感覚の鋭さ新鮮さが見られる。」これが1995年当時の来嶋の目に映った短歌の状況であるが、それから20年が経過した。思想・大状況に関わる歌が少なく現状否定・反権力・反権威の精神に乏しいどころか、そのような歌が皆無となった現状を見て来嶋は何と言うだろうか。先ごろ鬼籍に入った石田比呂志のように、こんなものを短歌と認めるくらいなら、東京は青山墓地の茂吉先生の墓前に馳せ参じて皺腹かっさばいてくれるわと言うかもしれない。その反面、今の現代短歌は来嶋が指摘した「表現の巧みさと繊細さ」を研ぎ澄ます方向に進んでいるように見える。
 『迷子のカピバラ』に収録された歌を読むと、確かに繊細な感覚と選ばれた言葉があって、ある種の優しく静かなポエジーを醸し出してはいるのだが、それだけでいいのだろうかと感じる。もう少し表現と格闘した痕跡や、〈私〉の煩悶がなくてよいのだろうか。収録された100首をあっという間に読み終わって、そのような感想を持った。