第67回 鎌倉千和『ゆふぐれの背にまたがりて』

ゆふぐれの背にまたがりて駆けてゆくきのふの街に手をふりながら
            鎌倉千和『ゆふぐれの背にまたがりて』 
  日々の暮らしでポッカリと時間の空くことがある。夕食までの20分とか就寝までの30分とかという時間が空くと、まとまったことをするには足りないし、かと言ってボンヤリ過ごすのももったいない。そういう時に私が好んでするのは、ウィスキーをちびりちびりと舐めながら事典を読むことである。書架に揃っている三省堂の『現代短歌事典』『現代俳句事典』『現代詩事典』を引っ張り出して、どこでもよいから開いたページを読む。どこから始めてもいいし、どこで終わってもよいというのが、この読み方の利点である。そうやって偶然に出会ったのが今回の掲出歌だ。
 一読して語調の柔らかさと韻律の滑らかさに引きつけられる。どこにもごつごつとした無理なところがない。31音の定型は[4・1][2・5][3・2][4・3][2・5] の韻数律に分配されており、上句と下句でそれぞれ[多・少] と[少・多] が規則的に交替しているのが、滑らかな韻律を生み出している秘密である。また硬質な漢語がなく、平仮名を多用していることも柔らかい印象をさらに強めている。意味の面に目を移すと、夕暮れの背に跨るという幻想的なイメージが鮮烈な印象を与えている。作歌の基本が写実ではなく、心の中に独自の世界を持っている人だろうなと想像できる。
 もっと読んでみたいと思ったが、『ゆふぐれの背にまたがりて』は1978年出版の歌集で入手は困難だ。こんなときに便利なのが三枝昂之・田島邦彦編『処女歌集の風景』(ながらみ書房 1987)である。この本は戦後生まれの歌人の第一歌集からの抜粋で編まれたアンソロジーで、鎌倉の『ゆふぐれの背にまたがりて』も抜粋が収録されている。今回は併せて第三歌集『薔薇感覚』(沖積舎) も入手して読んだ。
 鎌倉千和かまくらちわは1950年生まれ。國學院大學に学び「國學院短歌」を経て、岡野弘彦の創刊した「人」に加わる。「人」の終刊後は「短歌人」に所属。第一歌集『ゆふぐれの背にまたがりて』、第二歌集『地の緑に向きて降りよ』(1983年)、第三歌集『薔薇感覚』(1987年) がある。
 鎌倉の第一歌集が出た1978年(昭和53年)はどういう年だろうか。時局的には70年安保闘争と学園紛争は数年前に終息し、日本が高度消費社会へと向かい始めた頃である。日本社会が安定感を強めて行く時期に当たり、10年後にはバブル経済の時代を迎えることになる。1978年に出版された歌集には、岡井隆『天河庭園集』、宮柊二『忘瓦亭の歌』、岡野弘彦『海のまほろば』、玉城徹『われら地上に』、小池光『バルサの翼』、花山多佳子『木の下の椅子』などがある。宮(1912年)、岡野(1924年)、玉城(1924年)、岡井(1928年)など、1910年代(大正初期)から20年代(大正末期から昭和初期)生まれの戦中派歌人が円熟期を迎え、その一方で数年前から歌壇に登場して来た一群の歌人たちを篠弘が「微視的観念の小世界」と評したのもこの年である。もう少し後に女歌のうねりが起るも、87年のサラダ現象で吹き飛ばされることになる。おおよそこのような時代背景である。
 こんな時代背景の中に『ゆふぐれの背にまたがりて』を置いて読むと、実に不思議な感覚を味わうことになる。時代のうねりとはまったく関係なく、時代を超越しているからである。
のぼりきる坂はろばろとゆふぐれは孔雀の羽にかさなりて展ぶ
菜の花も散りぬと聞くに首ながきむすめのあゆむ街は明るし
ゆふぐれとゆふやみのあはひ支へゆく橋あり薔薇をもちてわたらむ
昏れ方を風生れたれば杉の秀のあたりかなしみよりも透れり
ゆふやけのきはまれるとき「架橋」とふかくもうつくしきことばおもひぬ
 歌人を乱暴に「人生派」と「コトバ派」とに二分すると、鎌倉はコトバ派に属する。人生派の主要なテーマは、小池光がいみじくも指摘したように広義の「恨み」であるから、人生派の人はおおむね次のような歌を作る。
肉体の重さに針は揺れている おのれを量る夜更けのへや
           武藤雅治『指したるゆびは撃つために』
乗り超えることの険しさ峙てる崖いつだってひとつしかない
             武井一雄『わが裡なる君へ贈る歌』
 同じ1978年に出版された歌集から引いた。これら人生派の歌の基調をなす自己凝視が言葉の圧の高さを生み出している。一方、コトバ派の歌人は逆のベクトルから発想し、コトバを組み合わせることによって現実とは異なるひとつの世界を浮上させようとする。その究極の形態が「芸術のための芸術」(l’art pour l’art)を標榜したボードレールの球体世界である。さて鎌倉の歌を見ると五首目に「架橋」という言葉があり、鎌倉が浜田到に傾倒していることがわかる。このことが鎌倉の歌を読み解くひとつの鍵になるだろう。浜田はリルケの詩を好み、震えるような繊細な詩想の中に天上的世界を幻視した特異な歌人である。鎌倉は確かにコトバ派の歌人ではあるが、言葉の組み合わせの彼方に現出する透明な何物かを希求していると言えそうである。
 このことは鎌倉の「夕暮れ偏愛」にも現れている。上に引いた歌は二首目を除いてすべて夕暮れの歌であることに注意しよう。夕暮れは昼の世界が退いて夜の世界が訪れる境界で、物の形がおぼろげになる時間帯である。昼にも夜にも属さない、曖昧で両義的な特異時間である。夕暮れを好む人は、昼の強い光にくまなく照らされた現実世界(リアル)でもなく、夜の闇に包まれた夢と幻想の世界(イマジネール)でもない、いずれとも決めがたいそのあわいに心惹かれるのだ。上に引用した二首目「ゆふぐれとゆふやみのあはひ支へゆく橋あり薔薇をもちてわたらむ」がこのことをよく表していよう。ここでは昼と夜の境界よりもさらに細かい夕暮れと夕闇の境界に焦点が合わされており、そこに橋が架かっているという。この橋は浜田の「架橋」の橋と相似形である。歌の中の〈私〉はこの橋を薔薇を抱えて渡るという。薔薇は浜田へのオマージュであると同時に、自らの短歌営為を象徴するものでもあろう。
胸くらくいだきて飛ばむゆふまぐれ眼閉ずれば持つまぼろしの羽
ゆふやみもともにすくへば両の掌に息づくやうにみづは匂ひぬ
人界を踏みしめて立つまさびしきあなうらといふをわれは持つなり
ほそきくび虚空にのべてとぶ鷺の眼にてぶだういろに匂ふゆふやみ
すれちがひたる少年の香あはき罪に似て蓼ひとむらの吹かれてゐたり
 こう考えてみると鎌倉の歌においては、形式(韻律)が意味にまことによく奉仕していることがわかる。前衛短歌が多用した硬質な漢語や句割れ・句跨りなどの定型の再構築の試みは、「オリーブ油の河の中にマカロニを流したやうな」短歌定型の韻律を人工的に堰き止めることで、歌に思想性を付与せんとする試行であった。鎌倉が目指しているのはこれとは逆の道である。短歌定型の滑らかな韻律に言葉を嵌め込むことで、そのかなたに現実とも幻想とも区別のつかない心象に彩られた世界を立ち上げること、これが鎌倉が第一歌集で目指したことだと思われる。鎌倉の歌は「まぼろしの羽」への希求を詠ったものなのである。だからこうしてできた歌の世界が時代のうねりを超越しているのは当然のことと言えよう。
 第三歌集『薔薇感覚』は第一歌集から9年の年月を経て編まれたもので、沖積舎の企画した現代女流短歌双書の一巻として上梓された。第一歌集の統一された歌の世界はすでになく、作者が年齢を重ねるとともに歌にリアルが流入して来たものと思われる。
二十世紀こんこんと暮るるとおもひつつ息深くゐる闇の樹の下
あゆみ入ればいよよ濃く揺るる炎昼に太く描くべしわれの輪郭
この日頃いよよ虚ろなれば我それに徹してもみむからだを据ゑて
これの世を超えて漂泊さすらふおほいなる羽ばたきありぬ風のもなかに
遠くみゆる鉄橋を電車過ぐるなり暮れゆけば骨笛のやうなる電車
 『ゆふぐれの背にまたがりて』に色濃く漂っていた幻想的な雰囲気は影を潜め、それと軌を一にするように夕暮れ偏愛も姿を消している。それに替わって一首目の闇や二首目の炎昼と作者の〈私〉が頭をもたげて来る。これがざらざらとしたリアルの手触りなのだろう。
 鎌倉が第三歌集を出した同じ87年に『サラダ記念日』が一大ブームを巻き起こし、話題の中心はライト・ヴァースに舵を切ることになる。同年に加藤治郎が『サニー・サイド・アップ』、翌88年に荻原裕幸が『青年霊歌』、90年に穂村弘が『シンジケート』を世に問い、ニュー・ウェーブ短歌の流れが本格的に始まるのである。そんな流れから見ると鎌倉の第三歌集はいささか離れた場所にあると言えるだろう。
 しかしこのような短歌史的な背景を勘案したとしても、第一歌集『ゆふぐれの背にまたがりて』の作りだした世界の独自性はいささかも揺らぐことはない。フェミニズムと女歌の隆盛、ニュー・ウェーブ短歌の勃興といった後に続く時代の流れからは超然としてその世界は立っている。まるで異星から降り落ちて来た鉱物のようだ。上に引いた「ゆふやみもともにすくへば両の掌に息づくやうにみづは匂ひぬ」をそっと口ずさむと、多く用いられているya・yu・yoの半母音とmとnの鼻子音が歌全体を柔らかく包み、ゴツゴツしたr音や濁音が最小限に抑えられているため、流れるようになだらかな韻律が生まれている。現代の若手歌人の作る歌からこのような韻律は失われている。鎌倉の歌を読むと、「短歌は単なる一行詩ではない」ということをあらためて思い知らされるのである。