005 : 2003年5月 第4週 浜田 到
または、硬質の抒情による幻想世界

白昼の星のひかりにのみ開く扉(ドア)、
       天使住居街に夏こもるかな

               浜田 到『架橋』
 浜田は1918年 (大正7年)生まれの開業医で、1968年 (昭和43年)往診中に不慮の事故で死亡。享年49歳。リルケの詩に傾倒し、浜田遺太郎の筆名で詩人としても作品を発表しているらしい。歌集は死後遺稿をまとめて出版された『架橋』が唯一である。1951年(昭和26年)に『短歌研究』誌のモダニズム特集で、塚本邦雄と並んで世に出た。塚本や岡井とはちがって、その後の前衛短歌運動の積極的な担い手とはならず、歌壇とは距離を置いていたせいか、現在では話題にされることの少ない歌人である。

 浜田は、形相と存在をめぐるリルケの形而上学的詩の世界を、短歌に導入したと言われることがある。時に危ういほどの繊細な詩想のふるえには独特のものがあり、一度読んだら忘れることができない。掲載歌の「白昼の星のひかりにのみ開く扉」は、不可視の天上世界への魂の希求であり、「天使住居街」の表現はそれ自体が異様に美しい。塚本邦雄はかねてより、日本で最も美しい地名は、京都の中心街にある「天使突抜」だと述べているが、語感において一脈通じるところがある。事実塚本は、浜田の短歌世界を評して、「まさに硝子、いなクリスタルを思わせる、絢爛たる死の予感で満たされて」おり、「繊細無比の感性のきらめきは、宇宙的広がりを持つ」(『現代百歌園』)と賞賛した。そのとおり、浜田の短歌は現実を越えた眼に見えない世界への憧憬と、死の予感に満たされていて、夭折という年齢ではないが不慮の事故死という最後は、彼の作り出した詩の世界の完遂のようにも感じられるのである。

 星は血を眼は空をめぐりゆく美しき眩暈のなかに百舌飼はむ
 硝子町に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ
 ふとわれの手さえとり落とす如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ
 刻々に睫毛蘂なす少女の生、夏ゆくと脈こめかみにうつ
 死に際を思ひてありし一日のたとへば天体のごとき量感もてり

 浜田を推挽して世に出したのは、当時『短歌研究』の編集を担当していた短歌界のフィクサー中井英夫である。中井は、「これらの作を得て、私はようやく戦後短歌の、必要ではあったけれども一つの間違った方向、すなわち「意味の追求」から短歌が解放されたのを感じた」(『黒衣の短歌史』)と述懐したが、当時の短歌界の反応は冷淡だったという。確かに、ボッチチェリの絵が比類のない繊細な絵画世界を作り上げながら、その後の西欧絵画の歴史から見ると傍流に終わったように、浜田の短歌が示した世界は浜田ひとりのものに終わる運命のようにも見える。それほど孤独の影が深いのである。そこから、「彼を歌人といい切ってしまえるのかどうかためらわれる」(『現代短歌事典』の水原紫苑執筆項目)という感想も出てくるのだろう。

 おもしろいことに、最近出版されたばかりの篠弘編『現代の短歌100人の名歌集』(三省堂)は、浜田を黙殺している。編者の篠弘の師は窪田章一郎であり、窪田は短歌における「生活実感にもとづくリアリズム」とやらを提唱した人である。浜田の短歌世界が、このような短歌思想からは最も遠い地点に成立していることが、篠に黙殺された理由であろう。

 が、そんなことはどうでもよい。生よりは死を、昼よりは夜を、太陽よりは月を、長調の音楽よりは短調の音楽を、コーヒーよりは紅茶を、イヌよりは猫を、声高に叫ぶ芸術よりはささやくように低くつぶやく芸術を愛好する、メランコリー親和気質を持つすべての人は、私を含め、これからも浜田の短歌に心のふるえを感じるにちがいない。