この文章を書いている本日は3月20日の春分の日であり、掲出歌として季節を映す歌を選んだ。折しも路傍の白木蓮は満開を少しく過ぎて、舗道に花弁が散り敷いている。木蓮は花弁が萎れて散るとき、縁から汚らしく茶色に変色する。その様がかまどにくべた反故が火に触れて縁から燃え上がるようだと詠んでいるのである。上句が喩で下句が叙景となっており、両者のあいだに「のごとく」を補って読むのが定石だろうが、上句と下句のわずかな段差が上句を非在の光景としているようにも見える。
『駅程』は島田の第二歌集。第一歌集『no news』(2002年)から実に13年を経て昨年 (2015年)上梓された。私は本コラム「橄欖追放」の前身の「今週の短歌」で、2004年8月に『no news』を取り上げている。今から12年前のことである。歌集題名の「駅程」は駅と駅を隔てる距離を意味する。さまざまな駅を詠っていることからこの題名を選んだとあとがきにあるが、それだけではなく、歌集を駅になぞらえてその間の時間的懸隔を振り返っているのかもしれない。
13年という時間は長い。その間に島田にいろいろな変化が訪れている。2011年に師の石田比呂志が泉下の人となり、島田の拠る牙短歌会が解散する。そして新たな創作の場として阿久津英を編集発行人とする八雁短歌会に加わる。同じ年に歴史的仮名遣いを用いることとしたとあるので、本歌集は新仮名遣いによる最後の歌集となるはずである。全部で605首を収録してあり、ずしりと重く読み応えがある。
私は第一歌集『no news』の評に島田の短歌の特質として、「確かな措辞に裏付けられた端正な歌の姿と、決して荒げることのない静かな声」と書いたが、その本質は本歌集においても変わらない。大事件が詠まれることはなく、激情に流されることも決してない。島田が好んで詠うのは、卑近な日常の小さな光景である。
本来、近代短歌は叙情詩であり、強い情動が歌を生むという考え方がある。たとえば俵万智は次のように述べている。
こと島田に関してはこの図式は当てはまらないように思われる。島田は次のように語っている。
田村との往復書簡のテーマは、「こんにち文語短歌はいかにして現代詩たりうるか」というもので、島田の発言もこの文脈で捉えなくてはならない。短歌は今までも「旧態依然とした文語では現代に生きる私たちの心情を映した詩は作れない」という批判に曝されてきた。島田は口語の使用は、安易な同時代性のコピーを生み、「今ここに在るという自意識」をかえって滅却してしまうのではないかと危惧しているようだ。膨大な過去の文語作品と向き合い、自分も文語で歌を作ることによって、逆に自らの現在を意識することができるということではないか。
このように島田の思想は、「感動が歌を生む」というような短歌自然発生説(あるいは短歌自生説)ではなく、短歌はある方法と意識を持って作成するという短歌人為説である。「感動が短歌を生む」のではなく、逆に「短歌に詠まれたから感動がある」と言い換えてもよい。
『駅程』に収録された605首の歌はその方法の実践であり、意識的に彫琢された作品なのである。誰しも読んで感じるのは、歌の水準の平均値の高さであり、テキトーに作った歌が一首もないという精選ぶりである。
本歌集のかなりの部分は、島田がイギリスとオーストリアで2年間遊学した海外詠が占めている。この部分がなかなか読ませる。一般に羇旅歌は、見知らぬ土地の珍しい事物に接した驚きに引きずられるせいか、驚きだけが前面に出て名歌になることが少ない。島田の場合は海外滞在が長期間に及び、旅行者ではなく生活者の眼で物を見ていることと、もともとイギリスとオーストリアを中心とする政治学が専門なので、歴史的パースペクティブを内面化しているため、羇旅歌もひと味ちがうのである。
折しも「短歌研究」4月号の作品季評で、穂村弘と水原紫苑と吉岡太朗が本歌集を取り上げて批評しているのだが、これが滅法おもしろい。水原の「吉川宏志さんの歌の文体がそのまま哲学だとすれば、島田さんの場合は哲学がもともとあって文体が出ているという感じを持ちましたね」という言葉は鋭く本質を突いており、私が上に述べたことと符合する。
それはよいとして、水原と穂村は旧知の間柄であるせいか、タメ口でざっくばらんに話しているのがおもしろい。「この人、外国へ行ってると自分がインテリであることを恥じていないのよ。そこが好き、私。日本だと照れるじゃない、何か。知識人は知識人でいいじゃん」と水原が言えば、「それを短歌の無意識が許さないんだよ。短歌は、金持ちであることや、都会人であることや、知識人であることを許さないから、そうでない出方を要求してくる」と穂村が応じ、「何で短歌はそう貧乏たらしくなきゃいけないの? 私それすごく嫌い。金持ちだっていいじゃん」と水原が切り返す。すると「そこの配慮がないから、水原さんは女性歌人の本流になれないわけだよね。(…)そういう短歌の無意識な共感ゾーンからはみ出す紀野恵さんや水原さんや大滝さんは本流になれない」と穂村が答えている。なかなか考えさせる指摘である。
『駅程』は島田の第二歌集。第一歌集『no news』(2002年)から実に13年を経て昨年 (2015年)上梓された。私は本コラム「橄欖追放」の前身の「今週の短歌」で、2004年8月に『no news』を取り上げている。今から12年前のことである。歌集題名の「駅程」は駅と駅を隔てる距離を意味する。さまざまな駅を詠っていることからこの題名を選んだとあとがきにあるが、それだけではなく、歌集を駅になぞらえてその間の時間的懸隔を振り返っているのかもしれない。
13年という時間は長い。その間に島田にいろいろな変化が訪れている。2011年に師の石田比呂志が泉下の人となり、島田の拠る牙短歌会が解散する。そして新たな創作の場として阿久津英を編集発行人とする八雁短歌会に加わる。同じ年に歴史的仮名遣いを用いることとしたとあるので、本歌集は新仮名遣いによる最後の歌集となるはずである。全部で605首を収録してあり、ずしりと重く読み応えがある。
私は第一歌集『no news』の評に島田の短歌の特質として、「確かな措辞に裏付けられた端正な歌の姿と、決して荒げることのない静かな声」と書いたが、その本質は本歌集においても変わらない。大事件が詠まれることはなく、激情に流されることも決してない。島田が好んで詠うのは、卑近な日常の小さな光景である。
朝戸出の右の手に鍵かけながら朝の出勤時を詠んだ歌を集めてみた。一首目では家に閉じ込めたのは自分自身かも知れないと思い、二首目では通勤用の鞄が動物の皮革でできていることに改めて想いを馳せる。三首目ではふっきって家を出たつもりの憂愁が再び頭をもたげ、四首目では犬の背を照らす春の日差しを眺める。そして五首目では仕事を昨日中断したところから今日また始めると自覚するという具合であり、いずれも微細なことに注ぐまなざしがある。鎖 されいるはわれかもしれぬ
家出でて地の涯までもついてくるカバン獣の皮を被 けり
出づるとき室 に置き来しわが愁へ勤の路にあらはれにけり
用ありていそぐ午前の舗道 に犬の背ひかる春の日ざしに
朝戸出の風硬くして今日のわれ昨日のわれを引き継ぎにゆく
本来、近代短歌は叙情詩であり、強い情動が歌を生むという考え方がある。たとえば俵万智は次のように述べている。
短歌は、心と言葉からできている。まず、ものごとに感じる心がなくては、歌は生まれようがない。心が揺れたとき、その「揺れ」が出発点となって、作歌はスタートする。それは、人生の大事件に接しての大きな心の揺れであるかもしれないし、日常生活のなかでのささやかな心の揺れであるかもしれない。まず感動があり、それを契機として歌が生まれるという考え方で、門外漢にはとてもわかりやすい。歌の出自の正当性と真摯性を担保するという意味においても、好ましい作用を及ぼしてくれる。また感動を言葉に変換することのできるプロ歌人の能力の神秘性も高めてくれるかもしれない。しかしこの考え方は本当だろうか。賞に応募するために30首とか50首の連作を呻吟しながらひねり出している短歌作者には、歌以前に30コや50コの感動があったのだろうか。仮に感動が可算名詞であるとしてだが。
(『考える短歌』新潮新書、2004)
こと島田に関してはこの図式は当てはまらないように思われる。島田は次のように語っている。
詩で生活を表現するとは、詩の言葉で生活を考えるということであって、生活の言葉で詩を書くということではない。同時代性も然り。短歌における同時代性とは、同時代の風俗を言語的に複写するということとは自ずから異なりましょう。私が文語という〈場〉に踏みとどまるとすれば、古典世界に慰藉や武器を求めてではなく、今ここに在るという自意識を忘れぬためなのです。「今ここに在るという自意識を忘れぬため」に「文語という〈場〉に踏みとどまる」とは奇妙に逆説的な言挙げであるように見える。私自身の理解を加味して読み解くと次のようになるだろう。
「けり」や「かも」だけが文語体ではありますまい。そのつど先行作品を抵抗体としながら累積してきた、肉厚な文語のエクリチュールの歴史を私自身の抵抗体とすることで、否応なく私の現在が立ち現れてくるものと存じます。
(田村元との「往復書簡による現代短歌論 2」、「りとむ」平成14年11月号所収、『現代短歌最前線 新響十人』に再録)
田村との往復書簡のテーマは、「こんにち文語短歌はいかにして現代詩たりうるか」というもので、島田の発言もこの文脈で捉えなくてはならない。短歌は今までも「旧態依然とした文語では現代に生きる私たちの心情を映した詩は作れない」という批判に曝されてきた。島田は口語の使用は、安易な同時代性のコピーを生み、「今ここに在るという自意識」をかえって滅却してしまうのではないかと危惧しているようだ。膨大な過去の文語作品と向き合い、自分も文語で歌を作ることによって、逆に自らの現在を意識することができるということではないか。
このように島田の思想は、「感動が歌を生む」というような短歌自然発生説(あるいは短歌自生説)ではなく、短歌はある方法と意識を持って作成するという短歌人為説である。「感動が短歌を生む」のではなく、逆に「短歌に詠まれたから感動がある」と言い換えてもよい。
『駅程』に収録された605首の歌はその方法の実践であり、意識的に彫琢された作品なのである。誰しも読んで感じるのは、歌の水準の平均値の高さであり、テキトーに作った歌が一首もないという精選ぶりである。
暑き日のこころ尖りよ消化器のひたくれないに立つ真昼かな三首目の千鳥酢とは京都三条通りに今でも蔵を構える米酢のメーカーである。脇を通るとツンと酢の香りが漂って来る。いずれも措辞に無駄がなく、助詞に至るまで言葉が動かない歌である。
あぱあとの壁に凭れて笑む父母のモノクロに日の白は残りぬ
用あらぬ三条ゆけば千鳥酢に流れ矢のごと酢の香は降れり
花かげの運転席に弁当をつかうひとあり光る白飯
飛び降りの死人 のありし舗石に浄めの塩の白そそりたつ
本歌集のかなりの部分は、島田がイギリスとオーストリアで2年間遊学した海外詠が占めている。この部分がなかなか読ませる。一般に羇旅歌は、見知らぬ土地の珍しい事物に接した驚きに引きずられるせいか、驚きだけが前面に出て名歌になることが少ない。島田の場合は海外滞在が長期間に及び、旅行者ではなく生活者の眼で物を見ていることと、もともとイギリスとオーストリアを中心とする政治学が専門なので、歴史的パースペクティブを内面化しているため、羇旅歌もひと味ちがうのである。
陽にうすく灼けたる顔は昼ふけの窓に映ゆあな黄色のひと一首目は海外あるあるで、窓硝子に映った自分の顔がまわりとちがう黄色人種の顔であることに気づくという場面だ。二首目、緯度の高い国では夏時間のあいだ、日の暮れるのがほんとうに遅い。パリでも午後9時を過ぎないと日が落ちない。実感がこもっている。三首目はおそらくイラク戦争の戦死者だろう。五首目と六首目は本歌集白眉とも言える歌である。結句を「船載せてあり」とすることで、エイヴォン川だけがずっしりとした存在感を持ってあとに残る。六首目は水鳥が羽ばたいて水面から飛去る光景を詠んだ歌だが、ここでも「水は残れり」の結句が、水鳥の飛翔のあとしばらく時間が経過して、波立ちが収まり平らかになった水のみを前景化して揺るぎない。
外つ国に歩むほかなく夏時間すなわちながき黄昏にあり
戦死者は白布の淡き染みのごとイギリスの日々にありてあらずも
大戦に落命せりしおおかたの名はフランツとヨーゼフなりき
みずからの暗さに水は暮れながらエイヴォン川は船載せてあり
放たれし弾みのありしありさまに羽ばたきてのち水は残れり
折しも「短歌研究」4月号の作品季評で、穂村弘と水原紫苑と吉岡太朗が本歌集を取り上げて批評しているのだが、これが滅法おもしろい。水原の「吉川宏志さんの歌の文体がそのまま哲学だとすれば、島田さんの場合は哲学がもともとあって文体が出ているという感じを持ちましたね」という言葉は鋭く本質を突いており、私が上に述べたことと符合する。
それはよいとして、水原と穂村は旧知の間柄であるせいか、タメ口でざっくばらんに話しているのがおもしろい。「この人、外国へ行ってると自分がインテリであることを恥じていないのよ。そこが好き、私。日本だと照れるじゃない、何か。知識人は知識人でいいじゃん」と水原が言えば、「それを短歌の無意識が許さないんだよ。短歌は、金持ちであることや、都会人であることや、知識人であることを許さないから、そうでない出方を要求してくる」と穂村が応じ、「何で短歌はそう貧乏たらしくなきゃいけないの? 私それすごく嫌い。金持ちだっていいじゃん」と水原が切り返す。すると「そこの配慮がないから、水原さんは女性歌人の本流になれないわけだよね。(…)そういう短歌の無意識な共感ゾーンからはみ出す紀野恵さんや水原さんや大滝さんは本流になれない」と穂村が答えている。なかなか考えさせる指摘である。
それはさておき13年待ったのは無駄ではない。第一歌集『no news』は現代歌人協会賞と現代歌人集会賞を受賞したが、『駅程』は第一歌集にもまして優れた歌集である。