こもりぬのそこの心に虹たちてあふれゆきたり夢の青馬
江田浩司『まくらことばうた』
江田浩司『まくらことばうた』
「未来」「Es」に拠る気鋭の歌人・江田浩司がおもしろい歌集を出した。『まくらことばうた』(北冬舎)である。すべての歌の初句に枕詞を置き、頭音のいろは順に配列するという技巧的な造りである。たとえば掲出歌では「こもりぬの」(隠り沼の)は「下」にかる枕詞だが、少しずらして「そこ」にかけてある。「こもりぬの」は本来は意味のある言葉だが、ここでは「そこ」を引き出すための装置として使われている。「隠り沼の底のように私の心の奥底には」という意味だから、直喩の構造を持ちながら言語的には直喩ではない連辞となっていて、その微妙な接点に歌に立ち上がる喩の姿がある。
あとがきには「初句の『枕詞』と、それにより導き出される『被枕詞』に触発されて創作したものである」とある。「被枕詞」とは聞き慣れない造語だが、これについては後に触れる(注)。ぱらばらと見ると「いはばしる」「ちはやぶる」「つきくさの」「ぬばたまの」などよく知られた枕詞もあるが、見慣れないものも少なくない。
見ようによっては時代錯誤的な枕詞を配した歌をなぜ平成の世に作るのだろうか。短歌の方法論に自覚的な江田のような歌人が、単なる気まぐれや戯れで作ったとは思えない。以下、私の勝手な想像を交えて考えてみたい。
明治期に近代短歌が成立したとき、それまでの和歌で多用されていた枕詞・序詞・掛詞などの修辞は古くさく不用なものとして排除された。近代短歌のモットーは「自我の詩」である。詠うべき主題は〈私〉だ。とりわけ写実は言葉とモノとの一対一の対応を前提とすることから、指示物のない枕詞・序詞・掛詞は異物である。以後、短歌を自己の真情を盛る器と見なし、言葉を〈私〉を表現するための道具とする態度が生じた。かくして言語記号は歴史・神話に深源を持つ本来の不透明性を失い、限りなく透明な媒体となった。今日、現代短歌の「棒立ち」化や短歌の言葉のフラット化が指摘されるが、この現状は近代短歌が選択した道の延長線上にあると見なすこともできる。
さて、江田があとがきで書いた「初句の『枕詞』と、それにより導き出される『被枕詞』」に立ち戻ってみよう。
また古語辞典を繙くと、「うつせみの人目を繁みいははしの間近き君に恋ひわたるかも」という万葉集の歌が掲載されている。これは「いははしの」の用例であると同時に、江田の短歌の本歌である。つまり江田は枕詞を用いることで語の選択権を言語に譲り渡しただけではなく、大規模な本歌取りをしているのだ。これもまたオリジナルな自我の詩であれとする近代短歌のセオリーに反している。
なぜそんなことを試みるのか。その意図は本歌集のあとがきに過不足なく述べられている。「古代の、異質な言葉の世界に刺激を受けながら、内省的な言葉との内なる出逢いを即興的に表出し、言葉自体に内在する超越的な力を創造性へと発揮させることを目的としている」とある。つまりは作歌の重心を〈私〉の側から言語の側へと転移させるということだ。いったん〈私〉を括弧に入れて、言葉が言葉を導き出し、言葉が別の言葉と呼応する膨大な関係性の網の目の律動に身を委ねるのである。
この態度から二つのことが帰結する。ひとつは和歌の修辞が立脚していた「美の共同体」と歴史性への意識であり、もうひとつは枕詞の少なからずが地名に由来することから来る「地霊」(genius loci) の復権である。旧来の「美の共同体」はとうに崩壊しているから、江田は自力で新たな共同体をめざすのだろう。地霊については江田もあとがきで触れており、東日本大震災後に本歌集を上梓する意味のひとつとして意識している。
おそらく江田には現代の歌語が痩せ細ってしまったという認識がある。枕詞を通じて言語の自立的な律動と呪的強度を賦活することで、新たな詩語を志向しているのだろう。次の歌はその述志とも読める。
あとがきには「初句の『枕詞』と、それにより導き出される『被枕詞』に触発されて創作したものである」とある。「被枕詞」とは聞き慣れない造語だが、これについては後に触れる(注)。ぱらばらと見ると「いはばしる」「ちはやぶる」「つきくさの」「ぬばたまの」などよく知られた枕詞もあるが、見慣れないものも少なくない。
をぐるまのわが身に響む鳥の声、少女らのこゑ風や傷まむ一首目、「をぐるまの」の「を」は「小」だから「小さな車」つまり「小さな牛車」だろう。はて、これは枕詞か。『全訳古語例解辞典』(小学館)にも片桐洋一『歌枕歌ことば』(笠間書院)にも掲載がない。おそらく江田の創作枕詞なのだろう。「くもりびの」(曇り日の)、「ちりひぢの」(塵泥の)、「やくしほの」(焼く塩の)、「かやりびの」(蚊遣り火の)なども言葉としては存在するが枕詞ではない。とするとこの歌集での「枕詞」とは、狭義の枕詞ではなく、広く歌語・歌枕と解釈すべきなのだろう。
くもりびの影にもあらぬわれなればうす墨色の受難を恋へり
ちりひぢの数にもあらぬわが身にて賽の宴の流刑地ならむ
やくしほの辛き思ひに爪を立て詩の在りかとなれる千鳥よ
かやりびの下燃え蜜を垂らす世に骨太の声ひびきわたりぬ
見ようによっては時代錯誤的な枕詞を配した歌をなぜ平成の世に作るのだろうか。短歌の方法論に自覚的な江田のような歌人が、単なる気まぐれや戯れで作ったとは思えない。以下、私の勝手な想像を交えて考えてみたい。
明治期に近代短歌が成立したとき、それまでの和歌で多用されていた枕詞・序詞・掛詞などの修辞は古くさく不用なものとして排除された。近代短歌のモットーは「自我の詩」である。詠うべき主題は〈私〉だ。とりわけ写実は言葉とモノとの一対一の対応を前提とすることから、指示物のない枕詞・序詞・掛詞は異物である。以後、短歌を自己の真情を盛る器と見なし、言葉を〈私〉を表現するための道具とする態度が生じた。かくして言語記号は歴史・神話に深源を持つ本来の不透明性を失い、限りなく透明な媒体となった。今日、現代短歌の「棒立ち」化や短歌の言葉のフラット化が指摘されるが、この現状は近代短歌が選択した道の延長線上にあると見なすこともできる。
さて、江田があとがきで書いた「初句の『枕詞』と、それにより導き出される『被枕詞』」に立ち戻ってみよう。
いはばしの間近き君に深むかも真水に浮かぶ天体の香よ「いはばしの」は「間」「近し」「遠し」にかかる枕詞である。したがってこの歌では「間近き」が枕詞によって導き出された「被枕詞」に当たる。枕詞と被枕詞の間には呼応関係があるため、枕詞に続く語の選択は自ずと制限される。歌の作り手はここで語の選択権を言語の側に譲渡する。これは近代短歌の原則に反する行為である。
また古語辞典を繙くと、「うつせみの人目を繁みいははしの間近き君に恋ひわたるかも」という万葉集の歌が掲載されている。これは「いははしの」の用例であると同時に、江田の短歌の本歌である。つまり江田は枕詞を用いることで語の選択権を言語に譲り渡しただけではなく、大規模な本歌取りをしているのだ。これもまたオリジナルな自我の詩であれとする近代短歌のセオリーに反している。
なぜそんなことを試みるのか。その意図は本歌集のあとがきに過不足なく述べられている。「古代の、異質な言葉の世界に刺激を受けながら、内省的な言葉との内なる出逢いを即興的に表出し、言葉自体に内在する超越的な力を創造性へと発揮させることを目的としている」とある。つまりは作歌の重心を〈私〉の側から言語の側へと転移させるということだ。いったん〈私〉を括弧に入れて、言葉が言葉を導き出し、言葉が別の言葉と呼応する膨大な関係性の網の目の律動に身を委ねるのである。
この態度から二つのことが帰結する。ひとつは和歌の修辞が立脚していた「美の共同体」と歴史性への意識であり、もうひとつは枕詞の少なからずが地名に由来することから来る「地霊」(genius loci) の復権である。旧来の「美の共同体」はとうに崩壊しているから、江田は自力で新たな共同体をめざすのだろう。地霊については江田もあとがきで触れており、東日本大震災後に本歌集を上梓する意味のひとつとして意識している。
おそらく江田には現代の歌語が痩せ細ってしまったという認識がある。枕詞を通じて言語の自立的な律動と呪的強度を賦活することで、新たな詩語を志向しているのだろう。次の歌はその述志とも読める。
ちはやぶる神にしあれば言の葉は明るき闇を秘めにけるかも神=logosに秘められた明るい闇とは、言葉に定着され陳腐化する以前の豊饒な意味の世界をさすのだろう。実際に本書を読んでいると、密教の声明か延々と続く念仏を聴いているときのように、母音と子音に分解された音のうねりに呑み込まれそうになり、ふと吾に返る瞬間がある。興味深い経験である。本歌集が現代短歌シーンでどのように受け止められるか見守りたい。
(注)「被枕詞」は万葉学者の古橋信孝氏が使った用語だとのご指摘をいただいたので、訂正したい。