第123回 目黒哲朗『VSOP』

ゆふかげの糸こがねいろひともとの花をめぐりて我を遠くす
                  目黒哲朗『VSOP』
 目黒は1971年生まれ。「原型歌人会」に所属し、斎藤史の最後の弟子となる。高校生にときに近所に住んでいた斎藤を訪問し、弟子入りを乞うたという。1993年に歌壇賞を受賞、2000年に第一歌集『CANNABIS』を上梓した。セレクション歌人『目黒哲朗集』の解説で藤原龍一郎は、「本来この歌集を顕彰すべき現代歌人協会賞は明らかな取り落としをした」と当時の歌壇の不明を難じている。『VSOP』は第一歌集以来実に13年ぶりの第二歌集である。本コラムの前身の「今週の短歌」で『CANNABIS』を取り上げたのは2005年8月なので、それから数えても8年ぶりということになる。セレクション歌人『目黒哲朗集』で「CANNABIS以後」として収録されていた歌が、『VSOP』に一首も見あたらないところをみると、目黒自身の変化と選歌の厳しさがうかがえる。
 『VSOP』を一読して強く感じたのは、13年という長い時間が一人の男にもたらした奥深い変容である。作者20代の最後に世に問うた『CANNABIS』はまぎれもない青春歌集であった。
きさらぎの光あまねきレンズにはさしても極まりゆく孤独見ゆ
ポケットに闇ひとつかみ忍ばせてキャンパスを行く学生われは
桃を食ふ桃のひかりともろともに一夏いちげのわれを葬るごとく
 歌のトーンとテンションの高さ、世界とたった一人で対峙する緊張感、若者特有の孤独感とその裏返しとしての根拠のない自負、どれをとってもキラキラするような青春歌である。しかし『CANNABIS』から13年、20代の終わりだった作者は、郷里の長野に暮らし結婚して二児をもうけ、40歳を過ぎて中年を迎える。
若き日はかく過ぎなむにさにつらふ桃の実を手に包まむとしつ
今年また雨水のひかり〈東京にゐた頃〉といふ痛み遙けし
三十代を生きるとはどういふことか嘔吐のたびに声漏らしつ
夕立とわたしの中の夕立が図書館の玻璃はさみて鳴れり
叫びたい言葉ひとつも見つからず深夜の交差点を渡つた
抱き上げてやる息子まだ運命や限界といふ甘美を知らず
 一首目はずばり過ぎ去った青春という時間を惜しむ歌。「さにつらふ」は「色」「もみぢ」「紐」などに係る枕詞だが、本来「赤い顔をした」という意味なので桃の赤さを意味している。「桃」は目黒の短歌に頻繁に登場するキーアイテムで、憧憬や愛情などの象徴である。二首目は東京で二松学舎大学に通っていた時期を〈東京にゐた頃〉と表現しているのだが、その当時を思うとき心に感じる痛みももはや遠いものになったと感慨している。三首目は30代を生きる辛さを直截に詠ったもの。四首目の「わたしの中の夕立」は、日常生活の中では埋もれている自分の内部にくすぶる激しさのことだろう。同じ構図は五首目にもあり、ここには心の激しさの不発が感じられる。六首目、頑是無い息子は、自分を待ち受ける運命や自分の能力の限界をまだ知らないが、いずれ息子も知ることになるそれらを「甘美」と呼ぶところに中年の心の屈折がある。
 誰しもいつまでも青春を引き摺って生きることはできない。青春の燦めきが失せたとき、待ち受けているのは退屈な日常である。目黒はこの日常と日々格闘しているように見える。この闘争に勝利はない。勝つのは常に日常だからである。目黒の歌のあちこちに漂う苦みはそのことを証している。
 本歌集の中でかなりの分量を占めるのは、二人の子供を詠った歌である。
蝶のをつまんで遊びゐたる子が空缶に仕舞うある静けさを
あばら骨ありありと野に展げゐる獣のむくろ子に見せてやる
なんて小さな扁桃腺を腫らしつつ息子は握るトミカの緑
父として壁でありたし叩いてもたたいても胸やがて秋雷
わたしには風も時間も止められずしだるる花へを抱き上げぬ
噴水へ蜻蛉のやうに近づいて娘よ居なくなるときは言へ
 母親の歌が母子一体的傾向を見せるのとは異なり、父親が子供を詠う視線は距離と屈折を伴うのが常である。上に引いた一首目は本歌集屈指の美しい歌。子が空き缶にしまうのは蝶の屍骸である。それを「ある静けさ」と捉えた措辞がこの歌の命である。そこにやがて子も知ることになる生の真実が潜んでいるかのようだ。二首目の示すように、父親は子供に教えねばならぬことがあると考えるものだ。子供はやがて一人で世の荒波を渡っていかねばならないからである。だから父親が子供を見る視線には、常に未来が含まれていると言ってよい。三首目のトミカはミニカーの玩具。扁桃腺が腫れて寝ている子供を詠った歌で、父親の愛情が溢れている。四首目も典型的な父の歌。父が越えられない壁として子供の前に立ちはだかるのは、子供の前進を阻止するためではなく、将来出会うもっと大きな壁に備えて力を付けさせるためである。五首目と六首目は下の女の子を詠った歌で、男の子への接し方とはおのずと異なる。父は娘がこのまま成長して自分から離れていく時間を見ているのである。「子供可愛い」「孫可愛い」歌は読んでいて辟易するものだが、目黒が子供を詠う歌には適度な距離間隔があり、読んでいて好ましい。
 集中で異彩を放つのは第三章である。詞書に詳しく解説されているように、「文藝春秋」の平成23年8月臨時増刊号に掲載された東日本大震災を経験した児童の作文に着想を得た歌がかなりの数並んでいる。
ないてゐた。こたつのていぶるのしたで わたしはママをよんで、こはくて
その夜は画用紙一枚で寝たといふその画用紙のいづくゆきけむ
それを海と呼ぶしかなくて暗い外を見ると周りが海で驚く
町と私たちの心がこはされていつたその夜に渡されたプリン
塩水が入ればだめになるものが車だつたか、母を探して
 なかには児童の作文の言葉をほぼそのままに入れた歌もあれば、児童の言葉に着想を得て作ったものもあるという。震災後多くの歌が作られたが、このような手続きを踏んだものはなかったように思う。目黒がこのような方法を採った理由は次のようなものだと考えられる。現地にいて被災した人を除けば、私たちの大部分はTVなどの報道と映像によって震災を知った。そこには生の経験が欠如している。だから目黒は実際に被災した児童が書いた作文のなかにいわば入り込み、その眼と手を借りて仮想的に憑依することで、言葉が上滑りする危険性を回避しようとしたのだろう。
 集中には定型に納まらない破調の歌や、『CANNABIS』時代にはなかったような緩んだ歌も見られ、気になるところではある。次のような歌を成果としてあげたい。
ゆきもみぢかすみゆふだち 匂ひたつ死をひらがなの闇にしまへり
その先に神在るごとくつちひくく蟻は動かぬ蟻を運べり
梨の花ゆめの白さに咲き揃ひ樹のそばに人老いてゆくかな
静物画学びし夏よ玉葱の泥ざらざらと洗ひ落とせば
飲食は皿を汚してなされけり異性の指が動くみづいろ
鍵五つ持てば世界にはろばろと五枚の扉暮れてゆくかも

119:2005年8月 第5週 目黒哲朗
または、光のなかに生のかたちをくきやかに描く

水鳥のつばさを奪ふ シャッターを
       切りて時空の網を放てり

             目黒哲朗『CANNABIS』
 目黒哲朗は掲出歌を含む写真撮影を題材とした連作「つばさを奪ふ」で、平成5年度の歌壇賞を受賞している。写真は一瞬の時間を切り取り、印画紙に定着する。その行為を「時空の網を放てり」と表現しているのである。時間だけでなく空間もまたここに含まれるのは、時間を固定すると対象は空間的にも動くことができなくなるからであり、このように時空は私たちが生きる四次元世界において連動するパラメータとなっている。一字空けがあるのは、初句・第二句を「シャッター」にかかる連体修飾語と読まれたくないからであり、「水鳥のつばさを奪ふ」の隠された主語は〈私〉である。

 目黒哲朗は1971年(昭和46年)生まれ。「原型歌人会」会員で斉藤史に師事している。『CANNABIS』は2000年に出版された著者の第一歌集である。歌集題名のCANNABISは大麻草のこと。『短歌ヴァーサス』5号に掲載された伊藤一彦の文章によれば、歌壇賞の選考の際、選考委員のほぼ満場一致で受賞作に推されたという期待の大型新人である。

 伊藤は同誌の評のなかで、目黒の短歌の「みずみずしさ」と「少年性」に言及しているが、確かに本書を一読した人がまず抱く感想は、きらきらした夏の光のなかで息づく少年性であろう。それは次のような一連の歌のなかに特に強く感じられる。

 夏の蝶を捕へむとして逆光の父の背中を追ひかけてゐた

 夏草の茂る径(こみち)を父が踏みそして幼きわれが踏みたり

 ポケットに揺るる毒瓶みづいろのカミキリムシを眠らせてある

 夏の蝶の美しさとはかなさは少年時代の象徴であり、少年は蝶を毒瓶に封入するようにやがて少年時代を封印する。そのさまが逆光のなかの記憶として定着されている。宮崎駿監督の名作「となりのトトロ」で最も印象的だったのは、田舎家で父と暮らす姉妹の世界に溢れる光である。確かに昔を振り返ってみても、子供の目で見た世界には光が溢れていた。味を感じる舌の味蕾は年齢とともに減少してゆき、味に対する官能度が低くなるというが、視覚についても同じことがあるのだろうか。子供の眼球は大人よりも光刺激にたいする官能度が高いというような生理学的事実があるのかもしれない。目黒のこの一連の歌は、そのような官能度の高い少年の目で見た世界である。

 しかし少年性はいつまでも光りの溢れる世界に留まることはできない。光のなかに屈折と影が生じる午後がある。その過程もまた目黒の歌には捉えられている。

 寝転びて空へ投げたる自転車の鍵はひかりを溜めて戻り来

 くれなゐを抱くかたちに少年はポストの中の闇を覗けり

 紫と青の絵の具がいちはやく終はつてゆく十八歳の夏

 パレットで火薬を溶いてゐることに少年はいつ気づくのだらう

 寝転んだまま自転車のに鍵を空中に投げるという動作には、早くも微量の倦怠が感じられる。また少年はやがて、見知らぬポストの中の闇を覗くようにもなる。パレットに溶く絵の具が実はやがて発火する火薬であることに、まだ少年は気づいていない。これらの歌は成長してから過去の少年時代を振り返る形で作られており、そこに注がれる眼差しはもはや少年性を脱したものであることは言うまでもない。

 次のような歌は青年期を迎えてからのもの。ここでは詠われている世界と詠っている〈私〉とは時間的に同時であり、まごうことなき青春歌と言える。

 新宿は土曜日の午後 目をそらしあふことがとても美しい街

 ポケットに闇ひとつかみ忍ばせてキャンパスを行く学生われは

 二十代せめてガラス器くらゐには光りてやらむ毀れてやらむ

 自転車は夏へ走るを 冥府までいくばくもなき坂を思へり

 決して譲れぬ孤独がわれにあることもしぐるる窓に伝ふひかりは

 川風に揺るるワンピースのそばでこんなに遠くきみを思へり

 一首目、長野から在来線に乗ると新宿に到着する。長野から東京に出てきた青年の目には、東京とは人々が目をそらし合うよそよよしい町に見える。ここには地方在住者の軽い屈折と同時に、微量の憧れが感じられる。二首目は二松学舎大学文学部で学生生活を送る青年の歌であり、作者の自画像だが、ポケットのなかに一掴みの闇を持たない青年の方が少ないだろう。三首目、せめてガラス器のように光りたいという想いと、ガラス器のように華やかに割れてみたいという負の願望とが同居するさまを詠んでいるが、これもまた多くの青年に共有される心情である。四首目、まだ遠くにあるとはいえ死への思いは意外に青春の近くにある。五首目と六首目は対人関係を詠んだものだが、人に近くありたいという想いと、孤高を守りたいという想いは、これまたしばしば青年のなかにふたつながらに存在するものである。対人関係を詠んだ歌はこの歌集にそれほど多くない。ほぼ同世代の横山未来子の第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』に収録された歌の多くが相聞であり、横山の世界把握の中心に対人関係があるのとは対照的である。この事実もまた目黒という歌人の資質の一面を物語るものだろう。

 次のような歌は目黒のもうひとつの資質を明らかにしてくれる。

 雛壇は女(をみな)らの手に飾られぬ土中(つちなか)に蛇めざむるころか

 晩春の疎林をゆけば自転車は骨ぼね白くわれを離れず

 六秒の露光完了 陰画紙に記憶の森は焼きつくされて

 振る雪と雪のあはひのあかるさに死の装束は織られつつゐむ

 天変はちかく来たらむスケートの刃にたましひを載せている春

 桃を食ふ桃のひかりともろともに一夏(いちげ)のわれを葬るごとく

 ペン先のひかりを空に近づけてブルーブラックの夕暮れを待つ

 薔薇の花散る無秩序が美しい町ゆゑわれの消息を問ふな

 晩秋の虹眉(まみえ)濃く立ちにけり君のそびらの大いなる死者

 これらはストレートな青春歌ではなく、もう少し成熟した大人の目で世界を眺めており、そこに複雑に折り畳まれた感性の綾を見ることができよう。一首目、女たちが飾る雛壇と土のなかで目覚めようとしている蛇のあいだには、遠いながらも同期する官能的な関係が読みとれる。二首目はとても絵画的な歌で、乗っている自転車を白い骨と感じるのは、自転車と一体化した自分も同じように骨と感じているからである。三首目は連作「つばさを奪ふ」のなかの写真の現像室での作業を詠んだもの。「記憶の森は焼きつくされて」は、「記憶にある森が陰画紙に焼き付けられる」とも解釈できるが、それとダブルイメージで「森が実際に焼きつくされる」という意味を振り払うことができず、そこに世界の故なき暴力性が感じられる。四首目・五首目・六首目は集中で特によいと思った歌だが、これらは写実の歌ではなく、世界の把握の仕方にもう少し距離感があり技巧が凝らされている。内容的には危うい生をかろうじて生きていると実感したときの戦慄だろう。七首目と八首目はもう少し観念と作り込みの方向に踏み込んだ歌。これらの歌は「言葉」から出発して作られていて、集中では他の歌とは微妙に温度が異なる。

 文語定型を駆使する目黒の歌の安定感は高く、若手歌人のなかでも群を抜いている。かつて穂村弘は、紀野恵大塚寅彦中山明ら80年代に活躍し始めた歌人のなかで文語文体を駆使する人たちを取り上げて、彼ら以後そのような高度な文体を駆使する歌人は絶滅したと述べたことがある(『短歌ヴァーサス』2号)。その理由として、「八〇年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」と続けている。しかしながら、紀野や大塚よりずっと下の世代に属する目黒や横山未来子らは、文語文体で清新な感情を詠うことに成功している。一方おもしろいことに、目黒や横山と同じ世代でも口語文体の歌人の第一歌集は、世界の閉塞感や漠然とした虚無感・終末感が色濃く漂っていて、「清新な青春歌集」というラベルがそぐわないものが多い。このちがいはなかなかおもしろい問題ではないだろうか。

 私は『CANNABIS』を、蝉の声が弱まってやがて聞こえなくなる夏の終わりに読んだ。光と影の交錯するこの歌集は、夏の終わりに読むのがよい。そう感じさせる歌集である。