042:2004年3月 第2週 中山 明
または、白鳥はラストトレインに乗って遠ざかる

歳月は餐をつくして病むものの
 かたへに季節(とき)の花を置きたり

            中山明『愛の挨拶』
 中山明の名前を最初に見たのは、塚本邦雄『現代百歌園』(花曜社1990年刊)のなかである。この本は塚本が100人の歌人を選び、それぞれの代表歌を挙げて、塚本特有の高いトーンで解釈を施したアンソロジーであり、私が短歌に興味を抱くきっかけとなった本でもある(現在は絶版)。塚本は中山の第一歌集『猫、1・2・3・4』(遊星舎1984年刊)から、その後よく引かれることになる次の歌を挙げている。

 あるいは愛の詞(ことば)か知れず篆刻のそこだけかすれてゐたる墓碑銘

 七・七・五・八・七(または四・十・五・八・七)の破調ながら、三句「篆刻の」の定型五音と漢字表記の強い存在感が、上二句のなだれ込むような十四音を静かに受け止め静止させ、下句にゆるやかに接続することで見事に定型として成立している。「そこだけかすれて/ゐたる墓碑銘」の句跨りも前衛短歌風である。塚本が代表歌とした理由がよくわかる選歌といえよう。「暗い可能性、甘美な断念、新鮮な古典主義、その他、種々の背反する美的要因を、ほとんど無傷のかたちで三十三音化した稀に見る佳品」と賛辞を呈している。

 孫引きになるが、第一歌集『猫、1・2・3・4』には、他に次のような歌が見られる。

 日常のほとりをあゆむ青鷺の脛うつ水もあやまたず見き

 月を見る平次の腰にくろがねの〈交換価値〉の束はゆれたり

 百億の華燭の径よ 婚畢(を)へて白き辛夷の宵を還らむ

 水風呂に夏の陽のさすひとときをわれは水夫の眸をしてをらむ

 誰もゐぬ椅子の描かれてあるごとく簡明に来る晩年をおもふ

 中山は1959年生まれで、第一歌集刊行時は25歳である。「あるいは愛の詞」は21歳の作だという。その年齢で文語定型を自由に操り、加えて前衛短歌の語法も自家薬籠中のものとしていたとは驚くべき早熟と言わねばならない。穂村弘は、「このような高度な文体を自由に使いこなす若者は彼らを最後に絶滅した」と述べている(連載「80年代の歌」第2回、『短歌ヴァーサス』2号)。ちなみに「彼ら」とは、中山、紀野恵大塚寅彦をさす。穂村は「八〇年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」と続けているが、今の短歌の動向を考えるうえで考えさせられる言葉である。

 文体の早熟と並んで注意を引かれるのは、中山の歌に詠まれた〈想い〉である。墓碑銘のかすれを見て、愛の詞だったかも知れないという発想は、21歳の若者のものとは思えない。他の歌に見られる、「日常のほとりをあゆむ青鷺」とか、「婚畢(を)へて白き辛夷の宵を」なども同じである。引用歌の最後「誰もゐぬ椅子」の「簡明に来る晩年」など、ほとんど「老成」という言葉がふさわしいほどである。モラトリアムが限りなく引き延ばされた現代では、若者はいつまでも若く、歳を取ることができなくなったが、中山の感性は明らかにモラトリアム時代到来以前のものであり、ほとんど古典的とすら思える。

 文芸の世界で早熟は栄光であると同時に災厄でもある。早熟はレエモン・ラディゲのような夭折を招き、アルチュール・ランボーのような歌のわかれの遠因となる。かつて同人誌「かばん」で中心的役割を演じた中山も、第二歌集『愛の挨拶』(沖積舎1989年刊)を最後に、短歌の世界から遠ざかってしまった。第三歌集『ラスト・トレイン』は中山のホームページ翡翠通信で読むことができるのみである。

 『愛の挨拶』からいくつか拾ってみよう。

 欲望の淵の深みに潜みゐる鮮紅の魚をおもひゐたりき

 わたくしはわたくしだけの河に行く 五月、非力な釣竿(ロッド)を提げて

 川下にあまたの街をちりばめてはなやぐごとし初夏の早瀬は

 追憶のかたちとなりてしのばずのみなもに浮かぶけふの鴨たち

 万物の日暮れにあをき雨ふりてつひに熟さぬ実は堕ちにけり

 文語定型の基本は守りながらも、第一歌集に比べて明らかにひらがな表記が増えている。これら定型の歌に混じって、次のような口語で非定型に近づく歌も見られる。

 逃げられてしまふのもいい わたしくをよぎるあまたのもののひとつに

 手ばなしの夏にあなたはゆれながら水のほとりにたたずんでゐる

 どこかで僕らを視てゐるのだらう 透明な湖水の底のしづかな鱒たち

 この傾向は、『ラスト・トレイン』ではさらに顕著となる。

 ぼうっとしてゐるあなたが好きでぼくはもうこんなところまできてしまった

 詳しくはしらないけれどロング・ボブみたいな髪型(かみ)でうつむきかげんで

 もうぼくはここにはゐない 校舎から自動オルガンの賛美歌が聞こえる

 もうそんなに薬を飲むのはやめないさい こんなしづかな星たちの夜に

 『愛の挨拶』にも破調の歌はあるのだが、その多くは上句に見られ、下句は定型でまとめられていることが多い。たとえば次の歌は七・七・五・七・七である。

 やがてかなしき狩りのロンドを吹き鳴らせ 十八世紀、春の小川に

 小池光「リズム考」(『街角の事物たち』五柳書院)によると、初句増音のうち、五音を七音に増やすのはいちばん無理がないという。だからこの増音は定型からの微妙なずれに留まる。

 ところが『ラスト・トレイン』になると、一転して下句の破調が多く見られるようになる。

 どうしやうもない僕たちのかたはらにエスケープ・ルートのやうな闇は降りたつ

 無理にでも「どうしやう/もない僕たちの」で区切るとすれば、五・八・五・十二・七となる。短歌の要である三句の「かたはらに」には、初句・二句の句跨り十三音を受け止める強さがなく、そのままなだれこむように四句の十二音に移行するため、ずいぶん定型から隔たった印象を残す。小池によれば、浜田到に「死に際を思いてありし一日のたとへば天体のごとき量感もてり」という四句十二音の例があり、小池の知る限りの最大増音の例だそうだが、中山のこの歌は同数音ながら浜田よりさらに破調の印象が強い。このように下句に非定型が増加していることは、中山の作歌態度の明らかな変化として捉えるべきだろう。第一歌集『猫、1・2・3・4』で塚本から「新鮮な古典主義」と評された歌風は、ライトヴァースへと変化しているのである。

 中山が短歌の世界から遠ざかったことを悲しんだ村上きわみは、「永遠のイノセント 中山明『ラスト・トレイン』小論」(『短歌ヴァーサス』2号)を書いた。この文章のなかで村上が強調しているのは、『ラスト・トレイン』全編に漲る〈訣れ〉〈これきり感〉〈喪失の気配〉であり、その白鳥の歌的印象である。確かに村上が引用している次のような歌は、不思議なほど透明で無音感に満ちたせつない世界である。

 さやうなら 訣れの支度ができるまで水鳥の発つさまをみてゐる

 いつかしづかな訣れの夜が来るまでのしらないふりのぼくたちのために

 ながれゆく風景の色 ぼくはただあなたのゆめをみてゐるだけだ

 ありがとうございました こんなにもあかるい別れの朝の青空

 村上は『ラスト・トレイン』のなかでも、特にライトヴァース的な短歌を選んで取り上げている。しかし、これを見て中山明の歌の世界だと思ってはいけない。このライトヴァース感覚の短歌は、文語定型の作歌技法を知り尽くした人だけが到達できる世界である。

 たしかに村上の指摘するように、『ラスト・トレイン』には喪失の気配が濃厚にたちこめている。それは中山の〈歌のわかれ〉と無縁ではあるまいが、もう一方ではすでに25歳の第一歌集『猫、1・2・3・4』に漂っていた老成の気配に由来するようにも感じられる。つまりは、中山は「見てしまった人」だということなのだ。

 私は村上とはちがって、『ラスト・トレイン』のなかではとりわけ次のような歌にかつての中山らしさを感じ、中山が遠ざかってしまった短歌の世界を愛惜するのである。


 薄墨の花に疲れてうつろへば昨日訣れし指をおもへり

 ゆるやかに死のあしもとへむかふきみのはぐれさうなそのまなざしをおもふ

 魅入られし者ゆゑふかく畏れたる死の蔭に降る春の淡雪

 モーツァルトを聴く部屋の椅子 いつか死ぬ者として在るこの世の隅に

 背(せな)青き魚のはこばれゆきたるはあふみ大津の春の花蔭

 鳥は樹にひとは泉に疲れたるたましひの緒をひたしゐたるかな

中山明のホームページ翡翠通信
http://www.ne.jp/asahi/kawasemi/home/