119:2005年8月 第5週 目黒哲朗
または、光のなかに生のかたちをくきやかに描く

水鳥のつばさを奪ふ シャッターを
       切りて時空の網を放てり

             目黒哲朗『CANNABIS』
 目黒哲朗は掲出歌を含む写真撮影を題材とした連作「つばさを奪ふ」で、平成5年度の歌壇賞を受賞している。写真は一瞬の時間を切り取り、印画紙に定着する。その行為を「時空の網を放てり」と表現しているのである。時間だけでなく空間もまたここに含まれるのは、時間を固定すると対象は空間的にも動くことができなくなるからであり、このように時空は私たちが生きる四次元世界において連動するパラメータとなっている。一字空けがあるのは、初句・第二句を「シャッター」にかかる連体修飾語と読まれたくないからであり、「水鳥のつばさを奪ふ」の隠された主語は〈私〉である。

 目黒哲朗は1971年(昭和46年)生まれ。「原型歌人会」会員で斉藤史に師事している。『CANNABIS』は2000年に出版された著者の第一歌集である。歌集題名のCANNABISは大麻草のこと。『短歌ヴァーサス』5号に掲載された伊藤一彦の文章によれば、歌壇賞の選考の際、選考委員のほぼ満場一致で受賞作に推されたという期待の大型新人である。

 伊藤は同誌の評のなかで、目黒の短歌の「みずみずしさ」と「少年性」に言及しているが、確かに本書を一読した人がまず抱く感想は、きらきらした夏の光のなかで息づく少年性であろう。それは次のような一連の歌のなかに特に強く感じられる。

 夏の蝶を捕へむとして逆光の父の背中を追ひかけてゐた

 夏草の茂る径(こみち)を父が踏みそして幼きわれが踏みたり

 ポケットに揺るる毒瓶みづいろのカミキリムシを眠らせてある

 夏の蝶の美しさとはかなさは少年時代の象徴であり、少年は蝶を毒瓶に封入するようにやがて少年時代を封印する。そのさまが逆光のなかの記憶として定着されている。宮崎駿監督の名作「となりのトトロ」で最も印象的だったのは、田舎家で父と暮らす姉妹の世界に溢れる光である。確かに昔を振り返ってみても、子供の目で見た世界には光が溢れていた。味を感じる舌の味蕾は年齢とともに減少してゆき、味に対する官能度が低くなるというが、視覚についても同じことがあるのだろうか。子供の眼球は大人よりも光刺激にたいする官能度が高いというような生理学的事実があるのかもしれない。目黒のこの一連の歌は、そのような官能度の高い少年の目で見た世界である。

 しかし少年性はいつまでも光りの溢れる世界に留まることはできない。光のなかに屈折と影が生じる午後がある。その過程もまた目黒の歌には捉えられている。

 寝転びて空へ投げたる自転車の鍵はひかりを溜めて戻り来

 くれなゐを抱くかたちに少年はポストの中の闇を覗けり

 紫と青の絵の具がいちはやく終はつてゆく十八歳の夏

 パレットで火薬を溶いてゐることに少年はいつ気づくのだらう

 寝転んだまま自転車のに鍵を空中に投げるという動作には、早くも微量の倦怠が感じられる。また少年はやがて、見知らぬポストの中の闇を覗くようにもなる。パレットに溶く絵の具が実はやがて発火する火薬であることに、まだ少年は気づいていない。これらの歌は成長してから過去の少年時代を振り返る形で作られており、そこに注がれる眼差しはもはや少年性を脱したものであることは言うまでもない。

 次のような歌は青年期を迎えてからのもの。ここでは詠われている世界と詠っている〈私〉とは時間的に同時であり、まごうことなき青春歌と言える。

 新宿は土曜日の午後 目をそらしあふことがとても美しい街

 ポケットに闇ひとつかみ忍ばせてキャンパスを行く学生われは

 二十代せめてガラス器くらゐには光りてやらむ毀れてやらむ

 自転車は夏へ走るを 冥府までいくばくもなき坂を思へり

 決して譲れぬ孤独がわれにあることもしぐるる窓に伝ふひかりは

 川風に揺るるワンピースのそばでこんなに遠くきみを思へり

 一首目、長野から在来線に乗ると新宿に到着する。長野から東京に出てきた青年の目には、東京とは人々が目をそらし合うよそよよしい町に見える。ここには地方在住者の軽い屈折と同時に、微量の憧れが感じられる。二首目は二松学舎大学文学部で学生生活を送る青年の歌であり、作者の自画像だが、ポケットのなかに一掴みの闇を持たない青年の方が少ないだろう。三首目、せめてガラス器のように光りたいという想いと、ガラス器のように華やかに割れてみたいという負の願望とが同居するさまを詠んでいるが、これもまた多くの青年に共有される心情である。四首目、まだ遠くにあるとはいえ死への思いは意外に青春の近くにある。五首目と六首目は対人関係を詠んだものだが、人に近くありたいという想いと、孤高を守りたいという想いは、これまたしばしば青年のなかにふたつながらに存在するものである。対人関係を詠んだ歌はこの歌集にそれほど多くない。ほぼ同世代の横山未来子の第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』に収録された歌の多くが相聞であり、横山の世界把握の中心に対人関係があるのとは対照的である。この事実もまた目黒という歌人の資質の一面を物語るものだろう。

 次のような歌は目黒のもうひとつの資質を明らかにしてくれる。

 雛壇は女(をみな)らの手に飾られぬ土中(つちなか)に蛇めざむるころか

 晩春の疎林をゆけば自転車は骨ぼね白くわれを離れず

 六秒の露光完了 陰画紙に記憶の森は焼きつくされて

 振る雪と雪のあはひのあかるさに死の装束は織られつつゐむ

 天変はちかく来たらむスケートの刃にたましひを載せている春

 桃を食ふ桃のひかりともろともに一夏(いちげ)のわれを葬るごとく

 ペン先のひかりを空に近づけてブルーブラックの夕暮れを待つ

 薔薇の花散る無秩序が美しい町ゆゑわれの消息を問ふな

 晩秋の虹眉(まみえ)濃く立ちにけり君のそびらの大いなる死者

 これらはストレートな青春歌ではなく、もう少し成熟した大人の目で世界を眺めており、そこに複雑に折り畳まれた感性の綾を見ることができよう。一首目、女たちが飾る雛壇と土のなかで目覚めようとしている蛇のあいだには、遠いながらも同期する官能的な関係が読みとれる。二首目はとても絵画的な歌で、乗っている自転車を白い骨と感じるのは、自転車と一体化した自分も同じように骨と感じているからである。三首目は連作「つばさを奪ふ」のなかの写真の現像室での作業を詠んだもの。「記憶の森は焼きつくされて」は、「記憶にある森が陰画紙に焼き付けられる」とも解釈できるが、それとダブルイメージで「森が実際に焼きつくされる」という意味を振り払うことができず、そこに世界の故なき暴力性が感じられる。四首目・五首目・六首目は集中で特によいと思った歌だが、これらは写実の歌ではなく、世界の把握の仕方にもう少し距離感があり技巧が凝らされている。内容的には危うい生をかろうじて生きていると実感したときの戦慄だろう。七首目と八首目はもう少し観念と作り込みの方向に踏み込んだ歌。これらの歌は「言葉」から出発して作られていて、集中では他の歌とは微妙に温度が異なる。

 文語定型を駆使する目黒の歌の安定感は高く、若手歌人のなかでも群を抜いている。かつて穂村弘は、紀野恵大塚寅彦中山明ら80年代に活躍し始めた歌人のなかで文語文体を駆使する人たちを取り上げて、彼ら以後そのような高度な文体を駆使する歌人は絶滅したと述べたことがある(『短歌ヴァーサス』2号)。その理由として、「八〇年代の終焉とともに若者たちは非日常的な言語にリアルな想いを載せるということが出来なくなったようだ」と続けている。しかしながら、紀野や大塚よりずっと下の世代に属する目黒や横山未来子らは、文語文体で清新な感情を詠うことに成功している。一方おもしろいことに、目黒や横山と同じ世代でも口語文体の歌人の第一歌集は、世界の閉塞感や漠然とした虚無感・終末感が色濃く漂っていて、「清新な青春歌集」というラベルがそぐわないものが多い。このちがいはなかなかおもしろい問題ではないだろうか。

 私は『CANNABIS』を、蝉の声が弱まってやがて聞こえなくなる夏の終わりに読んだ。光と影の交錯するこの歌集は、夏の終わりに読むのがよい。そう感じさせる歌集である。