第100回 岩尾淳子『眠らない島』

あれは明日発つ鳥だろう 背をむけて異境の夕陽をついばんでいる
                   岩尾淳子『眠らない島』
 夕陽が差しているので時刻は夕暮れで、明日発つと言っているのだから、北国か南国に向けて飛び立とうとしている渡り鳥だろう。ここが異境なのは、越冬か子育てのために一時的に滞在する場所だからである。鳥が背を向けているのは、もうすでに心はここにないためか。つまりこの鳥はここにいて、すでにここにいないのだ。まるで淡彩画のような淡い色調で描かれた情景は、ぱっと見にはメルヘンの一場面のように見える。しかし、この歌が描こうとしているのは「ここにいて、ここにいない」、すなわち存在と非在のかすかなゆらぎのようなものだと思われる。そしてこの世が異境であるのは、鳥にとってだけでなく、その背後にいる作者にとっともそうなのではないか、と憶測は膨らむのである。
 歌集巻末の自己紹介によれば、岩尾は2002年に「眩」に入会、2006年に未来短歌会に入会。2010年に未来賞を、2012年に兵庫県歌人クラブ新人賞を受賞している。歌集の跋文を加藤治郎が執筆しているので、「未来」の加藤の選歌欄に出詠しているのだろう。『眠らない島』は2012年に上梓された第一歌集である。
 加藤治郎は『短歌ヴァーサス』11号に寄稿した文章のなかで、自身の属するニューウェーブ短歌が短歌史でエポックとなった理由を次の3点にまとめている。
 (1) 革新という近代原理から自由になったこと
 (2) 口語の短歌形式への定着
 (3) 大衆社会状況の受容
 このうち(2)と(3)は塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌がなしえなかったことであり、ニューウェーブ短歌がそれを実現した瞬間に、近代短歌の革新性が終焉したのだと加藤は論じている。確かに事実認識としては加藤の言う通りに、現在までの現代短歌シーンは展開して来たと言ってよい。加藤は上の3点を挙げたが、このうち自身が最も腐心しているのは(2) の口語短歌の定着だろう。加藤の選歌欄「彗星集」に拠る歌人たちもまた、師の引いた口語短歌の道を走っている。『眠らない島』もまたほぼ口語による歌集である。
 口語で短歌を作る場合には、文語にはない問題がいろいろ生じるのだが、そのうち最もやっかいな難題は韻律の平板化(フラット化)だろう。
真夜中に鳴った電話はすぐ切れて2度とかかってきませんでした
自転車の高さからしかわからないそんな景色が確かにあって
               加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』
 一首目はマンガの登場人物の科白だと言われても納得してしまうくらいの平板さである。短歌に必要な修辞がここにはまったくない。二首目は一首目よりも優れている。歌の中程に切れがあり、結句を「あって」とテ形(日本語学ではこう呼ぶ)で結ぶことで跡を引く余韻が生まれている。このような修辞上の工夫によって形式が発生し、日常言語との異和が生じ、そこに内的韻律が生まれて来るのである。
 『眠らない島』を一読して優れた口語短歌集だと思った。その理由は、口語短歌の持つ問題をよく認識し、それを回避してポエジーを立ち上げる工夫が随所に凝らされているからである。それをひと言で表現すれば統辞と意味の「ゆらぎ」だろう。
遠ざかるものはしばらく明るくて二本の白い帆を張るヨット
 例えばこの歌では、上三句を読んだ段階で動詞「遠ざかる」の主語が明らかにされていない。読者は主語をカッコに入れたまま読まざるを得ず、宙吊りの状態に置かれる。遠ざかるものはいろいろ考えられるが、それを未決定の状態にしたまま言葉を受容する。言葉はゆらいで、さまざまなものとの結合関係の中をたゆたうことになる。下句に至ってそれが海を行くヨットであることが明かされるのだが、上句のたゆたいは完全に納まることなく浮遊し続け、ヨットには収束しない意味の余剰が生まれる。この「納まりきれないもの」がポエジーである。
車窓からとおくに見えていた水の北側にある春の病舎は
 「北側にある」を終止形と取れば「春の病舎」は主語になり、単なる倒置である。しかし「北側にある」を連体形と解釈すると、四句目までは「春の病舎」にかかる連体修飾句となり、「春の病舎は」の後が省略された不完全な文となる。このような解釈の両義性は歌の瑕疵とされることもあるが、この歌ではその両義性が「ゆらぎ」として働いている。また「水」が川なのかそれとも池なのか入り江なのかも多義的で、この歌に魅力があるとすれば、それはこの未決定性による。
遠くない小さな島のきりぎしに風をおくっているてのひらの
伸びきったホースをかたく巻きながらわからなくなる光のむきを
 この二首ではどちらも結句の「てのひらの」と「光のむきを」が文の残りと文法的にどのように関わるのかが曖昧にされている。一首目では四句までを連体修飾句と取れば、結句は省略的であり「言い差し」感が強く感じられる。また二首目では結句が「光の向きが」であれば、「光の向きがわからなくなる」の倒置形と見なせるが、最後の助詞が「を」であるために、統辞法が脱臼されてそこにゆらぎが生まれている。
 言語学で「袋小路文」(garden path sentences)と呼ばれている文がある。
The horse raced past the barn fell. 
 これをthe horse (主語)、raced (自動詞)、past the barn (付加詞)と頭から読んで行くと、「その馬は納屋を通過して疾走した」となるが、最後に来てfellでつまずいてしまう。実はこれは The horse [that was raced past the barn] fell. からthat wasが省略されたものであり、「納屋を通過して走らされた馬が倒れた」という意味である。garden pathとは庭の中をうねうねと続く道であり、たどって行くと迷うことからこの名が付けられた。 統辞上のゆらぎである。
 もちろんこのゆらぎをあまり多用すると、歌の意味がわからなくなってしまい、そのときは瑕疵として批判されることになる。だから必要になるのはゆらぎを適切にコントロールする技術なのだ。『眠らない島』ではこのゆらぎが実にうまく制御されてポエジーに奉仕している。口語短歌のひとつの方向性だろう。
 内容に踏み込んで読んでゆくと、作者が好んで取り上げる主題は時の移ろいだと思われる。そのことは冒頭の掲出歌にすでに現れていよう。作者は今目の前にいる鳥を見ながら、すでに明日の非在をも見ているのである。
終わらないものなにひとつ持たないで海をうつしているわたしたち
風がありわずかに草の穂をゆらす指がぬきとるまでの時間を
からだから離れるときに触れていた鎖骨のくぼみにのこる夕映え
バスタブの湯のおちてゆく音だけを記憶にのこしてしまう部屋かも
紙コップにコーラは半分のこされて終わってしまうそれだけのこと
 一首目の二重否定による表現には強い諦念が含まれており、それは時間の作用に関わるものである。二首目では「ある」「ゆらす」「ぬきとる」という三つの動詞が時間の経過を表していて、結句の「時間を」の言い差しの宙吊り感がそれを強めている。三首目の「離れる」、四首目の「落ちる」「のこす」、五首目の「のこされる」「終わる」など、すべては状態変化動詞で、その結果招来されるのは何かの喪失と非在である。
 また本歌集には鳥を詠んだ歌が多いことも注目される。
鳥ならがこぼした声のかたむきは見えただろうか退いてゆく波
欄干に飛びたとうとはしない鳥 めぐりの声を遠ざけたまま
この鳥はいつから庭にいたのだろう 細い雨なら見ていたのだが
鳥たちのどこにもいない明るさに磯の潮は満ちようとする
 鳥はやって来てはどこかに飛び去る。存在と非在の間を往還する鳥は、何かと何かの間(あわい)に引かれてしまう作者にとって格好の主題なのだろう。
 最後の特に印象に残った歌をあげておこう。
ときどきはぴくっと動くこの鳥の最後のことをひかりのことを
どこからが花なのだろう とめどなく零れてしまうほうへ牡丹は
白桃をひかりのように切り分けてゆくいもうとの昨日のすあし
もう一歩うしろにさがって立って見る死のあとにくるつよい陽射を
問いかけはひとつのひかり弧を描いて一羽は橋を越えようとする