第101回 都築直子『淡緑湖』

夏まひるメトロ冷えをりトンネルに長鳴鳥はこゑ呼びあひて
                    都築直子『淡緑湖』
 歌集巻頭歌である。汗が噴き出す東京の夏でも、地下鉄はもともと気温の低い地下を走っており、また車内はしばしば冷房が効きすぎているため、温度が低い。それを「夏まひるメトロ冷えをり」と最少の語句で的確に表現している。長鳴鳥とは古事記に登場する常世の長鳴鳥のこと。天照大神が高天原の天の岩戸に閉じ籠もってこの世が夜のように暗くなったとき、長鳴鳥を集めて鳴かせたところ、天照大神が外に出て来たとされる。この歌にはトンネルと天の岩戸のアナロジーがあり、長鳴鳥は警笛を鳴らしながら疾走する地下鉄車輌だと思われる。世界の尖端を行く近代都市東京の地下に古事記の世界を重ね合わせた重層性がこの歌の眼目である。
 作者の都築直子は第一歌集『青層圏』(2006)で現代歌人協会賞と日本歌人クラブ賞を受賞している。『淡緑湖』は2010年に上梓された第二歌集。『青層圏』を取り上げたコラムにも書いたことだが、元スカイダイビング・インストラクターという異色の経歴から生まれた次のような歌が注目された。
わがうへにふつと途切れしセスナ機のおとの航跡よぞらにのこる
着地場の暗がりの中に聞きとめよ にんげんが夜をおりてくるおと
高層の壁の真下にわれ一人のけぞるやうにいただき仰ぐ
足もとより空に直ぐ立つ垂線をふたつまなこに追ひ飽かずけり
垂直の街に来る朝われらみな誰か生まれむまへの日を生く
 地上に縛り付けられて二次元の世界を生きているわれわれとは異なり、都築は垂直方向に伸びる視線を有していて、それが上のような歌になって現れているのである。この視線は第二歌集でも健在であり、読者はここでも都築の歌を通して垂直方向へと誘われる。
チャレンジャーの飛行士たちはその朝の七十二秒をそらへ昇りき
鳥ふたつ羽ばたきながら飛び立てり地表にのこるいちまいのみづ
はるかなる銀河につづくおほぞらへまひるのぼらは飛び出しにけり
垂直の雨ふる朝の築地川 川の面濡れて空とつながる
 一首目は発射からまもなく爆発事故を起こしたスペースシャトル・チャレンジャーを詠んだもの。二首目は飛び立つ水鳥を詠んだ歌だが、下句を見るとどう見ても水鳥の視点に立っているとしか思えない。三首目のおもしろい所は、ボラの跳躍はたかだか数十センチに過ぎなくても、それはもはや空の一部であり、その空は遙か彼方の銀河と連続しているという見方である。確かに高空からパラシュート降下したら、遙かな高空と地表から数十センチの空間は連続的だと実感できるのだろう。四首目も同工異曲の歌で、川の面に雨が降ることによって、川と空が連続すると感じている。これらの歌は日常の世界の見方を少し修正する発見の歌だと言えよう。
 それは確かにそうなのだが、今回『淡緑湖』を一読して注目したのはこのような歌ではなく、作者の歌境の深化と日本語の深みへと下降する意志を見せる歌である。
睡蓮はいつくしきかなひるふかく水面に浮かぶ言ひさしの口
てのひらのみづ蛇口より吊るされてわれはあしたのすがほを洗ふ
影ふみの影は濃きかなどの影も一世ひとよ添ふべきいちにん持ちて
甕覗の空のふかさを仰ぐときうつしみぐる血のおと聞こゆ
蛍光灯またたく下に箒ありてアンドロメダ忌の下駄箱に
日照雨ふるひかりの中のこゑならむこゑならむとして棕櫚は立ちたり
わが時計いのち終はれば文字盤に添ひこし時間ときは住み処うしなふ
 第一歌集よりも韻律がなめらかになっていることに気づく。それは言葉の斡旋と句切り技術の向上によるものと思われる。また新しい語彙や表現を貪欲に取り入れようとしている。たとえば「甕覗かめのぞき」とは、藍染の染料の入った甕をちょっと覗いた程度の極淡青色を言う。あとがきに「私という人間は、90パーセントの日本語と、10パーセントの水から出来ている」と書いた都築にとって、この4年間は日本語の海の豊饒さに気づく年月だったことが想像される。
 さて、上に引いた歌にはそれぞれ鑑賞ポイントがある。一首目は断然三句目の「ひるふかく」である。睡蓮の姿形を「言ひさしの口」に喩えた比喩もよいが、「ひるふかく」によって歌に時間的奥行きが生まれている点は見逃すことができない。ぐっと歌に差し込むことによって歌が生きる一語があるのだ。二首目は流れる水道の水を「吊るされて」と表現した点。三首目はどの人にも自分の影があるという常識を逆転して、どの影にも付き従う人がいるという見方を示したところだろう。四首目は広大な空と小さな〈私〉という空間的対比に視覚と聴覚の対比を重ねた点。これにより歌に対句的均衡が生まれている。五首目のアンドロメダ忌は埴谷雄高の忌日で2月19日。この歌ではチカチカと明滅する蛍光灯、箒、下駄箱という昭和ノスタルジーを感じさせるアイテムを揃えたところがおもしろい。ドラエモンのどこでもドアのように、下駄箱とアンドロメダ星雲とがつながっているような気すらしてくる。六首目は「こゑならむ」のリフレインによって棕櫚の希求を際立たせた点。七首目は時間を詠った歌だが、針の回転という物理的運動によって不可視の時間を形象化している時計が停止すると、時間が行き場を失ってしまうという見方がポイントである。
 作者の歌境の深化を最もよく表しているのは、次のような歌かもしれない。
肉まんを鋼箱はがねのはこに閉ぢこめて極超短波からみあふみゆ
掃除機の鼻やはらかに掃除機の胴を巻きをり水無月まひる
ひるすぎの蕨医院の床のうへスリッパはみな立つてをりたり
 言うまでもないが鋼箱とは電子レンジで、これはレンジで肉まんを温めている光景である。また二首目は掃除機を立てホースを巻き付けて片づけてあるという、どこのご家庭でも見かける光景だ。三首目は町医者の待合室である。いずれも何と言うことのない日常見慣れた風景である。しかしその日常卑近な光景が実に見事な歌の姿に納まっているところに作者の手腕がある。一首目は「閉じこめて」から「からみあふみゆ」への続き、二首目は四句で言い納めて、結句に「水無月まひる」を置いたところに工夫がある。三首目は患者のいなくなった昼過ぎという時間の選択と、「蕨」と直立するスリッパの連想関係である。
 日本語の海へと漕ぎ出すことで歌が深化する。当たり前のことだが、その作者の自覚が結実した歌集と言えるだろう。