第107回 神野紗季『光まみれの蜂』

影よりも薄く雛を仕舞う紙
     神野紗季『光まみれの蜂』
 神野紗季こうのさきにはすでに20歳の折に編んだ『星の地図』という句集があるが、『光まみれの蜂』は『星の地図』からも数句を取り入れて出版された第一句集である。『星の地図』は初期句集という位置づけで、作者自身が若書きと捉えた結果だろう。俳句甲子園の出身で、2002年に芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞という長い名前の賞を受けて以来、期待の新人として注目されてきた。待望の第一句集で、楽しみかつ感心しながら読んだ。
 多くの人の指摘するところだが、神野の句の特徴は若々しく伸びやかで繊細な感性にある。例えば掲出句は、桃の節句を過ぎ、雛人形がその役目を終えて、また一年の睡りに就く場面を詠んでいる。人形をていねいに薄葉紙でくるむのだが、その紙が影より薄いというのである。人形の影はわずかなものだが、その影に着目し、また薄葉紙と対比させるのは細やかな注意力と感性と言えるだろう。
 テーマ批評的に捉えるならば、この句集は光の句集である。
ブラインド閉ざさん光まみれの蜂
光る水か濡れた光か燕か
団栗にまだ傷のなき光かな
さざなみのひかり海月の中通る
秋蝶と小指の爪の光かな
校舎光るプールに落ちてゆくときに
 一句目は陽光が眩しいのでブラインドを閉じようと窓に近づいたときに、窓枠に蜂が留まっているのに気づいた場面だろう。その蜂が光まみれだというのだが、ひょっとしたら蜂は死にかけているのかもしれず、そこに一抹の暗さが感じられる。二句目は目の前をすばやく飛び去る燕の印象を、光る水か濡れた光かと詠んだもの。濡れた光とは燕の羽の艶やかさを言い当てたものだろう。三度繰り返された「か」に速度が感じられる。三句目は説明不要で、地に落ちて間もない団栗である。後にまた触れるが、神野の句には時間の経過を感じさせるものがあり、この句もそのひとつである。ポイントは「まだ」という副詞で、やがて風雨に曝された団栗が光を失う予感がそこに込められている。この予感から広がる想いがあり、見かけよりも奥行きの深い句である。四句目は半透明のクラゲの中を光が通過するといういささか幻想的な句だが美しい。六句目は高飛び込みの場面を詠んだもの。いかにも若々しい躍動感が感じられ、この素直さが神野の身上だろう。
 もちろん光があれば暗さがあり、光と影はその意味で一体のものである。本句集には影を詠んだ句もある。
シンク暗し水中花の水捨てるとき
桃咲いて骨光りあう土の中
靴音を聞きつつ死んでゆく兎
食べて寝ていつか死ぬ象冬青空
ある星の末期の光来つつあり
 とはいえ影はまだ抽象的でそれほど具体的で生々しくないのは若さの故だろう。二句目は不思議な味わいの句で、桃の木の下に埋まっているのは死者の骨か。最後の句は億光年の彼方から地球に届く光を詠んだものだが、もちろん光が到達する頃にはその星はもうないのである。若い頃には星空を見上げてこういう想いに捕らわれることがある。
 神野の俳句の魅力のひとつは、句に詠まれた出会いの新鮮さと、それを捉える感覚の清新さにあるのではないかと思う。
ライオンの子にはじめての雪降れり
船上のひとと目の合う氷菓かな
冬林檎椅子の曲線とも違う
人類以後コインロッカーに降る雪
 一句目のライオンの子は動物園産まれだろう。日本生まれのライオンの子はこの冬に初めて雪を見るのである。ここにはライオンの子と雪とのお初の出会いがあるが、私たちが感心するのは、見慣れたはずの雪を見て作者がこのことに気づいたという点にある。見慣れたものを新しく見せてくれるのが短詩型文学の魅力のひとつだ。二句目は川岸のベンチか何かに座ってアイスクリームを食べている光景か。すると川を行く船に乗る人とふと目が合った。もちろん知らない人で、船は進んで行くから人も視界から遠ざかる。目が合うのは一瞬のことである。そのことに特に意味はない。しかしこの句にはその一瞬の出会いを掬い上げる心がある。三句目はテーブルの上のリンゴの丸みと食卓の椅子の背か脚の曲線とを比較している場面。上の方は曲率が大きく下に行くほど小さくなるリンゴの絶妙な形状にただ感嘆するのではなく、それを椅子の曲線と較べるところがやはり出会いなのである。四句目もまた雪の句だが、人類の出現以前にはコインロッカーに降る雪という風景は存在しなかったことに想いを馳せている。この句の背後に数万年から数百万年にわたる時間を幻視することもできよう。
 あからさまではないが「船上のひとと目の合う氷菓かな」にも時間の経過が潜在している。船は進み人は視界からやがて消えるからである。この時間は溶けてしまうアイスクリームにも表現されている。団栗の句でも触れたが、神野の俳句にはときおり時間を強く感じさせるものがある。
ゆるゆる捨てる花氷だった水
すこし待ってやはりさっきの花火で最後
 花氷とはよくパーティー会場で見かける生花を封じ込めた氷柱や彫刻のこと。パーティーが終わり後片付けをする頃には、もう氷は溶けてぐたぐたになった花しか残っていない。その水を流しに捨てるのである。この句のポイントは「だった」の過去形で、この過去形が美しくパーティー会場に鎮座していた花氷の過去と、もはや単なる水と化してしまった現在とを一句の中に共存させている。二句目は打ち上げ花火を見ている場面。威勢良く何発もの花火がボンボンと夜空に打ち上がる。さて次の花火はと待つ少しの時間がやがて長い時間へと変化し、もう花火大会は終わりだとわかる。これが最後の花火だとわかるのは、その花火を見ている時ではない。次が上がらないことがわかった時に、時間を遡ってあれが最後の花火だったのだと悟る。まるで私たちの人生のようではないか。自分が幸福だったと知るのはその幸福が過ぎ去った時だからだ。神野はこのように、複数の時間を一句に共存させたり、意識のなかで時間を遡行させたりしている。俳句は字数が少ないため、ひとつの場面・情景を活写することに腐心するのがふつうだが、時間の経過を取り込む神野の工夫は注目されるところである。
 好きな句はたくさんあり、その多くはすでに上に引いたが、残る何句かを挙げておこう。本句集に収められた句のいくつかが私の愛唱句になることはまちがいない。
ひきだしに海を映さぬサングラス
目を閉じてまつげの冷たさに気づく
淋しいと言い私を蔦にせよ
天の川かすかに雪の匂いして
これほどの田に白鷺の一羽きり
石鹸玉小さきものの遠くまで
紙雛張り合わせたるところ透く
ひとところ金魚巨眼となりて過ぐ
キリンの舌錻力ブリキ色なる残暑かな