第13回 小林幹也『裸子植物』

「快楽の園」の中央パネルから叔母の視線はわが頬にずれ 
            小林幹也『裸子植物』(砂子屋書房)
  「快楽の園」は15世紀ネーデルランドで活躍した画家ヒエロニムス・ボッシュの 代表作で、スペインのプラド美術館に所蔵されている。3枚の板絵からなる祭壇画で、 中央パネルには裸体の男女が淫欲にふける有様が描かれており、右パネルには地獄と覚しき場所に奇怪な生物がうごめいているという絵である。したがって掲出歌の叔母は男女の淫欲の場面を凝視していたのであり、ついで叔母の視線が横に立つ甥の私の頬に注がれるということは、叔母がボッシュの悪魔的想像力に感染したことを意味する。少ない言葉の組み合わせで緊迫した場面を描き、このあとに起きる出来事の予感と怖れを余韻として残す歌である。情よりは知的な仕掛けに傾いた短歌と言える。
 作者の小林幹也は1970年生まれ。89年に近畿大学で教鞭を執るようになった塚本邦雄に傾倒し昨歌を始め、大学で塚本の副手まで務めて「玲瓏」会員となる。1999年に玲瓏賞、2000年に現代短歌評論賞を受賞。現在「玲瓏」編集委員。『裸子植物』は2001年刊行の第一歌集で、解題は師の塚本が執筆している。最近出版された若手歌人のアンソロジー『太陽の舟』(北溟社)にも参加しており、おそらく第一歌集以後のものと思われる歌を読むことができる。
 さてその作風だが、これがなかなか変わっているのである。
木製の郵便番号忘れたりジャムバディスタ・デラ・ポルタ
元素周期乱るる夜にはフォンタナの「切傷」向けて風ぞ流るる
貝殻を閉じて祈ればシャガールの生涯こぼれ落ちたり、晩夏
マッチ擦る手つき真似つつ仙台のメリメ読みゐし少女を思ふ
バリトンを天日干しする海岸にうつぶして死ぬ海亀一家
レイキャビクのトイレで凍死せし祖父を偲び今宵は北ウィング
海豚ショウ司会者発狂降板を告ぐる水族館内放送
 小林の歌に溢れる固有名詞は歌の重要な素材となっているが、これは博覧強記の師譲りだろう。たとえば一首目のジャムバディスタ・デラ・ポルタはイタリア・ルネサンス期の学者で、中世的魔術と自然科学の間にいた人である。だからその名の喚起する意味野は科学味を帯びた魔術で、想起される場面は珍奇な動植物や実験器具のならぶ薄暗い書斎だろう。「木製」は「木星」の誤植ではないかと思うが、いずれにしろルネサンス期の学者と郵便番号の取り合わせによって、読者は一種の知的な跳躍を余儀なくされる。そこに日常の狭間に虚の空間がぽっかり口を開くという仕掛けになっている。
 二首目のフォンタナは20世紀イタリアの美術家で、キャンバスをナイフで切り裂く空間主義の芸術で知られる。ちなみに元素周期が乱れることは現実にはないので、二首目はいきなり非現実の設定から入るのだが、フォンタナの絵に向けて風を吹かせたところがミソである。三首目にはシャガールが登場するが、画家シャガールと貝殻や晩夏とは特につながりはない。つながりのないものをあえて取り合わせている。もしこれがロバやバイオリンだったら画家との関係が濃厚すぎて、シャガールを詠う歌になってしまう。作者はそれを意識的に避けているのである。
 四首目にはメリメを読む少女が登場し、他の歌よりもう少し物語を感じさせる。しかしたとえそれが物語だとしても〈私〉が参加する物語ではなく、囲炉裏の端で語られる無人称的な「○○譚」の趣が濃い。作者や作者が投影された作中人物のいかなる現実にも、この物語は対応していない。要するに虚なのである。この傾向が高じると限りなく〈奇想〉に近づく。これが五首目・六首目・七首目の歌である。バリトンを天日干しにするとか、レイキャビクのトイレで凍死するとか、イルカショーの司会者が発狂するなどはシュールな設定であり、唐突かもしれないが、「校長の無心念仏 源氏名が額に浮かび青ざめるミカ」などの笹公人の念力短歌が頭に浮かぶ。ただし、笹の眼目は究極的には抒情にあるのだが、小林の狙いは抒情にはなく、ただ〈虚〉を作り出すことにある。
 もちろん小林の短歌が単なる知的遊戯だというわけではなく、そこに一抹の皮肉と苦みというスパイスが利かされていることもある。
革命後本土に積もる初雪と喪服の裾の綻び加減
骨牌(かるた)その「骨」の部分を捲りゆく戦争未亡人の寄合
卓上燈、傘に埃の層ありて原爆投下地点を照らす
日本兵残し撃ち止めクアラルンプールのクリアランスセールは
断食の果てに響くはハライソへ寄する波調の戦争ワルツ
コンビニの定員聖痕あらはして卒倒そのときイラク空爆
 たとえば一首目の基調は革命幻想への皮肉であり、二首目では骨牌の語から骨を導き出し、それは当然ながら戦死者の遺骨を連想させる。カルタ遊びに興じる未亡人との対比が皮肉の核だろう。セールの終了はふつう「打ち止め」と書くが、それをあえて「撃ち止め」と表記して残留日本兵へと意味的につなげるのだが、「クアラルンプール」と「クリアランスセール」の言葉遊びも加えることを忘れないのである。蛇足ながら六首目の「定員」は「店員」の誤植だろう。
 小林はあとがきの中で、「叙情的なものへの嫌悪」を率直に語っている。「人を感動させなければ文学ではないなどという文学観」は自分には馴染めず、「共感などという皮膚にべったりと吸い付いて来る感情」は性に合わないという。その代わり「一首のなかにどれだけドラマや映像を喚起させる要素を盛り込めるか」に神経を注ぎ、「読者が違和感を抱くことを狙っていた」と述べている。その目的は「異質なるがゆえに、目を逸らすことができないという存在が世の中にはある」ことを示すためだという。つまり小林が狙っているのは、ひと言で言えば「異化効果」ということなのである。本書に収録された歌によって、その目的は十分に果たされていると言えるだろう。
 しかしである。池田裕美子の第二歌集「ヒカリトアソベ」の帯文に小池光が寄せた「あゝ短歌! 時間の淵にゆれうごく、哀しい花と思いたい」という言葉に、私はどうしても惹かれてしまうのである。だから本書でも作者の意図を裏切って抒情の滲み出る次のような歌群に目が止まる。作者は不本意であろう。
「言葉いづこに流れ奔るや」空心町二丁目の電停も滅びて
ともしびの消ゆるたまゆら浮かびたる古き玩具の秘むる寂しさ
不摂生たまる晩夏にすずしきは二重まぶたの女医のまばたき
ポートワインその広告がほんのりと日に焼けてゆく地下鉄出口
イスパニアその幻惑と幻滅の間に血の色のトマト転がる
恋に殉ずるなどそのかみの夢にしてわが踏みしだく喇叭水仙
 しかしである。若手歌人のアンソロジー『太陽の舟』には、小林の「死後の音域」と題された自選60首が収録されている。この収録作品では『裸子植物』の奇想と異化はすっかり影を潜め、小林が嫌ったはずの抒情的な歌が並んでいるのである。
おぼつかなげに昆布茶を運ぶ君がゐて画廊の空気が若返りゆく
雨の日に荷物が多い恋人を待つ紫陽花の咲く公園に
真夜中にテレビの台を組み立てるふたりの未来を固定するため
また無地に戻されてゐる看板を駅より見たり師の逝きし日も
海に帰る鯨の群を眺めをり盆近き日の夢の終はりに
投函とともに指輪を落とす夢ちりんと響くこころの底に
 最初の三首は実に素直な恋する若者の歌であり、「昆布茶」の選択にややひねりはあるものの違和感のかけらもない。残りの三首も韜晦や衒学からはほど遠い抒情の発露で、読者の「共感」指数は高いだろう。その証拠に、60首中固有名の登場する歌はごく僅かで、これでもかと言わんばかりに固有名に溢れていた『裸子植物』とは対照的である。『太陽の舟』の作者短信によると、どうやら小林は結婚し長女が生まれたらしい。歌に対する姿勢の変化と歌の質感の変貌は、実人生の変化に起因すると思われる。
 変貌もまた好し。新たな生を得るとは自らの死へと一歩近づくことでもある。この苦い認識が人を変えてもおかしくはあるまい。『太陽の舟』収録歌の中では特に次の歌が印象に残った。音楽を追究して遂に沈黙の領域に達した作曲家と教室内のかすかな私語の対比が見事である。
とほき彼方の席には私語の音域がありジョン・ケージを講ずるときも