第14回 なかはられいこ『脱衣場のアリス』

うっかりと桃の匂いの息を吐く
         なかはられいこ『脱衣場のアリス』(北冬舎)』
  正直に告白すると、疲れて口もききたくない時や心屈する時に私が繙くのは、短歌の歌集ではなく俳句の句集である。こちらの心的エネルギーが低下している時には、短歌に充満している〈私〉は鬱陶しい。「今度付き合ってあげるから、今日は勘弁してくれ」という気持ちになる。これに対して、俳句はその極端な短さ故に、内面化された〈私〉を組み込むことが難しい。だからこちらが落ち込んでいる時にも俳句は邪魔にならず、言葉の世界へ飛翔できる。もっとも中には人間探求派と称された加藤楸邨の名句「サタン生る汗の片目をつむるとき」のように、思わず正座したくなる句もあり油断ならない。しかし、おおかたは俳句の得意とする小さな発見と認識の更新によって、当方の凝り固まった脳細胞を解してくれる。それは指圧のように心地よく、陶然となるのである。
 さて、掲句のなかはられいこは川柳の作家である。短歌の作者は歌人、俳句の作者は俳人という呼び方があるが、川柳には作者の呼び名がないようなので、とりあえず川柳作家と呼んでおく。なかはらは1955年生まれで、様々な柳誌の他、「ラエティティア」にも参加して活発に活動している人である。『脱衣場のアリス』(2001年)は第一句集『散華詩集』(1993年)に続く第二句集である。『散華詩集』も読んでみたかったが、川柳句集の入手困難さは短歌歌集のそれに倍するものがあり叶わなかった。川柳句集の流通度の低さは、川柳が「場」の文芸であることに深く関係していよう。『脱衣場のアリス』は明るい色のイラストが表紙を飾っていて、俳句・川柳から連想される古い日本家屋の黴臭さとは無縁のボップな感覚である。
 句集は7つの章に分かれていて、各章には詞書きが添えられている。例えば第1章は「からだとこころ、こころとからだ。うそをつくのはいつでもこころ」、第2章は「いただいた箱はからっぽでした、おかあさん」という具合である。これを見るとゆるやかながら各章にはテーマのごときものがあり、作者の構成意識が働いていることがわかる。
 いくつか句を引いてみよう。
たそがれに触れた指から消えるのね
五月闇またまちがって動く舌
くちびるがいちばん昏くなる真昼
開脚の踵にあたるお母さま
足首にさざなみたてて生家かな
記録的涙のあとの鮭茶漬け
三月の水の昏さが手首まで
ウォシュレットぷらいどなんてもういいの
はつこいや月星シューズおろしたて
タンカーをひっそり通し立春す
 いずれも素敵な句で何度も口の中で転がしたくなるが、さてどう読み解くかとなると言葉に窮する。短詩型文学ではよく経験することだ。こういった句を味わうには、そもそも「読み解く」ことが必要かという根源的疑問に立ち返らざるをえない。短歌の世界では歌集が出版されると批評会を開くが、聞くところによると俳句・川柳ではしないという。また歌会では取り上げた歌をめぐって長々と議論が交わされることがあるが、俳句・川柳ではあまりないらしい。同じ短詩型文学でも俳句・川柳は説明を嫌うのである。なぜだろう。
 例えば上に引いた「たそがれに触れた指から消えるのね」を例に取ると、黄昏という時間に直接触れることはできないし、現実には人の指が消えることもない。だからこの句を日常言語の語義レベルで解釈すると理解不能である。これが日常言語ではなく文学言語であることを考慮して一段階レベルを上げると、次に開かれる解釈過程は喩となる。つまり日常的には理解できないことも、作者の表現したい何かの喩ではないかと取るのである。短歌の解釈過程は通常この経路が重視されており、それゆえに短歌的喩を巡って様々な議論がなされてきた。例えば「白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり」という高野公彦の有名な歌は、日常言語のレベルでも十分に意味は解釈できるが、そのレベルでは「自転車が夜露に濡れている」という陳腐な意味を表すに過ぎない。この歌では「ほそきつばさ」に喩の全量が架かっており、市井に暮らす平凡な人間の抱く飛翔への願望とそれが叶わぬ悲哀が、喩という二次レベルでこの歌の放射する意味である。だから短歌を十分に味わうには、「読み」と呼ばれる解釈と説明が必要なのであり、短歌は優れた読みをなされることで名歌として後生に残る。だから読みは短歌の生命線と言ってもよい。
 しかし俳句・川柳では事情が異なるようだ。近代俳句の基本が写生に置かれたことから生じる即物性と、17文字という極小の形式に由来する物理的制約から、俳句・川柳の言語の詩的浮揚力は喩にではなく、言葉の連接による衝撃力に求められた。例えば橋本多佳子の「乳母車夏の怒濤によこむきに」では、赤子を乗せた乳母車という小さく無力な存在と、夏の海の大波という大きく力強い存在の対比が鮮烈な光景を生み出している点が眼目であり、乳母車も夏の怒濤も二次レベルで喩として働くわけではなく、また句全体を短歌的喩として読むべきものでもない。言葉の取り合わせが生むイメージの喚起力がすべてなのである。この傾向をさらに推し進めると、橋本の句のように言葉の連接が写生的景色を表現するのでなく、言葉の連接自体の生み出す軋みと衝撃力に詩を賭けることになる。例えば惜しくも若くして泉下の人となった摂津幸彦の「物干しに美しき知事垂れてをり」や「みづからへ手首寄すらば酸き渚」などの秀句は、言葉の連接による衝撃力というレベルでのみその詩的圧を味到すべき作品である。だから物干しから垂れている知事に何かの意味を読もうとしても無駄なのである。
 なかはらは『短歌ヴァーサス』第3号に「『思い』は重い」という文章を書いている。ふつう川柳は「思い」を詠むものだと教えられるが、本当にそうかと問いかけ、「わけあってバナナの皮を持ち歩く」(楢崎進弘)でバナナを何かの比喩だと解釈するとおもしろさの90%は失われてしまうのであり、バナナの皮はただバナナの皮とだけ取るべきだと述べている。この主張を見る限りなかはらは俳句に限りなく近づいているようで、なかはら自身の作品もそのような文脈で読むべきなのだろう。
 このような眼をもって再びなかはらの句に向かうと、その魅力が一段と輝くように思われる。「たそがれに触れた指から消えるのね」では、「たそがれに触れる」が喚起する一抹の寂寥感と「指から消える」の他界へフッと抜け出るような感触が夢幻的雰囲気を作り出しており、「消えるのね」の口語の使用が一層柔らかい手触りを句に与えている。「五月闇またまちがって動く舌」では、川柳ながら俳句特有の夏の季語「五月闇」を用いている点も注目されるが、「またまちがって」と「動く舌」の意外な組み合わせがおもしろい。ちなみにこの句の「舌」や上の引用句の「唇」「踵」「手首」など、なかはらの句には身体部位がよく詠まれており、それが句に体感的な温度を与えている点にも注目してよい。
 その他の特徴としては、効果的な口語の使用と平仮名の多用が指摘できるが、これは現代短歌の傾向と一致している。川柳では間を作り出すことによって余韻と詠嘆を生む切れ字を余り使わないのだが、なかはらには「足首にさざなみたてて生家かな」のように切れ字を用いた句もあり、いろいろ抽出を開けて実験しているという感がある句集である。
 もう少し引用してみよう。
にくしんが通る網戸のむこうがわ
大根も牛蒡も切ってさてあなた
いちねんや単三乾電池が二本
洋梨の匂い 留守番電話から
ウルトラの父より先に来る電車
この傘は夜の匂いのまま開く
ローソンへ小さく前へならえして
アンプルの首折る音とすれちがう
 『脱衣場のアリス』の巻末には、「なかはられいこと川柳の現在」と題された石田柊馬・倉本朝世・穂村弘・荻原裕幸の座談会が掲載されていて、句集としては異例のことだろう。話題の中心は俳句と川柳のジャンルとしての違いで、穂村と荻原という二人の歌人が石田・倉本という二人の川柳作家に、「俳句と川柳はどこがちかうのか」と執拗なまでに問うているのがおもしろい。結局二人の歌人が納得する答えは得られていないのだが、議論の中から短詩型文学に共通する問題が浮かび上がっている。
 例えば穂村は「開脚の踵にあたるお母さま」はよい句で「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」はよくない句だとし、その理由は、前者は定型というフォルムの要請で掴んで来た言葉なのに対して、後者は始めから持っていた世界観を表現したものにすぎず、これを定型のフォルムの中で提示してもまったく意味がないと述べている。いつもながら穂村の指摘は鋭く勘所を突いている。あらかじめ用意した言葉ではなく、定型というフォルムの中で選ばれ連接された言葉だけが認識の更新と詩的圧を生み出すのであり、世界を洗い直すことを可能にするのである。